暑い夏はとうに過ぎたというのに、その日はひどく寝苦しい夜だった。
目を開けると、ずきりと胸の辺りが痛む。
――嗚。またか。
とうに慣れ切ったその痛みだったが、何故かひどく気にかかった。
もう長くはないのだろう。
けれど、まだ、もう少しだけ――村人たちの為に。娘の為に。
なぜこの病は治らないのか。
家人に言われずとも、とうに我が身を呪っている。今更、つらいとは思わない。
気に掛かるのは妻のこと。――娘のこと。
子に恵まれない兄夫婦。…思えば、それも私の受けている、物怪の障りのひとつなのだろう。
私に近づいた妻に、いよいよ災いが降りかかるようになったのかもしれない。
私の障りのせいで、兄夫婦に子ができず、我が子を預けねばならなくなった。そのことで、妻が気を病んでしまった。
しかし、父の命を否とすれば、忽ち妻は路頭に迷っただろう。身重であるにも係わらず。
もし仮に、其処に私がついていたとて、病の身で何が出来よう?
何処へ逃げるというのか。そう遠くへは行けまい。――私の所為で。
どちらをも生かすには、兄の言うことに従うよりなかったのだ。
そう、何度も思おうとした。
けれど、本当にそれしかなかったのだろうか? もっと他に方法があったのではないか?
秘密裏に妻を逃がしたら?
――二度と会えなくなっただろう。私はまだ使えるからと殺されはしないだろうが、幽閉といったところか。今とそう変わらないが、これでは妻だけを追い出すのと何も変わらない。
家自体を滅ぼすか?
――私にそこまで出来るほどの力はない。家との争いは必ず露見するだろうし、それを避けようとして家人に口を封じられるか、露見した結果、家名が失墜し…一家が路頭に迷うか。これも、結果は変わらない。
万に一つ、家を滅ぼせたとして、何が残る? 妻と子は残ろうが、自ら争いを起こした私は村には戻れないだろう。すすんで和を乱す者を、彼らは迎え入れたりはしまい。そうなれば、野山に果てるのみだ。
妻を、子を生かすには、やはりあれしかなかったのだ。
妻には気の毒なことをした。妻のためにも――あの子だけは守らなければ。
やっと、人間らしい目的を持った己に気付く。
――物怪を倒し、封じる事で此処まで来た。殺生の為の力を磨いた。此処は、そうでもせねば存在できぬ、実に狭い世だ。
村人たちのように、平凡な生を送れたらと願った事もある。
けれど、病のせいで満足には働けまい。そもそも、此処から逃げられない。叶わない。
――またも、病。己自身。
そうなれば、手に入る物などわかりきっている。村人たちからの感謝だけだ。
村人たちからの望みは、時に過ぎることもある。しかし私からすれば、望みが持てるということは羨ましい限りだ。――過ぎた欲は身を滅ぼすだろうが、望みは生きる為の力にもなる。
とうに望みの潰えた、私の様なものに叶えられる事ならば、できる限り叶えてやりたい。
――裏では、好く思われていないのも知っている。
実際はどうあれ、私は『得体の知れない化け物』なのだ。
物怪と異なっている所は――人の為に力を行使している、という事くらいだろう。おそれとは、そういうものだ。
我が身も、あの家も、十六夜の加護も――何時まで堪えるだろうか。
喩え、永くはない身だとしても、村の為に力を尽くす。そうする程に家は続くし、十六夜もひとを見る目を改めるだろう。私の仲介が無くとも、村を見ていてくれるはずだ。
そうなれば、村人たちは私の名を讃え――同時に十六夜も讃え――家は続き、妻も娘も生かされる。
呪われた身は我が身だけで結構。
物怪の障りなら、もう既に受けている。
これ以上、何を恐れるというのか。
眠れば、また朝が来る。
きっと村人たちが、私を頼ってくるだろう。
その為にも、今は眠らなければ。
そして、夜が明ける頃。
だれかの気配に気が付き、浅い眠りから目を醒ます。
「…こんな明朝に、忍んで私を訪ねてくるのは…どちら様かな?」