見たくもないのに見えてまう。聞きたくもないのに聞こえてまう。ずっと我慢しとった。俺は周りが見えんものが見えて、聞こえんものが聞こえて、否が応でもその存在を認めんとあかんってなって。ほんまは知らん振りして生きたかった。せやけど誤魔化せんかった。
 俺が喘息で死にかけたんは、小3のときやったと思う。ぜえぜえいうて苦しくて、俺こんまま死ぬんやろなって思った。で、あれはきっと死に際やったんやろうけど、気づいたら俺の枕元に綺麗なひとがおったんや。ほんまに綺麗で、俺が生きてきた中で見たどんな美人より完璧やった。髪の色は銀で、顔かたちもえらい美形で、全体的には白って感じや。そんで、雰囲気は神々しさすらあったんやけど。俺は直感で、こいつ死神なんかなあって思った。
 そいつは、俺の顔をじっと見て、「魂、獲りにきた」って言うて、俺の左胸あたりにすっと手をのばしよった。死に際やから、もうどうにでもなれって思った。喘息で苦しむより解放されたいくらいやった。けど、そいつは何を思ったんか、急に「やっぱ、やーめた」と言って、俺に背を向けたから。わけがわからんと思ったし、そもそもこの苦しみから逃れられないっちゅうんが一番つらくて、俺は必死でそいつに縋った。死んでもええ、俺はここで死んでええねん、魂獲ってってや。今考えると、けっこうアホやったと思う。俺は死にたないねん。けど、そんときは死ぬっちゅうことが最上やと思っとったんや。
 そいつは、ようわからん国の訛りで、なんて言うたんかなあ、せからしか? そんな感じやったと思うねんけど、俺を鬱陶しそうに見た。で、急ににっこり笑って、「もう1回来るけん、待っとって」とか、「それまで耐えるんじゃ」とか言って、消えた。
 俺は耐えた。どうせすぐ死ねるんやって思うたら、ほんまに痛みも引いてくような気がしたんや。そしたら、人間って欲深いって思うんやけど、死にたないなって思ってもうた。もう1回、あの死神が来たらどないしよう。俺はまだ生きていたい、死にたくない。そう思って、来ないでくださいって、おるんかどうかもわからへん神に祈ったりした。
 数日後、俺の前に現れたんは、ひとりの悪魔。名前は知らん。こいつも美人やったけど、死神の美人さとは違う、中性的で威圧感のある美人やった。髪が特徴的やったからよう覚えとる。青みがかった黒髪で、ウェーブしとった。絵画でたまに見るあのウェーブ。そいつは、俺を見て「君は死にたくないよね?」なんて訊いてきた。とりあえず、嘘はつけへんかった。こわかった。目の色が真っ黒で、ほんまに吸い込まれてもおかしないくらい、透明感のある両目やった。その目で見つめられて俺は思考が狂って、次にその悪魔が「死ななくてもいい方法があるんだよ」って言うたときに、まだ話も聞いとらへんのに頷いてもうたんや。

