スイ、と呼ばれたそれは、緩慢な動作で姿を顕した。
「御見事です。――よくもかわせたものですね。」
感心したかのようにくすくすと和やかな声を立て、翠の眼がきらりと笑った。
「…そうも鈴の音が聞こえてはね。――まったく、兄上は式を何だと思っているのやら」
――伏せられもしない式に何の意味があろう。見失わぬようにとでもいうのだろうか。
「我が主を馬鹿にされては困りますよ、銀翅殿。何かお考えがあっての事なのでしょう。」
そうは言いつつも、どこか揶揄うような表情を崩さぬまま、スイ――翠玉はころころと笑う。
――いくら無能とはいえ。何処かで、そう思っているのかも知れなかった。
他者が一見すれば和やかな会話の内には、確かに強い悪意が潜んでいる。――初手にてそれは、既に示されていた。
――だから、同じ地に留まっていたくはなかったのに。
私は僅かに悔いつつも、対峙する者を凜と見据えた。
その様に、翠玉はさも可笑しそうに首を傾げる。
「…おや? 可笑しいな、もっと弱っている筈なのに。」
――成程。十六夜が守ってくれていたのだな。だから出るなと…。
「翠玉。…君如きに私は殺せぬよ。」
「でしょうね。…しかし、主の命とあらば果たさぬわけには参りませんので。」
「まぁ、式とは本来そういうものだからねぇ」
だから。
兄――玄鋼という人物は、私よりも僅かに劣っているのだ。
「――兄上。貴方が邪魔だと仰ったから私は村を出たというのに、それを態々追うほど貴方の手は空いておられるのですか?」
“翠玉”を通じて、兄に問い掛ける。
「それに――咒詛を掛けるはまあ良いが、それを返されるというのがどういう意味を持つのか、貴方は解っておいでなのですか?」
途端、翠の眼に怒気が映った。
『――黙れ』
刹那、荷に挿していた風車が、きしりと音を立てたように感じた。
…やれやれ。
村に居れば疎まれ、村を出れば妬まれ、果ては式まで伏せられる…。鬱陶しい事この上ない。
「…仕様がないか。――では、試してみるがいい。」
決して油断をしているわけではないが、自然と頬が緩んでしまう。
『………。』
如何にもな視線を返される。――物気はやがて咒となり、罹る。
そして形すら帯びたそれは、此方に猛然と襲い掛かり、やがて――ばちん、と何かに弾かれた。
「…?」
私すら予想していなかったそれに、翠玉が驚かぬわけもない。
――嗚。十六夜の守りの力だな。
此方はそう合点がいくが、翠玉の場合はそう簡単にはゆくまい。
「…山に籠られている間に、随分と腕をお磨きになられたのですね。」
翠玉は、感心したように此方に声を掛けた。
「――どうやらその様だね。…まだ、やるのかい?」
「…。我が主であれば、御身を捨ててでも――と云った処でしょう。…しかし私は、己の分は弁えておりますので。」
――その言葉通り、神には勝てぬと早々に手を引くことにした様子だった。
「そうか。ならば兄上にお伝えしておくれ。――私に構う暇があるのなら、少しは己を省みては如何かと。」
潔いその退き様に、つくづく主に似ぬ式だなと思わず笑ってしまった。
「聢と。――」
何故か私にまで恭しく礼をすると、翠玉は暁の光を避けるように闇に溶けてしまった。
――やれやれ。瑞葉を出すまでもなく退くとは。…十六夜に、感謝しなければ。
手中の札を見ながらそう独り言ちる。見れば、風車はえらく古びたようになっていた。
――これはこれで、趣があるなぁ。
些か心苦しい程無惨なそれを見、私は苦笑するよりなかった。
おそらく。
スイには本当のことが解っていただろう。…主にどう伝えるかは、私の知ったことではないけれども。
――山が侵されなければ良いが…。
そう思いながら、背後に聳える山を見上げる。暁の光が射し始めた空には、未だ月が姿を見せていた。
***
――良かった。あいつ、どうにか切り抜けたみたいや。
せめての思いで施した術が未だ残っていることを感じ取り、私はほっと息を吐いた。
――そう云や、これももう必要あらへんのやな。
息を吐いた拍子にそう思い出し、銀翅の辿ったであろう山道を見下ろしながら、音もなく屋敷を消し去った。
傍らの川を見る。――首元には、まだ銀翅の掛けた呪が見えている。恐らく、じきに消えてゆくのだろうが。
未だ、何処か名残惜しいような気持ちで痕に触れ、けれども何処か安堵したような表情を浮かべた。
空を見れば、今にも日が射そうかというところ。
鮮烈な光に目を細めつつ、それを避けるように姿を隠した。
――…あいつら、此処へ来たらえろう驚くやろうなぁ。
“一夜にして消えてしまった銀翅とその屋敷”と。
出てゆくと告げれば、あらゆる手を使って引き留めてくるだろうと銀翅は笑っていた。だから、何も云わずに去るのだと。
とはいえ、出てゆく素振りを全く見せていなかった訳ではないから、「銀翅は去ったのだろう」と素直に考える者も居ようが、それにしては住んでいた家が一夜にして消えているのだから、恐らくは何らかの形で畏れられるに違いない。――もしかすると、銀翅は山の神の化身だったのではないかと畏れる者すら現れるかもしれない。
それは、目に見えない何かへの畏怖を――僅かではあっても、確かに生むだろう。そして、其れは十六夜の糧となるのだ。
――銀翅はそう言っていた。…果たしてそう、上手くゆくのだろうか。
例えば…、銀翅を実際に外から連れてきた者はどう思うのだろう。
信じる者と信じざる者。――それらが、諍いを起こさなければいいが。
期待と不安の入り混じった目を麓へ向けると、私は静かに眠りに身を委ねた。