人間が醜いとのたまうつもりはさらさら無い。なぜならば、俺たちのほうがよっぽど醜いから。そういう風にできている。人間がよく口にする「世界」というワードに俺たちは含まれない。自分の目で確かめたって、悪魔という存在を認識できるくらいの強靭な精神力を持った人間はそうそういないのだ。俺は存在している。呼吸はしていないし、死ぬことだってないけれど。それは俺が生きていないから、ただそれだけ。生きていないからといって存在していないと決めつけるのは間違いだ。人間だって、死んでも数週間は「世界」に存在しているじゃないか。

 俺の上司は恐ろしいとか怖いとか、そういった表現では伝えられないほどに恐怖の対象として君臨している。俺はそこまで怖いと思ったこともないけれど、人間が昔から悪だと見なしている俺たち悪魔の総領だから当たり前なのだろう。
 幸村は顔を上げて俺を見た。ああ、ご苦労様。そう言って静かに微笑むこの存在を、一目見ただけで悪魔であると、魔王であると感知できる人間は果たしてどれくらいいるのだろうか。幸村は魔王という仰々しい名前で呼ばれるのを嫌って、気軽にサタン幸村と呼んでくれ、だなんて触れ回っている。もっとも、魔王はイコールでサタンだから響きがマシになった程度だ。実際に俺の後輩は「あ、じゃあよろしくお願いします! サタン幸村さん!」と大声で叫んだせいで幸村に叱られていた。呼べと言ったところで、呼べばキレる。それが幸村だった。
 俺たち悪魔にも名前がある。それは主に幸村がつけていたり、幸村の上の、いわゆるカミサマがつけていたりと、大抵そんなものだ。だから俺みたいにこの「世界」に存在した瞬間から明白に名前を持っているやつは少ない。仁王、と幸村が俺を呼ぶ。

「なんじゃ」
「あのさあ、ちょっと忘れちゃったんだけど、前にひとり真っ黒い人間を捕まえたろう? あれは、今もまだ下界で生きているのかな」
「あー、わからん」

 わからんじゃないよ。幸村は少し声を高くして叱る。

「そういうとこ、きっちりやってくんないと困るんだよね。俺が」
「魔王じゃろ、自分でしんしゃい」
「好きでサタンやってるわけじゃないし、俺だってお前みたいに下界でのんびり狩りたいんだけどさ」

 生憎俺は魔王だし、しかもこの通り力が制御できないからめったに下界に下りられないし、嫌になるな。
 そうこぼす幸村の後ろに、すっと人影が立った。そいつに見咎められないうちに、俺はその場から逃げ出す。数秒後、「幸村、お前がしゃっきりせんから他の者に示しがつかんのだ! たるんどる!」と毎日繰り広げられる説教が始まるであろうことは、この魔界にいる連中は皆知っている。周知の事実だ。

