黒髪の少年の名前は財前光。死期はとっくに過ぎていて、書類によると「15年前の7歳」時点で死んでいるはずの魂や。俺が見た限り、あの少年はまだ20歳は越えとらへん。つまり、俺自身は会うたことがあらへんし知らんかったけど、悪魔に魂を売った人間はある時点を越えたらそれ以降外見は歳を取らんようになっとる。そういうことなんやろか。
 謙也にもっと聞いておくべきやったかな、と思う。今まで失敗らしい失敗をしたことがない俺にとって、死期越えなんて現象自体が起こり得るものではなかったし、後処理もいたって簡単なはずやった。俺は下界が苦手や。前世の記憶がほとんどないせいで、自分がかつてあの場所で生きていたのだという事実さえ曖昧なものでしかない。だから一刻も早く下界になんて下りんでもええように、ひたすら上を目指してやってきた。昇進の知らせは、もう届いた。俺は迷わずに選ぶべきや。それでも、上にいけば行った分、知り合いはおらへんようになる。そう考えただけで、俺は昇進を踏みとどまってしまう。オサムちゃんは俺の前世は随分短かった、と言った。これまでいくつもの魂を獲ってきたからわかる。俺はひとりが嫌いやった。自分だけが突出してしまうくらいなら、そうして孤独になってしまうくらいなら、自分のレベルを下げてここでみんなと笑いあっているほうがずっといい。
 少しだけ、前世の記憶がある。
 ごめんなあ、頼りない母親で。そう言いながらそっと俺を地面に寝かせる女。顔のつくりはおそらく俺に似ていて、泣きそうな顔でひたすら俺に謝っている。俺はわからない。俺にできることなんて、泣き喚くことだけ。そのときの俺に「捨てられる」という認識はまったくなくて、ただ、母親が離れていくことがおそろしかった。泣くのは赤ちゃんの仕事やで。そう言って、優しく微笑みかけてくれたのは父親じゃない。俺をとってくれた医者やった。はたして父親はいたのだろうか。そもそも俺を捨てる他生きる手立てがなかったであろう母親に、俺を病院で産むだけの資金があったのかどうかもあやしい。
 ただ、俺は望まれて産まれてきた。それだけははっきり言える。だからまだ、下界を恨まずにやっていける。医者は言った。きれいな子やな、お母さんに似とるわ。君、俺みたいなええ男になりや。その言葉を聞きながら嬉しそうに母親は笑っていた。今考えてみると、その医者もけっこう若かった。
 俺はたしかに不幸だったかもしれない。少なくとも、俺よりええ人生を送ってきた謙也に言うのをためらうくらいには、不幸やったと思う。せやけど、ちゃんと望まれてきた。だからこそ俺は、ひとりになるのがこわい。最後の母親の泣きそうな顔、つめたい地面、泣き叫べば泣き叫ぶだけ痛くなる喉。孤独を味わったのはそれから死ぬまでの3日程度だった。
 俺は、死ぬ間際、孤児同然やったんや。



「くっらのすけー」

 呼ぶ声はリズムのわりにはテンションが低くて、振り向いた俺はユウジの顔色の悪さにびっくりした。
 ユウジは俺や謙也とは部署みたいなもんが違うけど、だいたい同じ年代(まあ外見やな)で仲が良い。とくに謙也とは下界でもよう会うらしくて、たまにどこのコンビニのおでんがうまいとかレストランのメニューがどうのこうのだとか、くだらない話をしている。会話だけなら立派に人間や。

「どないしたん」
「なあ、謙也知らへん?」

 一昨日から下界でも会わへんねん、と言って、ユウジは首をかしげた。天界でも会わんし、あいつどこ行ったんやろ。ユウジの問いかけに対して、俺は答えを持っていない。ここのところ、ずっとあの黒髪の少年について調べていたから、俺が謙也を避けていたという事実もすっかり忘れてしまっていた。謙也はあれでなかなか相手を思いやる性格だ。一度俺が避けたら、また俺が普通に接するまで一切俺に近付かない。

「あー、俺も最近会ってへんし」
「せやったらさ、蔵ノ介。自分ちょお下行って謙也探してきてくれん?」

 はっと思ってユウジを見ると、にやにやと笑っている。きっと、謙也と俺がしばらく口をきいていないと小春あたりから聞いて、それで仲直りをさせてやろうっちゅう魂胆なんやろな。
 まあ、喧嘩やないし、仲直りも何も仲違いしてへんけど。

「おう、ええで」
「ほなよろしゅう頼むわ」

 ユウジはひらひらと片手を振っていた。



 謙也は簡単に見つかった。幸い、隣に財前くんがおるわけでもなかったから、俺は普通に謙也の後ろに立って、謙也が気づくまで待つことにした。謙也が俺に気づくまで、数分かかった。

「……あれ、蔵ノ介がなんでここにおるん」
「わざわざお迎えに来てやったで」
「ああ、うん、せやな」

 謙也の返答は歯切れが悪い。ひたすら一点を見つめている謙也は、何か考え事をしているようだった。俺は謙也の視線を先を見る。あまり大きくない建物で、看板には「忍足医院」と表記されていた。ずきり、と頭が痛む。覚えがあった。

