財前光がその人物を他ならぬ彼の先輩であり、なおかつダブルスパートナーでもある忍足謙也そのひとであると認識するのに要した時間はおよそ30秒であった。ぽかん、という表現がふさわしいであろう表情で謙也を見つめている財前とは対照的に、謙也はどちらかといえば諦めきった顔つきをしている。なにしてはるんですか、というおざなりの質問が財前の口から発せられた。

「……変装」
「仮装の間違いちゃいます?」

 財前は呆れたような声で続けた。ここは図書室です、変態はいりません。つっけんどんな態度である。対峙している謙也は窓ガラスに薄ぼんやりと映っている自分の恰好を見て、ため息を吐いた。下から上まで、それはまぎれもなく女子生徒の制服姿である。しかも、残念ながらここ、四天宝寺中の女子制服ではない。あろうことか、彼の従兄弟が在籍している氷帝学園中等部の可愛らしいプリーツスカートに真っ白いブラウス、そしてネクタイ。女子が着れば間違いなく可愛いのだろうと財前は思うが、いかんせん着ている人物は自分よりも上背のあるテニス部所属の先輩だ。どこも可愛くなどない。むしろ、気持ち悪い。
 半目状態の財前と自分のスカートから出ている足とを見比べて、謙也は項垂れた。彼がこんな恰好をしている理由はちゃんとある。ちゃんとあるが、ちゃんとあっても財前は笑ってくれないだろう。そんな気がした。謙也の知っている財前光は、学校の行事には極力熱心に取り組まないような生徒である。したがって、今ここで自分が「ミスコンに出るんやで〜」と言ってのけたとしても、財前は冷めた眼差しをこちらに向けるだけであろうことは容易に想像できる。もっとも、そんな後輩についうっかり自分の女装姿を見せたくなってしまった謙也が悪いと言えばそれまでだった。

「ああ、藤吉郎祭?」

 無言だった謙也の代わりに、思い出したような口調で財前は言う。それや、とばかりに謙也は双眸を輝かせ、俺の女装似合うやろ、といつもの調子を取り戻して訊いた。無論、財前はばっさりと言い捨てる。

「気持ち悪い」

 その言葉には、ネタとして笑えるだけの面白さもないという意味が含まれている気がした。謙也はさらに項垂れる。地面にめり込まんばかりの勢いで地に手をついた先輩を見て、財前は呆れ調子を崩さずに「なんでわざわざ見せにきたんですか」と声をかけた。

「いや、俺案外いけるんちゃうかなーって……」
「アンタよりは白石部長のほうがよっぽどいけると思いますわ」

 ああ、それはな。そう言いながらも謙也はいまだに全身で不幸の少女を気取ったままの状態だったが、財前はつっこまなかった。彼のスルースキルの高さは周囲のボケによって培われていると言っても過言ではない。

「白石もそのうち見せにくると思うで」
「なんでやねん」

 さすがにスルーできずにツッコミを入れた財前である。

「え、知らんのか光! 今年の3-2は俺と白石がミスコンで優勝かっさらうんやで」
「たった今知りましたけど、知らんでもええ情報ですね」

 なぜここで勢いづくのかわからない、と財前は思った。楽しそうに立ち上がり、謙也はにこにこと笑っている。ミスコンに出ることが楽しいのか、白石と一緒に女装することが楽しいのか。仮に後者ならば胸中は穏やかではない財前だったが、次に発せられた謙也の言葉で目を丸くしてしまう。

「でな! 光にもミスコンに出さしたろ思うてきたんや!」
「は?」
「よう考えてみたら、2-7って光がいっちゃん美人な気するし、お前女装したらぜったい可愛えねんで!」
「いや、何の基準かわからへんけど俺スカートとか穿きたないです」
「大丈夫や。氷帝の制服はめっちゃ可愛え。俺が着てこんだけ可愛えんやから」
「アンタは気色悪いっすわ」
「それ以上言うなや」
「きしょい」
「言うなって言うたのにお前!」

 女装姿でキレられたところでおぞましさしか感じられない。謙也との言い争いにも飽きて、財前は図書委員としての仕事を再開することにした。とくに仕事はないので、カウンターに積まれている本から適当なものを選び、読んでいるだけである。
 相手にされていないと確信した謙也はついに強硬手段に出た。今の図書室にはひとがいない。だったら勝手に着させてやろうじゃないかという魂胆である。カウンターを飛び越えると、財前は露骨に嫌な顔をした。構わずに財前の後ろにまわりこみ、やさしく頭を撫でる。財前がこの動作に弱いのはすでにばれているのだ。なんだかんだと文句を言いつつも、財前は謙也の手に弱い。財前のガードがゆるくなった隙をついて、謙也はまずネクタイを財前の首に巻いて、結んでやった。

