かつかつかつかつ、と小気味よい音を立てて謙也さんはシャーペンを滑らせる。普段あんだけアホで、いつもこんなにアホみたいな頭の色しとっても、このひとは頭が良い。なんだかんだで成績は悪くないと思う。同じテスト前やけど、俺は授業で聞いた内容を軽く復習しとけばそこそこの点数をおさえられるから、謙也さんみたいに必死に手を動かしたことなんかなかった。
 違うんやなあ、と思わされる。
 俺は今の成績なんどうでもええし。このひとみたいに成績オール5目指す、なんて暴挙は宣言できへんわ。まあ無理やけど。謙也さんかて、あの悲惨な世界史で5なんもらえるわけないしなあ。けど、それ以外の教科は、基本的にできとるんやろなあ、と思ったりも、する。

「ああ、飽きたん?」

 謙也さんは、俺がじいっと彼の手元を見ていることに気付いて顔をあげた。いえ、と俺は返す。そもそも、飽きる以前に、俺はここに勉強をするためにきたわけじゃない。謙也さんに誘われたからきただけで、目的は謙也さんだけや。
 図書館、行かへん? 
 それは、昨日の晩。いきなりかかってきた電話にちょっと緊張しながら出た俺を待ち受けていたのは謙也さんの誘いで、俺らは変な関係やなくて、勝手に俺が謙也さんを慕っとるっちゅう自覚はあるけどまあこのひとも俺んことよう構ってくれはるし、お互い様やと思う、べつにやましい関係っちゅうわけやない、ちょっと仲良いだけの先輩後輩。謙也さんは他にもぎょうさん知り合いがおるんに、わざわざ俺に電話してくれたんが普通にうれしくて、しかもなんでこの受験前に俺みたいな後輩と勉強しようなんて思うんかもわからんけど、快諾したんはまぎれもなく俺や。
 結局、理由はあっけなかったんやけど。俺んちの近くに図書館があるから。そんだけ。

「暇っす」
「お前、テスト前やろが」
「俺はやらんでもできるんで」

 むかつくわあ、と言いながら謙也さんは俺に小銭を渡す。240円。何を買って来いと言われるのかなんとなく予想できてしまう。

「俺はコーヒーでええから、光は好きなもん買ってきいや」
「……おごり?」
「付き合わせとるんは俺やからな」

 たまに。ごくごくたまに。謙也さんは、こっちが赤面してまうくらいええ男になる。そうでなくても俺はこのひとが気になっているわけで、こんな真似をされたらたまったもんじゃない。

「ほな、行ってきますわ」
「ん」

 すでに謙也さんの視線は俺から外れて教科書に向かっとる。片手をひらひらと振りながら俺を送り出した謙也さんに気づかれないように、その姿をしっかりと目に焼き付ける。あと何回、このひととこうやって過ごせるんかわからへんから。部活を引退した三年生も、そろそろ受験モードに入ったせいか部活にこなくなった。それは、今まで他人任せだった俺が部員を引っ張っていかなあかんってこと。部長に任された以上、あらへんはずの責任感をどっかからか引き出して、俺はなんとか部長を務めている。
 言われた通りにコーヒーと、俺のオレンジジュースを買って戻る。謙也さんは俺が隣に座っても気づいてくれへんかった。しゃあないから、コーヒーを彼の頬に押し付ける。冷たさにようやく気づいた謙也さんは、笑って「ありがとさん」と言った。笑顔が眩しいとか太陽みたいやとか、そういう表現はほんまに謙也さんのためにあるんやって思う。

「ちゅうか、ここって飲食禁止やないんですか」
「んー、ええって。音立てないように飲めばばれへんやろ」

 缶のプルタブをゆっくりと押し上げて、謙也さんは一気にコーヒーを飲む。横顔が様になっとる、と思ってもぜったいに言ったらん。俺は謙也さんが飲み干すのを見届けてから、同じようにジュースを飲む。コーヒーとジュース、この時点で謙也さんと俺が大人と子供、みたいに分けられとるみたいな気がした。
 急に思う。謙也さんが受験に落ちたら、浪人して俺と同じ高校に入ったりするんかなあとか。そうやったらええなあとか。後輩の立場上、謙也さんの受験は応援せなあかんってわかっとるし、応援する気もある。せやけど、このひとと同じ学年になってみたいっちゅう気持ちもあるから、俺はタブーみたいな思いを抱く。
 謙也さんが行こうとしとる高校は、今の俺が一応志望校にしとるとこで。うまくいけば、また一緒に笑い合える場所や。謙也さんはきっと受かるやろし、俺かて受けたら落ちんと思う。
 でも、俺が謙也さんと「中学生」としておれるんはあと少ししかなくて。そもそも俺とこのひとの間にあるんはうっすい関係だけで、もどかしさすら覚えるのに、俺はどうすればええのかまったくわからん。謙也さんともっと一緒におりたいけど、謙也さんに拒絶されたらこわい。このひとは拒絶なんせえへんから、困らせてまうんかもしれん。それはもっと嫌や。それに、今の時期。謙也さんに余計なことをしたくない。矛盾しとる。
 またすぐに教科書とにらめっこをはじめた謙也さんは、まさか隣の後輩から好かれとるなんて思っとらんやろなあ。骨っぽい手がシャーペンを握り締めて、そんでノートにすらすらと文字を書きつらねていく。シャーペンになりたい、なんて一瞬思いかけた自分に泣きそうになった。


0616