複雑な気持ちを抱えたまま、その日は夜を越えた。
「――銀翅さまのこと。気になるのか?」
翌朝、見兼ねたように、そう尋ねられた。
「ん、ああ。」
物思いに耽りつつ、ぼんやりと返事をした。
「わかるぞ。あのお方はとてもお優しい方だからな。――私は、玄鋼さまよりも銀翅さまのほうがすきだ。」
村に広がる噂を当然耳にしているだろうに、意外にも好ましく思っているらしい。
「悠。――お前、そんなに銀翅さまのことがすきか。」
傍らの少女に、そう問いかける。
「お前とはなんだ。姉上と呼べ、姉上と。」
「齢が同じの者を、姉などと呼べるか。」
「わたしの父上に世話になっておきながら何を言う。」
「養父上には感謝しているが、お前に感謝する謂れはない」
「言ってくれるな…。」
――そう言うと、如何にもくやしそうな表情をされた。
もちろん、冗談であることはお互いに解っている。
おれが今穏やかに過ごせているのは、彼らのお陰だ。さっきはああ言ったが、勿論悠にも感謝している。
――冗談だ、と言うと、解っている。と微笑まれた。何だか、へんなきもちだ。
悠は、朱鳥の一人娘。
――見ての通り、男勝りな性格だが、村人からの評判はそう悪くはないらしい。そろそろ縁談が来てもおかしくない年頃だが、おれが来たせいか養父が断った、というような話も噂で聞いた。
真偽のほどはともかく、悠もなんとなくその辺りの事情を察しているようで、おれができるだけ早く村に馴染めるようにと、何かと世話を焼いてくれている。
一応おれは、吉兆をもたらすとされた。その上、外から来た血なら、尚のこと都合がよいと養父が考えるのも道理というものだ。
仮におれが村を支える立場になったとしても、あくまで優先されるのは悠の言葉だ。
――悠を支えることなど、おれにできるのだろうか。
そんなことを考えていると、悠も何やら悩む仕草を見せた。
「…? どうした?」
「…いや。…そうだな。」
「ん?」
「…これは、お前にだから言うのだがな。銀翅さまは、――胸を患っておられるんだよ」
「は…!?」
悩んだ末にぽつりと呟かれた唐突な話に、おれは目をむいた。
「わたしにだけこっそりと、教えてくださった。――誰にも告げるなと言われたが。」
「…、穢れを祓うものが、か?」
「そうだ。穢れを祓うべきものが、あるいは穢れておられる。ゆえに、本家には居づらいのだろう。それだけとも思えんが」
「…。」
「もうながくはないだろうからと、笑っておられた。じきに家を継ぐわたしに、あとをたのむ、と。――『兄だけではどうにも頼りないから』と、わたしにだけ明かされたんだよ。」
「そうなのか…。」
「銀翅さまは、病のことがあって尚もお役目をこなそうと力を尽くしておられる。だからわたしは、銀翅さまがすきだ。」
「…。」
己にできることを――と、言われた言葉が蘇る。
そして銀翅が、時折不思議な笑みを浮かべる訳も、わかったような気がした。
「ああまでお優しい方だと、血腥いことはさぞ嫌がっておいでだろうなぁ。」
「…しかし、相手は物怪だろう?」
「…。」
――おかしな事を、と茶化すように言うと、相手は違えど、またもどこか冷めた目をこちらに向けられた。
「…お前は、どのようにして銀翅さまに出会った?」
「山で行き倒れていたのを、助けてもらった。」
「そうだな。――どのようなご様子だった?」
「とても、よくしてくださった。」
「そうか。」
そこで一旦言葉を区切ると、悠は尚も話を続けた。
「外界から来て、どのような穢れを持つか判らぬものを――人か、物怪かも判らぬものを、迎え入れ、看病し。食べるものを与え、この村のことを教えた。…そうだな?」
「…。そうだ。」
「銀翅さまがお前を、どの段階でにんげんだと断じたかはわからないが。――お前が目を覚ましたとき、銀翅さまは、お前に厳しい態度を取っておられたか?」
「…、いや…。」
「そういうことだ。」
ばつが悪い気持ちになって俯いていたおれに、悠はやさしい声色で言った。
「――とても、お優しいお方なんだよ。」
「…。」
物怪も、人も。――おなじように、思っているのだろうか。
そんなことを考えていると、
「……! そうか。」
――不意に思い出した。銀翅が、外に憧れていたことを。
「! …どうかしたのか?」
急に顔を上げたおれに、悠はすこし驚いて尋ねた。
「おれにしかできないこと。ひとつ、ある。」
「お前にしか出来ぬこと?」
「銀翅さまは、――身体のことがあるのなら、今まで外を見聞なされたことなど、あまりないのだろう?」
「…ああ。そのような話、聞いたことがない。玄鋼さまはよくお出かけになるが――」
「おれに『外の話を聞かせてくれ』と、仰った。外のことを話せるのは、きっと、おれだけだ。」
どんな話をすれば喜んでもらえるのか。――そこまでは分からないが、ともかく、おれには、この村の外の話をすることができる。それだけは確かなことだ。
「そうか。――そうだな。早く、伝えて差し上げるがいい。」
「ああ――」
「――ところでその話。わたしも聞いてみたいのだが、良いか?」
「え、お前が?」
「わたしとて、いずれは村のことでかかりきりになるだろうからな。――聴けるものなら、聞いておきたい。」
「そうか…。分かった。――また山に行くときは、お前も誘うよ」
「山に!?」
――しまった。口を滑らせてしまった。途端に悠は驚き、声を大きくする。
「――お前、あの山に行っていたのか」
「あっ。いや、その…。」
「…。父上に知れたら、ことだぞ」
くす、と苦笑しながら、悠は囁くように言った。
「……、銀翅さまになかなか会えないものだから、つい」
つられたように、声を小さくする。
「呆れた。無鉄砲なやつだな。――何事も起きなかったのは、お前が吉をもたらす者だからではないか?」
――やれやれ、という仕草をすると、悠は声を立てて笑った。
「…。お前は、山に入ったことはないのか?」
「ない。――危ないから決して入るなと、母上に言われているからな。なんでも、狐が多く棲むのだと聞いている。」
「狐…?」
おれは首を傾げる。
「そんなもの、見なかったけどな…。」
「ふうん? ――お前だからか?」
おれの真似をするように、悠も首を傾げた。
「…。そんなに買い被るなよ。」
「あぁ、すまない。…まぁ、いずれにせよだ。――清いとされている場所は、そう濫りに侵すものではないということだよ。何が起こるか分からないからな」
「…、ああ…。」
どこか釈然としないが、考えたところで解るはずもない。
「…いずれ、銀翅さまはまたお出でになるのだろう?」
悠は、先ほどの話に戻って続けた。
「ああ。また訪ねようと仰っていた。」
「なら、その日まで大人しくしていた方がいい。――今のお前はただでさえ、村に来たばかりで目立つのだからな」
「…分かった。」
無闇に銀翅に会おうとするのも、やめた方がいいだろうな。――下手に目立って玄鋼に目をつけられたら、後々困ることもあるかもしれない。
――過ぎたるはなお及ばざるが如し。
銀翅に言われたことばを思い返しながら、おれは山を想った。