「俺ら死神って、前世の記憶、あるやんなあ」

 謙也が俺を見ずに続ける。そういえば俺は、謙也に本当のことを言っていない。三十路手前で死んだ、ごくごく普通の会社員。そういう設定にしていたはずや。

「あるなあ。全部っちゅうわけやないけど」
「俺、オサムちゃんに聞いたんや。蔵ノ介の前世」

 偶然やねんけど。謙也はそこまで言うと、ようやく俺の顔を見る。動揺しているであろう俺の顔を。

「今までくだらん話に付き合わせて、ごめん」

 俺の前世には、働いたという記憶がない。そもそも小学校に通っていた記憶すらない。それでも謙也が楽しそうに前世の話をするたびに、俺も合わせるように話を創作した。お互い大変やったなあ、そう言って笑える喜びのほうが、嘘をついている罪悪感よりも大きかった。なにより俺が下界で過ごしたのなんてたったの数年で、その数年を消して新しい前世の設定を創り上げることは容易かったし、正直言って罪悪感なんほとんどあらへんかった。
 母親には、申し訳ないと思ったけど。
 医者にも、申し訳ないと思ったけど。

「俺、ほんまに知らんかった。蔵ノ介の気持ち、全然考えられへんかった」
「謙也、ちゃうって。べつに俺つらくないし、謙也が謝ることなん……」

 頭がずきずきと痛む。この医院は、なんだ。忍足医院。なんだ、なんなんだ。どうして謙也は懐かしそうな顔をしとるんやろう。どこか悲しそうな顔をしとるんやろう。忍足医院。謙也。俺をとってくれた医者はどんな顔をしていた? 思い出せないのはどうしてだ。あんなにも鮮明に思い出せる母親の顔、親子ともども世話になって、病気になったら真っ先に診せに行った医院。そこの院長が忙しいときにはいつだってあの、俺をとってくれた医者がにこにこ笑いながら「大丈夫、すぐ治るで」って言いながら診察してくれた。
 若く見えたのは、実年齢のせいもあったんやろし。ああ、そうや。髪の色が。医者やっていうには明るすぎるくらいで、金髪なんか茶髪なんかわからへんレベルで。俺の髪は母親ゆずりで昔から色素が薄くて、それで変やなあって近所の子から言われて、それを俺はあの医者に言うたんや。医者は苦笑しながら言った。俺かて明るいで、変なんかなあ。俺、君の髪はめっちゃきれいやと思うねんけどな。思い出した。名札に書いてある文字。忍足。忍足先生、そう母親が呼んだ。なんや、それめっちゃ他人行儀やんなあ。そう言って忍足先生は笑った。
 死神は記憶の断片を抱えている。せやけど、それをすべて思い出した死神がどうなったのか、俺は知らん。
 頭が、痛い。

「蔵、ノ介?」

 頭が痛い。
 謙也の声で我にかえると、心配そうな顔をした謙也が視界いっぱいに映る。ここは、どこやっけ。下界や。忍足医院って、書いてある、看板。忍足医院。俺が、前世の俺が、産まれた場所。思い出したらあかん。これ以上ここにおったら、俺は、何かを失ってしまう。

「具合悪いんか?」
「ちゃう、ただ、頭痛くて」

 それを具合が悪いと言うんや。自分の言葉に自分でつっこむ。普段は鋭いキレのツッコミをみせる謙也が珍しく何も言わない。
 なぜ、俺は、懐いていたはずの医者の顔を思い出せないんだろう。

「ほな、戻ろか!」

 謙也が俺の体調を少し気遣うような風で言う。せやな、と言った俺の隣に並んだかと思うと、謙也はそのままもう後ろを見ない。見ないで、告げた。

「あそこな、俺が前にいた場所やねん」

 前。それは、前世のことだろう。妙な予感が胸を過ぎる。どくんどくんと、あるはずのない心臓が呻いているような気がした。忍足医院。忍足先生。あの、人懐っこい、笑顔。ぼやけていた輪郭が徐々にはっきりと見えてくる。

「へ、え、そうなんや」
「うん。最近思い出したんやけどな。ところで頭痛平気んなった?」
「や、まだちょお痛いくらい」

 多分、ここが俺の前世に関係のある場所だからや。そう思う。前から思っとったけど、死神は下界に入り浸るべきやない。何がきっかけで記憶を呼び起こすんかわからへんし、まして俺は思い出す記憶の量が少ない。あっけなく全部思い出してしまったとき、俺は自分がどうなるのか、まったくわからへん。
 そっか、と謙也が呟く。そして、顔を上げて、どこか安心させるような笑みを浮かべながら続けた。


「大丈夫、すぐ治るで」


 髪を明るく脱色した医者は、名札に忍足と書かれていて。俺の母親が忍足先生と呼んでいて、せやけどその忍足先生は名字で呼ばれるんを嫌がった。
 忍足先生やったら親父と同じやん。俺のほうは、――

「謙也」
「ん?」
「……いや、なんでもあらへんよ」

 なあ、謙也。お前やったんか。
 あのとき、俺を生かした医者って、お前やったんか。