「――やはり、今からでも村を出るべきだと思うんです。」
あるとき、葵は、銀翅と向かい合って話をしていました。
「それを為すには時が足りない。…そう言った筈だよ。」
銀翅は涼やかに笑って、答えました。
「…。」
瑠璃は、銀翅の傍ら、銀翅よりもわずかに後ろに座り、静かに耳を傾けておりました。
「あなたは独りじゃない筈です。」
「ほう――?」
聞いた銀翅は、苦笑ともつかぬ声色で笑うと、その先を促しました。
「なんの話かな?」
「あなたに味方してくれる人間は、あの家にも居るはずです。たとえば――あなたの家に仕えようと申し出た者たちなら、きっと力を貸してくれるはずです。その人たちは、あなたの家のことだけでなく、あなたの身の上もよく知っているはず。気の毒に思っている人だって、きっといます。」
「そうだね。」
銀翅は、葵の言葉をすぐに否とはしませんでした。
「けれど、それ故に、…彼らは最も不自由な者たちなんだ。」
「…?」
首を傾げた葵に、銀翅は楽しそうに語り始めました。
「――こんな話を知っているかい?」
私はあるとき、村人に頼まれごとをした。
いつものように、私はそれをこなす。文字通り命を掛けて、精を尽くしてね。
なにごともなく終えたとき。
頼みごとをした者は、それはそれは厚く感謝をしてくれる。
けれども、山を降りれば――或いは、本家を出れば、彼らも村人に戻るんだ。
その場では大仰なほどに感謝をし、多すぎるくらいの謝礼をくれることもある。ごく稀に、家に仕えたいと申す者もいるが…、まぁ、そういう者は滅多にいないね。
多すぎる謝礼を寄越す者の殆どは、『このことはどうぞ内密に』という意味だったり、『何かあればまた頼む』というようなことだったりするのさ。
我等とて神ではない。
どんなに力を尽くせども、彼らの願いどおりにゆかぬことがある。
そうなると、彼らは鬼の首を取ったかのように、今度は悪評をばら撒く。…実に都合のよい話だ。
以前は感謝の限りを述べていたはずの者も、その場の雰囲気に呑まれ。感謝を述べていたその口で、悪評を肯定する。…少なくとも、肯定はしないまでも、否定もしない。
肚の内ではどう思っているのか知らないが、…村の中で孤立するということは死と同義だから、彼らは必死になって周りと同調する。…すると?
「…誰もが、あなたたちの手を取るわけではない。」
――寧ろ、手を取る者など誰もいないのではないか。
…葵はそう思っておりましたが、そう口にすることは、ひどくおそろしく感じました。
「そういうことだよ。」――銀翅はそれを、皮肉げに肯定しました。
少し伏せていた眼を上げると、銀翅は葵に微笑みながら、尚も続けました。
「散々悪評を見過ごしておきながら、家に入ってくる者もいるけれど、彼らは何方つかずの状態だ…。」
肚の内では何か思うところがあったのだろう。
その時点で、悪評をばら撒く村人とは少し違うが、我等とは縁もない。…私から言わせれば、
たまたま、事がうまく運び
たまたま、感謝されて
たまたま、家に仕えることを許されただけの
…只の、村人さ。
信頼などするべきではない。どうせ彼らも、この家を一歩出れば村人に戻る。
村に戻れば皆同じ面構えさ。いちいち名を覚える気にもならない。
「…何を為しても為さずとも助けを求めるばかりの有象無象。味方でもなく敵でもない。利があると見た方に、容易に傾く。実に御し難い、秤のような者たちだ。我が病と同じく、付ける薬もないのかな。」
「…。…………」
「…。」――長い沈黙の内、聞いていた瑠璃は密かに、呆れたような溜息を零しました。
十六夜ならばこう口にしたでしょう――“其処まで解っていて尚尽くすとは、やはりお前は莫迦者だな”。
銀翅は十六夜の声なき声を聞き、声を立てて笑いました。
「――可笑しいだろう? どうやら私も莫迦になってしまった様でね。…もうそろそろ用済みかな、と思っていたところさ。…葵が来てくれたお蔭で、十分楽しめたけれどね。」
――遠くない内に死ぬとしても、希望を抱いたままで。
銀翅はそう願ったのでした。
「何故、そこまで…。」
「うん?」
葵は尚も問います。
「信頼などしていなくても。…情に訴えて、手を貸してもらえば…」
「我等には仮名と真名があってね。」
銀翅は葵の言葉を制するように、口を開きました。
私の“銀翅”という名は、仮の名前に過ぎない。――無論、兄の“玄鋼”という名もね。
私は銀の名を持つ者として、兄を支え、村を助ける役目を負う。
兄は鉄の名を持つ者として、家を支え、村を援ける役目を負う。
実際に村を動かすのは、飽くまでも君の家だけれど…。
…まぁ、そんなことはどうでもいいか。
我が家に仕えている者たちは、家に仕える程の――ある種の信頼を得た者でありながら、我等の真名を知らない。
知らないし、ひょっとすると我等に真名があること自体、知らないのかもしれない。
彼らが居る処では、絶対に真名を使わない。
人払いをせよと言って、その間は伯父と伯母が見張っている。
その意味するところは? ――解るだろう?