 真っ黒い人間。幸村が好んで狩れと命じる人種だ。真っ黒いのは、髪と瞳。幸村がそうであるように、俺たち悪魔にとって黒ほど最上級の色はない。黒ければ黒いほど、力も強いのだから。そのせいか、幸村と共同戦線を張るときは必ずと言っていいほど、真っ黒だと幸村が認定した人間ばかりを狩っているような気がする。最後に狩ったのはいつだったろうか。10年近く前だったかもしれない。とすると、おそらくもう成人に近いはずだ。悪魔に命を売り渡した人間は、飽きるまで生きることが出来る。その代わり、自然そのものを敵に回すことになるが。
 風貌を思い出せなかった。あれから何百もの魂を狩ってきた。覚えていたら奇跡だ。そんなことを考えながら、俺は「のんびりと」下界での時間を過ごす。べつに、魂を狩らなければならないというわけでもない。一度生まれてしまった以上、俺たちはそう簡単には消えない。死神のように消滅したり、しない。死神はあれでも神の末座だ、俺たちとは根本的に違う。追い求めているものは同じだけれど。
 死神の仕事が魂を狩ることならば、悪魔も同じく魂を狩ることが仕事だ。ただし、俺たちの場合は死神のように「死期の近づいたものだけ」という条件がない。そもそも魂を狩るのは悪魔の趣味みたいなもので、仕事ではない。だから、幸村も俺たちを急かさない。魂を狩るということは、悪魔が増えるということにつながる。すなわち、仲間を増やす。たったそれだけのために、死神のように必死になって魂を探す必要は無い。
 もっとも、俺はこの魂を狩るという労働が好きだから、こうして何度も下界に下りてくるわけだ。魂を狩る、その行為にいたるまでの過程が楽しい。人間をいかに騙し巧妙に手懐けその「死に対する恐怖」につけ入るか。これほど楽しいゲームはない。俺の得意分野だ。
 人間を騙すためには少々の小細工も必要である。なにせあっちは俺を悪魔だと見定めた瞬間、騙されるもんかと目を閉じ耳を塞ぎ、俺という存在そのものを遮断しにかかる。それでは、困る。だから俺は考えた。だったら、悪魔だとばれないように接近すればいいだけのことだ。幸い、俺は変化能力に優れている。どんなものにだってなれるこの力を悪用しない手は無い。そして、なるならば、人間に信用されているものになるべきだ。
 そう考えて、俺はたまたま下界に下りてきていたらしい天使のかたちをそっくりそのまま借りた。
 せっかくだから、その天使の仕事っぷりでも拝んでやるかと後をついていったりもした。天使と悪魔は馴れ合わないから、何をするのかまったくわからなかった。
 その「天使」が、ただの死神であったのだと、彼の仕事ぶりを見てようやく気づいたのだ。
 こんなに白い死神なら、さぞかし人間にも好印象だろう。漠然とそう思った。俺も悪魔の中では例外的に白い外見をしているけれど、それでもあの死神は白かった。下界に下りるような存在じゃない。そう思っているうちに、その死神はおそらく昇進したのだろう、下りてこなくなった。
 本物が消えたのなら、偽物の出番だ。
 本当は、あの死神が取りこぼした魂を脇から掠め取ってやろうかと思っていたのに、あの白い死神はミスを一度も犯さなかったから、結局俺は自力で騙すしかない。それが、一番の楽しみだから構わないが。
 そして、初めてあの白い死神を模した姿で騙した人間は、年端もいかぬ子供だった。

「魂、獲りにきた」

 俺がそう言うと、子供は目を瞬かせ、ぐったりと体中の力を抜いた。抵抗する気は無いらしかった。つまらないと思った。俺の楽しみは、最初俺に抵抗していた人間が少しずつ懐柔されていくこと。だから、はじめからこうも無抵抗では、やる気も殺がれるというものだった。

「やっぱ、やーめた」

 つまらん、と続けかけた俺を、子供が見開いた目で見つめる。子供が何か言う前に、俺はすっと背を向けた。俺の背に、子供の泣き声じみた叫びが浴びせられる。
 死んでもええ、俺はここで死んでええねん、魂獲ってってや!
 何の症状かはわからない。ただ、その子供は間違いなく死にかけていた。おそらく苦しかったのだろう。死に対する恐れよりも、現在の苦しみが継続することのほうがよほど辛い、そう考えたのだろう。正直に言うと、うるさかった。でも、理解できないと思いつつも、これはこれで悪くない、と俺はそのとき考えた。
 死にたいんだろう。だったら、死なせてやらない。その代わり、その苦しみからは救ってやろう。俺が消えたらすぐに子供は後悔する、死にたくないと思う。その隙を狙えばいい。

「もう1回来るけん、待っとって」

 笑顔でそう言ってやると、子供は安心したように、泣き顔で笑った。
 その後は知らない。幸村に譲ったから。ただ、確実に魂を狩ってきたことだけは聞いた。そういうものだ、人間なんて。その真っ黒い人間が今何をしているのかと気になって、俺は数年前のあの出で立ちで、もう一度、子供を捜してみることにした。