縺れた足に躓きながら、おれは家の外に出た。すぐに、聳える山を見上げた。
「――っ!?」
刹那、悪寒が背筋を這い上がった。
幾千、幾万もの鬼火が山の辺りを漂い、まるで山が蒼白く燃え上がったかのようだった。
みだりに立ち入ることを禁じられたはずの神域に、多くの人が踏み入ったことを、山の神が怒ったように見えた。或いは――地が血で穢されたことを、やはり神は怒ったのかもしれない。
その事実に慄き、ただでさえ縺れていた足からは力が抜けた。
ただ、ちからなき己を呪った。
――助けることができず、この腕で絶えた悠を想った。
――救うこともできず、かの地で絶えた銀翅を想った。
『葵様。此処にいらしたのですね。』
唐突に声をかけられる。――声のする方を見れば、銀翅の式神、瑞葉だった。
『主より言伝がございます。』
感情を宿さぬ声音に、いつぞやの銀翅を思い出す。
「何だ。」――問うと、ただ一言。
『「――お逃げ。」』
そう告げた式神は、銀翅とおなじ表情を遺して掻き消えた。
ひらりと舞った痕を拾い上げる。――そっと、紙を懐に仕舞った。
――お守りだよ。
そう、言われたような気がした。
途端に、まるで札から力を得たかのように、足に力が戻った。
――逃げる。とにかく逃げる。もうそれしかできることはない。
山の神が怒ると、何が起こるというのだろう。わからない。いずれにせよ、おれひとりで太刀打ちできるものではないだろう。
――山が燃えている。逃げろ。
そう声を上げながら、おれはひとりで走った。
もしかしたら、あの鬼火は普通の人間には見えないものなのかもしれない。
それは分からないが、どうか逃げてくれと思いながら、おれは叫んだ。
本当は皆を起こして回りたい。
でも、それは無理だ。おれの身体は血に塗れてしまっている。いちいちそのことで事情を説明している時間はない。とにかく起きて、そして逃げてほしかった。
村の奥にまで至る。
そこには巫の家がある。門の前で誰かが、山の様子を伺っていることに気づいた。
反射的に身を隠す。直後、
『誤ったか――』
そう呟く声が聞こえ、門が閉じられた。
あの声は――玄鋼だ。玄鋼は今日の企みを知っていたのだ。
いや、父の持っていた文が玄鋼からのものだとしたら、企んだのは――
――悲鳴。
驚いて、来た道を振り返る。
村じゅうに、見たこともない数の鬼火が漂い始めているのが分かった。
そして、それらはふわりと地に降り立つ。――忽ち、鬼火は狐に姿を変え、立ち並ぶ家々へと飛び込んでゆく…。
おれは悲鳴を飲み込んで村の外へと駆け出し、けれどもできるだけ冷静に考えを巡らせた。
力は、大したことはなさそうだ。しかし、数が多すぎる。
あの山はほんとうに狐の棲む山だったのか。
怒った山の神が、村に狐を差し向けた。だとしたら、あの山の神は、狐なのだろうか?
山の焔は蒼かった。あれは――狐火なのかもしれない。
――そう考えつつ、懸命に走ったが、やがて何匹かに追いつかれた。
万事休すかと思っていたが、狐は一定の距離を保ち、こちらに近づいてはこない。
不思議に思っていると、ばしん、と音がした。近づかないのではなく、近づけなかったのか。
何故? ――思い当たる節は一つしかない。
懐の紙を取り出す。
狐はじりじりと後ずさりをした。やはり、これのお陰らしい。
――これで逃げられる。
そう思った矢先、唐突に声が響いた。
『――やめとき。あんたらには無理や。』
その声にも聞き覚えがあった。
「瑠璃――さま…?」
そう声をかけると、現れた女は無表情でこちらを見つめた。
女はその腕に赤子を抱いている。
『瑠璃? ああ――』
女は少し考えるような仕草を見せたが、何かに思い当たったように、にたりと笑って答えた。
『こん姿の女やったら、あいつ共々喰うてしもうたわ。』――けらけらと、女は笑った。
その眼は金色に輝いている。ひとではないことは明らかだ。
「喰った――?」
『うちの名は、十六夜。』
おれの驚いた声を無視して、女は名乗った。
『村人らに襲われてんのに式神も出さんとは、とんだ間抜けやと思てたら。』
――おれの手許を見て、女は嗤った。
女は、その笑みを保ったままで、ざく、と此方に近づいてきた。
どうやらこの札は、彼女には効いていないらしい。
こうなれば、もうなす術はない。だが、せめて。
死ぬとしても、出来るだけ真実を知ってから死のうと思った。
「貴女が…山の神ですか。」
『如何にも。』――ざく、
「貴女の正体は狐ですか。」
『如何にも。』――ざく、
「なぜ、銀翅様を――村を襲うんですか。」
『山を穢したからや。』――ざく。
狐は、おれの問いに答えるごとに、一歩、一歩と近づきながら、まるでおれへの餞だとでも言うように簡潔に答えた。
いつしか、手を伸ばせば触れられる距離にまで近づいていた。
「…。」――おそろしさに竦むおれに、
『問答は、そんで終いか? ガキ。』――どこか歪な笑みを浮かべたままで、狐は尋ねた。
「貴女は――おれも、殺すんですか。」
『…。』
狐はそれ以上、歩み寄っては来なかった。すっと、その表情から笑みが消える。
『――あんた、外から来たんやったなぁ。』
「はい。」
『あいつとも、仲良うやってたし。』
「…はい。」
『………、なぁ。』
「…何でしょう?」
『――あいつのこと、今もすきか?』
「はい。」
おれの答えに迷いはない。
『…、ふうん。即答か。』
狐はどこか苦味を含んで笑う。すると、血に塗れたおれを厭いもせず、けれども朱いところは避けて、俺に触れた。――いよいよおれも、これで終いか。
『――ほな、見逃したるわ。』
「…っ、…。」
驚き、思わず顔を見上げると。――くす、と微笑んだその顔は、ひどくうつくしく見えた。
いつの間にか、狐の姿は掻き消えたようになくなっていた。
…何故だろう、ひどく長い間、立ち尽くしていたような気がする。――寒い。
――村の、外れ。
…寒さに震えながらぼんやりと居場所を思い出し、その代わりとでもいうように、生きる術を考え始める。
もう、此処には何もない。――けれど。
いずれ、彼らを弔う必要があるだろう。生き残ったおれが、それをしなければ。
彼らのためにできることを。
――それが、彼の願いだった。