彼らは所詮村人だからね。
あやかしに付け入られる可能性が高い。
かれらは常に此方の隙を窺っているんだ。いつ何時成り変わられているか…。
かれらに真名を知られれば、碌な事にはならないからね。
まぁ、あの家には常に結界が張ってあるから、もしなにかが這入れば、直ぐに解るよ。
――張ったのは誰かって? …決まっているじゃないか。くすくすくす。
「……。」
――怒りもせず泣きもせず、まるで狂ってしまったかのようにくすくすと笑い続ける銀翅に、葵は絶句しました。
「彼らに手を借りるくらいなら、御姿は見えずとも、山に御座すと云う神に縋った方が、裏表がなくて良い。――そう思わないかい?」
「っ、…」
さらりとおそろしいことを言ってのけた銀翅に、葵は驚いて傍らの瑠璃を見ました。
――しかし、妾であるはずの瑠璃は、銀翅を見て尚、驚いた様子もなく淡々としていました。
「――信頼はしないが、哀れみはする。」
しばらくの間くすくすと笑っていた銀翅は、不意にすこし哀しげな表情になって言いました。
「…?」
あれだけ扱き下ろしていたのに何故、と葵は訝りました。
「“どちらでもない”というものほど、つらいものはない。」
我が家に仕えるということは、
村人たちからは後ろ指をさされ、表立って擁護してくれる者もなく
我が家の者たちからは怪異があれば真っ先に疑われる、そういうモノになるということさ。
「…。だから、おれがあなたの家に入るのは、反対なさったんですか」
単に幼いから、という理由ではなかったのかと、葵は尋ねました。
「それもある。」
「それ、も…?」
「あとは、そうだな…。…君の提案に、私も賭けてみようと思ってね。――君同様に、すべてを、ね」
――例えばそれが、命であっても。
「なに、この家に生まれたからには、命などとうに棄てたようなものだから――」
葵は銀翅の覚悟に目を瞠りました。
「…今更、いやだなどとは思わないよ。」
すべてを棄てた者に宿る覚悟は、並々のものではありませんでした。
――吉兆とは、村への徴ではなかったようだね。
銀翅は小さくそう言って、穏やかに微笑みました。
「何かあったら、いつでも言ってお出で。」
その笑みのままで、銀翅は葵に語りかけます。
「無論、」
その、
「君の為などではないさ。」
――聞いたものの腑を縛るような、ぞくりとする声色で。
その声のせいか。
優しい筈の微笑みが、葵にとってはひどくおそろしいものに見えたようでした。
「――こわがらせてしまったかな?」
それを察してか、愉快そうな表情のままで。
「だいじょうぶ、近寄りはしないから」
銀翅はゆったりと、背を柱に預けました。
「どうだい、朱鳥殿のいうことがわかったろう?」
――深入りはするな、と。葵は朱鳥に確かに言われておりました。
「他人から見れば、ひとでもあやかしでもない。…ひとであるために、あやかしをかる一族だ。――かれの畏れは、あながちゆきすぎたわけでもない。」
なぜその言い付けを知っているのか…と、葵は驚きました。しかし、式神を使う彼には朝飯前なのだろう――と、すぐに解りました。
その心に応えるかのように、銀翅ははくすりとわらいます。そして、問いました。
「――君はほんとうに、私を助けたいのかい?」
葵は密かに思いました。
『見てはいけないものを見てしまったような気がする』。
思っただけの筈なのに、銀翅は応えました。
――その通りさ。君は私に近付き過ぎたね? 近付き過ぎてはいけないと、忠告したのに。
――まだ時が足りない、と言ったろう? あれは君の為でもあったのさ。全てを知るのが早過ぎたね? 云った筈だよ、“過ぎた好奇心は、ときに人を殺める”と。
――分かっていると思うけれど、今になっていやだなどと言わないでおくれよ?
――“まず君達から漏れたものと私は思うから”。くすくすくす…。
畳み掛けるように紡がれた銀翅の言葉に、怖れをなして逃げ出した葵の背後、首元に罹る呪を見、銀翅はひとり嗤いました。
――心の内を全て話して、なお淡々としていたのは彼女だけだった。
――信頼に足ると思えたのがひとでなく狐とは、なんと因果なことか!
***
「――ッ!! …ゆ、…」
…夢、か……。
ひどく乱れた呼吸に戸惑いながら、ゆっくりと辺りを見回す。
からだが異様に熱く、喉が渇く。…風邪でも引いてしまったのだろうか。
「どうしたんだ、葵。」――おれの悲鳴に驚いた朱鳥が、心配そうに声を掛ける。
朱鳥はそのままおれの額に手を遣り、渋い顔をして言った。
「風邪を引いたのか。…思えば昨日から、顔色が優れていなかったな。」
「…、そうかもしれません…。」
――なにかひどくおそろしい夢を見たような気がしていたが、熱のせいか、それも有耶無耶になってしまっていた。
…なんだったっけ…。自分の悲鳴で起きるほどの夢なんて、いったい…。
考えれば考えるほど、頭痛が酷くなる。
「う…。父上、お水を…」
「ああ。今、持って来させている。少し辛抱しろ」
「有難う、御座います…。」
「無理に話そうとしなくて良い。…出来るだけ早く、診て貰わねばならんな。」
――まずは医者に。次に、巫に。
父の言葉に、こくりと頷いた。
おれはそのまま、熱に浮かされてゆらゆらと揺れる目を瞑った。
――さあ、もう御休み。…次に目を覚ます頃には、総て忘れて快くなっているから…。
何処かから聴こえた声に安堵して、葵は意識を手離しました。
そのうなじの辺りには、まだ微かに印が残っておりました…。
瑞葉は実に優秀でした。
銀翅が死して尚、銀翅の遺志をのこそうと葵を護ったのですから。
滅びた村を護る。――何のために?
村を再び興した。――何のために?
背に科を負って尚、諦められぬ望みがすぐに消えるはずはなく。
家人に罵られ身を堕としても尚、諦められぬ望みがすぐに消えるはずはなく。
火は木より生じ、金を溶かす。
村を滅ぼしてまで蒔いた種がいずれ実を結ぶことを、銀翅はずっと望んでいたのです。