やわらかなしびれ 01


 忍足謙也は瞑想する。らしくもなく瞑想する。目の前に数秒前までいたはずの、一つ年下の少年について、瞑想する。
 なにがどうしてこうなったのか、もはや彼には理解できないことで、そもそも考えるべきではないのだろうと思う。だが、かと言ってこれまでどおりの仲良くやっていきましょうというわけにもいかない。忍足謙也は回想した。数秒前の、頬を紅潮させて口をおさえ、逃走した後輩。謙也はまだ少し眠かった。後輩の心理を考えるには、眠すぎたのだ。あと数分もすれば、彼とてきっちり起きるだろう。しかし、それでは遅い。すでにあの少年に逃げるという選択肢を許してしまった謙也は、追いかけなければならない。
 ああ、もう、あかんかなあ。
 謙也はのろのろと体を起こし、立ち上がる。ぱんぱんと軽くジャージをはらって、さあどうしたものかと思いあぐねる。後輩が逃げてからすでに一分が経過している。どこへ行ったのか、謙也には皆目見当がつかない。ひとまず、謙也は走り出した。いつまでも部室に自分が残っていたら、きっと彼だって戻ってこれないだろうなと、謙也なりに思いやったつもりだった。


 財前光は疾走する。らしくもなく疾走する。目の前に数分前までいたはずの、一つ年上の少年に見つからないために、疾走する。
 なにがどうしてこうなったのか、もはや彼には何の意味もなさないことだった。だって、そんなの。そんなの、目の前にあんたがいて、しかも眠っていて、部室には俺とあんたしかいなくて。だからつい顔をまじまじと見つめてしまった。財前にとっての理由は端的に言い表せば忍足謙也の存在、ただそれだけだった。それでも彼自身はうまく自制していたし、そもそもうっかり口を重ねてしまうほどに慕っていた覚えもない。財前光は困惑した。他ならぬ自分の行動に、困惑した。
 ああ、もう、あかんよなあ。
 財前は肩で息をしながら、ずるずると扉にもたれかかる。部室にラケットバッグを忘れた。だから、取りに戻る必要がある。でも、もしかしたらまだ彼がいるかもしれない。そう思うと、足がすくんで動けなかった。彼は自分を探すだろうか。財前には予想がつかない。あの先輩の性格から考えれば、困っている人間を放ってなどおけないお人好しっぷりを存分に発揮して、おそらく自分を探しにかかるだろう。けれど、困っている要因が自分自身であると知ったら、果たして忍足謙也は追ってくるのだろうか。わからん、と財前は首を振る。追ってきてくれれば、抱きついてやるのに。ただ、やすっぽい同情で探すのなら、やめてくれ。
 財前はぼーっと上を見上げる。青空というよりは曇天に近い、そんな色をした空に太陽は見えず、空全体が薄く雲がかっているようだ。


 屋上が好きです。そう言ったときの財前の表情は、彼にしては珍しく澄み切っていて、こんな顔もできるのかと謙也は感心した。それは決して財前を見くびっていたわけでも、低く見ていたわけでもなくて、ただ「感動の薄い」「物事にあまり頓着しない」人間であると無意識のうちに評価していたからだと謙也は思う。
 今ならば、そんなやつやない、と否定もできる。例えば、謙也が所属している軽音部に幽霊部員的な扱いで存在していた財前の趣味が作曲だったり、テニス部がないときの放課後、なんとなく視聴覚室を覗いてみたらアコギを弾き鳴らしていたりと、謙也が思っている以上に財前は物事に興味があるのだ。いつだったか見せてくれた譜面は難しそうに見えたし実際難しかったけれど、ドラムを叩きこなしてみせたときの財前はどこか嬉しそうだった。ああ、こんなに喜べるのかと。謙也は再び感心して、それまでなんとなく距離があると思っていた後輩に対する認識を改めた。
 おそらく。忍足謙也は素直で、ときに馬鹿正直ですらある。だからこそ、普段はクールを装っている人間をどうしても別次元で捉えてしまうし、さっさと切り捨ててしまうのだろう。切り捨てた先に何があるのかなんて謙也は考えない。これまでどおり、笑顔で接するだけだ。ただ、相手を理解してあげようと思うことも、わかってあげたいと思うこともない。違うイキモノとして捉えるから、外側から包み込むような包容力はあれど、内面を抉り出すナイフのような鋭さはない。
 結局、謙也には何ひとつわからない。いくら興味を持ったからといっても、謙也と財前では本質的にタイプが違うのだし、まして財前のあの鉄面皮の下に何が潜んでいるのか、謙也はまったく知らない。
 知らないけれど。

「屋上が、好きです……」

 いつぞやの彼の言葉をそっくりそのまま呟いて、謙也は走る方向を定めた。ここから屋上、謙也の足なら数分で辿り着く。待っとれよ、と聞こえるはずのない呼びかけも呟く。
 あんなにいい笑顔で好きだと言うんだ、逃げるなら好きな場所に決まっている。屋上にいる財前を見たことはないけれど、想像はできる。座り込んで、壁に背中を預けたまま、音楽を聴きながら眠る後輩。謙也は財前がよく聴く音楽のジャンルさえ、あまり知らない。ただ、ごくたまに、自身が作曲したという曲を聴いていた財前がすっと片方のイヤフォンを貸してくれるときがあった。そして、謙也がそれを耳に装着したのを確かめてから、彼はその曲を最初から聴きなおし、ごく小さな声で歌ってみせる。そのときの後輩の表情は、いつだって穏やかだった。
 最初は嫌がらせか罰ゲームだと思ったのだ。なにをどうしたら男である財前光が同じ男の自分に口をくっつけるのだろうかと、まずは自分の記憶を疑った。あれをキスと表現するには、あまりにも幼稚で軽すぎる。だから、きっと罰ゲームだと思った。だから、しゃあないなあ、と笑いながらからかってやるつもりだったのだ。自分、なに変な罰ゲームやらされとんねん、と。
 それが罰ゲームのような強制的な行為ではなく、本当に突発的な、無意識下の行動であったのだと、謙也が思い至ったのはなんとなく財前を追いかけているときだった。走るにつれて謙也の脳は覚醒していき、そもそも、とか、よくよく、とか、とにかく彼なりにさきほどの事件について考えた。罰ゲームなら、彼の後輩はああも露骨に顔を赤らめたりはしないだろう。淡々と「あーあ、起きてもうた」と言い、罰ゲームですわと種明かしをするに違いない。忍足謙也の知る財前光は、冷静な少年だった。あの反応は、まるで財前自身がびっくりしているようだったから、無意識。
 無意識ってことは。そこまで考えて、謙也は思考を止めた。屋上までの階段を目前にして、はじめて彼は気づいた。今の自分が、今の財前に会って、そして何を言うべきか。言葉に困ったことはあまりないのに、今回ばかりは持ち合わせが無かった。ボキャブラリー以前に、どの言葉を投げようとも、財前には届かない気がした。

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