 謙也さんは気づいてへん。あのひとがここにおったことも、時間を止めたことも。あの死神は間違いなく蔵ノ介さんやと思うんやけど、あのひとは俺のことなん覚えてへんかったし、ほんまに初対面みたいやった。それに、目の前の謙也さんみたいなお人好しでもないと思った。蔵ノ介さんは、謙也さんの衰弱っぷりが見てられへんからこうして忠告しにきただけや。俺のことなん知らん、そんな態度やった。
 人間かて、世界に三人は同じ自分がおるっていうねん、死神もおるかもしれん。けど、よう考えてみたら、言葉が若干違うような気もする。まあ、十年近く前やから記憶が改竄されてるんやろな。謙也さんは黙り込んだ俺を気遣ってか、運ばれてきたあんみつを俺の前に押し出す。
 俺には、このひとが弱っとるようには見えへんし、むしろ元気やないか、と思う。死神は目の色と髪の色で強さがわかる、っちゅうんは俺が死神に会うてからいろいろな文献で調べた結果わかったことで、本当やなんて思ってもみんかった。人間にも何千年の歴史がある。過去に、俺のほかにも死神や悪魔に会うたやつやっておるんや。俺みたいに、死ぬんが怖くなって、悪魔に魂を売ったやつも、おる。
 このひとは、俺がまだ寿命のある人間やって思うてんねやろな。騙しとるつもりはないけど。俺が存在を消されんように、このひとは三日に一遍くらいの頻度でこうして会いに来る。これが多いんか少ないんかはようわからん。謙也さんは俺に対して責任感を持っとるんやと思う。きっと、俺が事故に遭いそうになったんを救ったからや。正直に言えば、あんとき、俺はぜったいに死なんって自信があった。俺は、自分の意思以外では死なん。そういう契約や。せやけど、謙也さんは死なん俺を助けてもうて、つながりができた。しかも、俺が死期越えしとるっちゅうんも知って、余計に責任感がわいたんやろう。
 けど、俺が悪魔に魂を売ったことを打ち明ければ、このひとはもう俺に会わんようになるんや。いらへんもん。死神の守りなんなくても、俺は寿命があらへんから。事故に巻き込まれるんはしゃあない。俺は人間やけど、悪魔に片足突っ込んどるようなやつやから。

「光ー、食わんの?」
「や、食いますけど」

 謙也さんは俺が甘党やってことも知っとる。そんくらい親しくなった。現世でも、いっちゃん親しいんはこのひとや。死神が親しいひとってどうなんやろ。そう思ったけど、どうしようもない。

「さっきなあ、俺の知り合いおった気がすんねん」

 けど、おらへんしなあ。謙也さんは不思議そうに言った。いましたよ、と言う必要も義務も俺にはあらへんし、そもそも、あのひとは謙也さんに話を聞かれたくないからわざわざあんだけ強い力で時間を止めたんやと思う。

「そんなひと、知らんですわ」

 そう言うと、せやなあ、あれはやっぱり空耳かもしれんなあ、と謙也さんは自分で納得したらしく、おとなしくコーヒーを飲んでいる。
 元々強かった俺の霊力は、あの悪魔に魂を売ってからというもの、自分では制御できんくらい強くなった。そのうちに、コントロールもできるようになったんやけど。蔵ノ介さんは謙也さんよりずっとずっと強い死神やった。向かい合うだけでびしびし伝わってくるような、そんな力の放出やった。けど、きっとそれも目の前の謙也さんのためなんやろうな。このひとは、人間である俺にさえこない優しくするんや。同族やったらもっと優しくなるんやろし、蔵ノ介さんは親友らしいし。
 人間やってことを、俺は誇ろうと思えへんし、誇りたくない。俺かて、生まれるんなら死神がよかった。謙也さんと同期で、たまにアホ言ったり馬鹿やったりしながら、適当に存在したかった。何で俺は人間なんやろうって思う。しゃあない、で済ませるほど簡単やないねん。死なんでもええ体になった代わりに、代償はある。あと半世紀も生きれば、俺も悪魔になる。悪魔になったら、死神にはなれへん。謙也さんは俺が死神になれるって言うたけど、なれるわけがない。

「せや! 今度、前に言うとった小春とユウジの漫才見せたるで」
「死神の漫才なん見たないです」
「なめとったらあかんって! ほんまおもろいねん」

 謙也さんは、何も知らん笑顔で俺に接する。わかっとるんや、ずるいんは俺やって。俺が死なんってことが謙也さんに知れたら、もう二度と笑ってくれへんやろ。本当は、俺に会う必要なんあらへんねん。俺と親しくする必要かてないんや。けど、俺はこのひとといるんが好きやから。まだ言いたない。できればずっと隠し通したい。いつか、気づかれるときまでやって、そんくらいの覚悟はある。

「しゃあないっすわ」
「よっしゃ、せやったら今度な、うん、明後日くらい」
「早い……」
「思い立ったら行動せなあかんやろー」

 明後日もこの笑顔が見られるんやと思うと、心が弾んだ。
 俺にはこのひとしかおらへんねん。もう、このひとしか、俺と一緒に笑ってくれへんねん。せやから、まだ黙っとってもええやろ。