「は、ちょっ、学ランにネクタイなん似合わへんでしょ!」
「せやろ、俺もそう思うねん」

せやからスカートも穿くべきやな、と言って謙也は自身が穿いていたスカートをすとんと落とす。中にジャージを着込んでいたためか恥じらいは一切ないらしく、ここで恥らわれても困るけどなんとなく心境は複雑だ、と財前は考える。財前が考えている間に、謙也の手は財前のベルトに向かう。嫌な予感を感じ取る前に、財前のベルトが抜かれた。

「さあさあお着替えタイムやで〜」
「待っ、なんで俺が着替えなあかんねん!」
「光、笑いのためや」
「笑いのためやなくてアンタが俺を笑いもんにしたいだけやろ!」
「いやいや、そないなことは」
「あるやろが!」

 喚き散らす財前だったが、スピードスターの本領発揮と意気込んで猛スピードでスカートを腰まで上げ、スラックスを脱がせ、鼻歌交じりに財前の女装を完成させていく謙也は気にも留めない。2分後、財前は不貞腐れた表情で謙也を睨みつけていた。

「おお、さすが俺やな! めっちゃ可愛えわ」
「ソラドーモオーキニ」
「片言やでー光ちゃん」
「ちゃん付けやめてください」

 謙也のやけにいい笑顔とは対照的すぎるほど対照的な、嫌悪感丸出しの顔付きで、財前はプリーツスカートの端を持ち上げる。

「これ、謙也さんが穿いとったときは短く見えたんすけど」
「あ、そらあれやな。俺のほうが光より足が長っ……」

 謙也の脛を蹴って、財前は椅子に座りなおした。涼しいといえば涼しい、女子はなかなか快適な夏を過ごしているんじゃないかと財前は思った。謙也はというと、財前の穿いていたスラックスをたたんでカウンターの横においている。たたんでくれるのはありがたかったが、たたみ方が下手すぎた。財前はため息を落とし、自分でスラックスをたたみ直す。

「もうほんま、お前ミスコン出えや」
「嫌っすわ。めんどいし、だるい」
「俺が見たいんやけど。あかん?」

 謙也なりに精一杯低めの声を出してみたが、財前は明らかに怪訝そうな目を向けるばかりで了承しなかった。しばらくふたりでにらみ合っていると、カウンターにひとりの女生徒が向かってきた。この恰好で応対しなければならないことに嫌気が差した財前は、それでもなんとか無表情をつくり女生徒を見つめた。
 そして、こんな美人おったかなあ、と考えてしまった。肩までの黒髪はゆるくウェーブがかっていて、色素の薄い両目は大きい。口は薄く色づいていて、鼻筋はすっと通っている。きれいな顔立ちだった。
 女生徒が持ってきた本はポケット毒草図鑑という、マイナーなものだ。隣で謙也が吹きだしている。財前はもう一度謙也の脛を蹴り飛ばし、「ほな、こっちのカードに名前とクラス書いてってください」と女生徒に貸し出しカードを渡す。女生徒はにっこりと笑い、カードに記入していった。
 3年2組。ここで少し女生徒の手が止まり、謙也と見つめあう形になる。おい、と財前は苛立ちつつも、こんな美人な先輩が3-2におったんか、と驚く。けっこうな頻度で訪れる教室だったが、記憶にない。記憶にないが、たとえ美人であろうと、いや、美人だからこそ、なぜ謙也と見つめあっているのかわからない。というか、単純にむかつく。
 女生徒が今度は財前を見据える。そして、財前のよく知った声で言った。

「光ちゃん、スカートよう似合っとるやん」

 あ。そう財前が口に出した瞬間、暑苦しい! と言い捨てて女生徒はカツラを取り、口を手の甲で拭った。そして、「どや、俺の女装。完璧やったやろ?」と告げる。
 
「完璧やったわ! 光も騙されとったっちゅー話や!」
「俺に不可能はないねん、バイブルやからな!」

 女生徒であった人物は、貸し出しカードに「3年2組 白石蔵ノ介」と書き込み、カードを財前に渡す。財前は半ば放心しつつも、カードを受け取った。

「……部長、ニューハーフなれますわ」
「なんや、負けて悔しいんか財前」
「負け以前に勝てる気もせえへんし勝ちたないです」

 いやー俺は光のほうが可愛えし好きやでー、と頭を撫でてくる謙也の手を払えないまま、財前はミスコンに出ない意向を固めた。
 やってられるか、こんなもの。


0805