ああ、桜が綺麗だなあ――なんて感傷に浸るつもりはこれっぽっちもなかった。ただ、気づいたら視線の先に捉えていた金色は忽然と姿を消していて、部長とさっきまで談笑していたはずだ、とか、そもそもあのひとがこんなときに消えるわけない、とか、とにかくいろいろな感情がせめぎあって、ぐるぐると俺の頭をかき乱していった。走ろうにも、彼がどこに行ったのかわからない。いつだってやってくるのは彼ばかりで、距離を縮めてくれるのだって彼で、俺自身はなにひとつ、彼のためにしたことがなかったんだ。
 ひらひらと桜の花びらが散っていく。今年は早咲きらしいと誰かが言っていた。あのひとはきっと、桜を見ただけでも泣いてしまう。涙もろいひとだから。そのくせ試合で負けても泣かない。肝心なときに泣かない。足が勝手に向かう先は部室だった。今はもう、彼らの居場所なんてないはずの、俺が鍵を預かっている部室。独特のほこりっぽい空気の中だって、彼はいつも笑っていた。着替えもスピードスターやで、って笑いながら、他の先輩にどつかれて、勝手にキレて、でもやっぱり最後には笑う。彼のロッカーはたしかに俺の隣に並んでいたのに、今俺のロッカーの隣は空っぽだ。誰かがつっこんだらしい、ヤングジャンプが2冊、入っているばかりで。
 今日は朝から部室の鍵を開けておいた。とくに考えた上での行動ではなかったけれど、妙な確信があった。予想通り、部室のドアは開いていて、「なんやねんこれ」となつかしい声が聞こえてきた。はやる気持ちはどこにもない。むしろ、ずっと彼が卒業しなければいいと思っている。胸元に挿しているであろう、卒業生の花。それを見たくなくて、俺は彼が体育館に入場してから退場するまで、一度も顔を上げなかった。そして、卒業式が終わると同時に一斉に卒業生が在校生に囲まれているのだって、遠巻きに見ていただけだ。テニス部の先輩らは一番騒がしいからすぐにわかる、しかもその中心にはいつもあんたがいた。目立つ金髪を揺らして、いつだって笑っていた。笑って、財前もこっちきいやって、呼んでくれた。それでも俺が行かないときは、彼が俺を引っ張ってでも連れて行った。
 ゆっくりと息を吸って、吐く。心の準備はできた。今は、俺のためじゃなく、彼のために告げなければならない。
 俺は、しっかりと足を踏み出した。


 ずっとずっと言いたいことがあった。感謝の言葉でもなければ、胸に抱いている淡い恋心の告白でもない。そんなの、いまさらだ。だって、これまでずっと言えなかったくせに、卒業式だからって、彼の誕生日が過ぎたからって、言えるわけがない。だから、ただ、聞きたかった。あの日、彼が千歳先輩にダブルスを譲って、俺らのダブルスが消滅した日。俺は知っている。本当は俺じゃなくて、あのひとが出るべきだったこと。天才だとか、二年でレギュラーだとか、たしかに俺はあのひとよりも優れたプレイヤーだったのかもしれないけれど、精神的にはよっぽどあのひとのほうが強かった。
 俺とあのひとのダブルスは、公式戦の記録では一度も組まれていない。準決勝が、はじめてだった。浮き足立つ心を抑えきれずに、俺はただあのひととのダブルスで勝つことしか頭になくて、試合中ずっとあのひととテニスができるんだって考えていたらどうしようもなくて、ホテルでわざわざ謙也さんの部屋にまで行った。部長はちょうどいなかった。
 ああ、財前。そう言って、彼にしては珍しく陰りをおびた表情で俺を見つめてきたあのひとは、多分もう、そのときには決めていたんだと思う。自分の代わりに千歳先輩を出すことを。それがチームのためなんだって、一番わかっていたから。だけど俺は気づかなかった。試合前で、準決勝前だから、さすがにこの能天気なひとも緊張しとるんやろな、明日は楽しめたらええな。その程度にしか考えていなかった。
 ねえ。謙也さん、あんたは俺と、ダブルスがしたかったんですか。


 部室に入った俺は、半年前までは使われていたはずのロッカーを覗き込んでいる謙也さんの背中に蹴りを入れる。あだっ、と声をあげると、謙也さんは振り向いて俺を見た。久しぶりっすね、と言った俺に、せやなあ、と謙也さんは答える。その声にはどこか大人っぽさがあって、これが卒業かと思うと時間を巻き戻したくなる。俺の知っているあのひとは、こんなに大人びた表情を浮かべない。もっと無邪気に笑うんだ。なんで、こんな。あんたは、俺が知らない顔で、俺が知らない態度で、俺が知らない笑みを浮かべて、黙って俺の頭を撫でようとする。ばっとその手を払いのけても、謙也さんは涼しい顔をしたままだ。片手にヤンジャンを1冊持って、これ俺のロッカーに入っとったし、もろてもええねんな、って言う。そこはもうあんたの場所じゃない。あんたの場所じゃないけど俺があんたのために空けておいた場所だ、だけど、結局それもこれもあれも、全部、俺はあんたのためだって思いながら、あんたを忘れていく自分がいやで残しておいただけだった。どうせ一番端っこのロッカーだから誰も使わない。一番扉に近い代わりに、一番ぶつかりやすい場所で危ないから、着替えが遅いやつはそこのロッカーを使えない。謙也さんくらいだろう、そこのロッカーを使っていても怪我をしなかったレギュラーは。

「なあ、財前」
「……はい」
「俺な、自分とのダブルス、めっちゃ楽しみやったんやで。知っとった?」
「知るわけ、あらへんやんか」

 誰と組もうが楽しそうだったくせに。いつも個人プレーにはしる俺を叱ってばっかりだったくせに。もっと俺を見ろって怒鳴ったくせに。俺の気持ちなんか全然知らないで、俺がどんだけあんたを見てるのかなんてわからないまま、気づかないまま、あっさり役目をひとに譲ったくせに。
 じゃあなんで譲ったんだよ。俺とのダブルスを楽しみにしていたって言うなら、どうして。
 理由くらい知ってる。それがチームにとって最善だったから。あんたは本当に馬鹿で、おひとよしで、簡単に自分を犠牲にしてしまうから。

「最後、やりたかったんやけどな」

 最後だなんて言うな。あんたなら、また今度なって言うんじゃないのか。高校に行ったって部活には顔を出すって宣言していたのは誰だ、謙也さん、あんたです。なんでいまさら。なんでこのタイミングで。ただでさえ俺は泣きそうなのに。ずっとずっと言いたかったことをあんたが先に言ってしまったせいで、俺はあんたにかける言葉をひとつも思いつかない。
 視界にピンクの花が映る。いやになる、謙也さんは卒業してしまう。どんなに俺がこのひとを好きでも、我慢しても、このひとは何一つ気づかずに行ってしまう。それは嫌だって思うのに、ここで言ったってどうしようもないとわかっているから言えない。謙也さんが黙って俺の顔を覗き込む。近い。ちくりと額を謙也さんの金髪がかすめる。

「財前」
「なん、すか」
「卒業おめでとうって、お前にまだ言われとらへんねんけど」

 謙也さんは残酷だ。俺の好きな笑顔で言う。自分の卒業を祝えと言う。俺に。あんたに卒業してほしくないこの俺に、そんなことを言う。いいよ。あんたが望むなら、俺はなんだってする。ここであんたを諦めることが出来るなら、自分のために、なんだってしてやるから。
 いつもと同じ、無表情を装って言い捨てる。

「卒業おめでとうございます、清々しますわ」

 ああもう早く、一刻も早く、俺があんたを忘れようと思っているうちに、とっとと消えてくれ。
 だって、そうでもしなきゃ、あと数分でもここにふたりでいたら、俺は取り返しのつかないことを言ってしまう。あんたに告げてしまう。好きだと告白してしまう。それだけはいやだ。だって今まで我慢してきたのに、これからは忘れるつもりなのに――なのになのになのに、あんたはどうして俺の言葉に傷ついた顔をして、清々するかあ、なんて言うんだ。ああ、清々する。こんなにも自分を失わずにすむ、あんたの前ではいつだってポーカーフェイスすらうまくいかないんだ。あんたが本当にうっとうしいから。うっとうしくて、うざったくて、いくら遠ざかろうとしてもいつの間にか俺の心に居ついて離れやしない。言わなきゃいけなかった。今までありがとうございましたって。面倒みてもろてすんませんって。ねえ、謙也さん。
 言えるほど、俺は強くない。

「今まで、楽しかったで。ほんま、おおきに」
「ええからはよ、出てってください。先輩らんとこ行かんでええんですか」
「言われんでも出てったるわ! 最後までかわいないやっちゃ!」

 行け、行け、行ってしまえ。振り向かずに。俺のことなんて置いていくんだから。もう二度と顔も見たくない。見たら張り裂けそうになるこの心を、俺は止めることができない。そう、思っているのに。わかっているのに。
 謙也さんは一度俺に背を向けて扉に手をかけた。俺は最後の後姿を目に焼き付ける。あんたの顔を見たら、俺はもう死にたくなる。だからお願い、振り向かないで。そう願った。信心深くない俺は、きっとこれまでも神様を馬鹿にしてきたから、罰でも当たったんだろう。
 謙也さんは振り向いてしまった。

 だめだ。

 理性が追いつく前に本能で彼の背中に抱きついた。
 うおっ、と謙也さんが小さく呻きながらも俺を背中で受け止める。もう、あかんねん。好きや。めっちゃ好き。好きで好きで諦めきれるもんじゃない。

「ざいぜ、」
「俺も、楽しかったです。ほんまに楽しかったんです、あんたと、一緒にダブルスの練習やれて、テニスやれて、ほんま、楽しかったし、うれしかったし、せやから」
「もう、ええから」

 くるりと謙也さんが体の向きを変える。泣き顔を見られたくなくて俺は下を向く。ぐしゃりと髪をかきまわされる気配がした。このひとはいつも、俺のあやし方を知っている。
 俺を誰よりも甘やかしてくれたこのひとは、それでもまだ、俺の思いに気づいてくれない。
 好きなのに、俺は、言えない。謙也さんがやさしく俺の頭を撫でる。俺は声を出さずに泣いた。


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