銀翅は、式神を用いて山に家を造らせ、そこを住む処としました。村に本来の家がありましたが、本家に十六夜を連れて帰ると十六夜の正体が判ってしまいます。そこで、十六夜と共に山に住むことにしたのでした。
山を訪れる村人の依頼を受け、村へ式神を遣わせたり、村人からの相談を聞いたりしていました。どうしてもと村に呼ばれた際には、十六夜を住む処に残し、自ら山を下って行きました。
十六夜は、銀翅の傍らで、銀翅に感謝する村人や、銀翅に礼を持参する村人などの様子を見守っておりました。
「…あんた、どっか悪いんか?」
幾日にも亘る村人からの依頼を終えた銀翅がようやっと家に戻ったとき、十六夜は何気なく聞きました。
「…。…………」
問われた銀翅は、僅かに動揺を滲ませます。――この男にしては珍しいことでした。
「…体力がない奴なんかな、と思ってたけど。それにしては、顔色が良くないし。」
「………。あぁ、そうだよ。」――銀翅は、観念したような苦笑を浮かべて、静かに頷きました。
「…やっぱりな。すぐにばてるとこをみると、肺の臓か?」
「さぁね。」
「…?」
十六夜は、言いたくないから、はぐらかしたのか? という目を銀翅に向けます。
そんな十六夜から顔を背けつつ、どこか遠くを眺めながら、銀翅は応えます。
「昔から、肺の臓の病に効くと云われた、あらゆる薬草を試したのだが、効かなくてね。――近頃になってようやく医者を訪ねたが、医者も首を傾げるばかりだった。」
「…は? 昔っから悪かったんに、なんで医者に診せるんが、今頃――」
「家の者にはとうに愛想を尽かされている。怪を祓うべき者が、物怪の障りも退けられないのか、とね。」
「…。」
十六夜は言葉を無くします。
「私が山に籠ろうが、君のような者を嫁に取ろうが、彼らにとってはどうでも良いのさ。――家名に瑕さえつけなければね。何処で野垂れ死にしようが、何に祟られて死のうが…」
「………なんですぐに山に籠るんか、不思議に思ってたけど。そういうことやったんか。…山で死にさえすれば、病のせいやのうて、物怪と闘って死んだということにできる。近頃…、自分はできるだけ山におって、式神を遣わせてばっかりなんも、か?」
「ご明察。さすがに山の神ともなると、すぐに分かるのだね。」
「…阿呆。こんだけ傍におれば、誰にだって分かるわ。」
「………。」
傍らに誰ひとりとして理解者のいない男は、ただ静かに微笑むのでした。
「…それで、君はどうする?」
「何が?」
「私のような脆弱な者など、君の力を以てすれば虫を潰すように容易に殺せるだろう?」
陰陽師だからこそ明かせぬ己の病弱さを当の物怪に暴かれた陰陽師は、尚も静かに笑みを湛えるのでした。――或いは、死を望むかのように。
少なくとも陰陽師としては、致命的な過ちなのでしょう。
「…………、あんたみたいな力のある奴を、一息で殺せるわけあらへんやろ。」
嘘か真か、狐は俯きながら呟きます。
「へえ?」
ほんとうかな? と言いたげな視線を向け、どこか残念そうに、銀翅は笑うのでした。
尚も俯く十六夜を見つめる陰陽師は、病の癒えぬ己の身を――他ならぬ狐に好く思われていないからこそなのだろう、とみとめると、僅かに苦く微笑みました。
――未だだ。より、人の善い処を見せなければ。…そう、静かに誓うのでした。
「…宝の持ち腐れ、やなぁ。」
その心を知ってか知らずか、十六夜は残念そうに言います。
「…まったく。この病さえなければ、私の手で如何様にでもできたというのに。」
諦観に塗れた言葉。――これも、この男が言うには珍しく感じられました。
「…家が、憎いか?」
「…さてね。ただ、この身だけは恨めしい。――遠くへ行くどころか、この山を登ることさえ、ひと苦労さ。」
銀翅は何時もと変わらぬ笑みを浮かべましたが、十六夜の眼にはそれがとても哀しげに映りました。
もっと早くに逃げきることさえできたなら、勝手に死んだことにされて、この身はどこか別のところで、好きなように暮らせただろう。
もはや、それができぬから、この地で、役割に縛られたまま、死んだように生きるしかない。
或いは、逃げようと抗って死ぬのも――と考えた。
しかし、そうすれば、村人たちはどうなるのか。
村人からの幾許かの感謝や敬意だけが、銀翅の得られるものでした。
異変の原因を探り、物怪を封じ、倒すことでしか得られないものでしたが、銀翅にとってはそれでも嬉しいものでした。
しかし、物怪故に仕方ないとはいえ――銀翅には常に殺生が付き纏っていたのです。
銀翅にとっては、それが殊の外――厭なのでした。
そしてそれは、確実に銀翅の心を倦ませてゆきます。
いっそ、物怪に殺されればよかったのに。力などなければよかったのに。生まれてこなければ――よかったのに。
病に苦しみながら何度も自問した過去を――或いは現在を、銀翅はただ見ているだけでした。
「…なんかあったら、すぐに言うんやで。」
俯いたまま呟かれた言葉。それはとても小さく、吐息にすら紛れてしまいそうでした。
「え?」
己が耳さえ疑いながら、銀翅は問い直します。――僅かながらの希望を滲ませて。
「あんたみたいな――餓鬼をほっておくような、酷いことはしたくないしな。」
「…、餓鬼。」
「……突然、子供扱いとは。――酷いね。」
言い得て妙だな。と思いながら、銀翅は声を立てて笑いました。
ただ弱いだけの、――子供と何も変わらない、人間。
その身に余るほどの強い力を持ちながらも、物怪だからという理由だけで殺そうとはしない。今まで向けられてきた信頼を、わざわざ裏切ろうと思うほど、憎い人間でもない。
「一体どういう、風の…」――吹き回しかな?
そう続けようと思ったのでしょうが、よほど可笑しかったのか、げほげほ、と咳き込んでしまいました。
「…ほれ、せやし言うたやろ。」
「…?」
「自分がしんどいんも判らんのに、笑うてる場合か。はよ寝え。」
怒ったような声色で、けれど、なぜかほんの少し照れたような表情の十六夜が言います。
「…。………ふふ。くっくっくっく。」
そんな十六夜の様子に、…否、それが嬉しくてたまらない己を、銀翅は嗤うのでした。――弱々しく。苦く、苦しく。
物怪に、哀れまれるとは。私も――堕ちた、ものだな。
銀翅は、何度目か判らぬ自嘲を、弱ったその身にさえ向けます。
「…、まだ笑うてるんか。寝えって言うてるやろ。…ほんまに、ガキか。あんたは」
十六夜はそう言いながらも、銀翅に布をかぶせ、寝るように促しました。
「…解ったよ。――有難う、十六夜。」
銀翅は、咳き込みながらも弱々しく微笑み、大人しく床に就きました。
「…………。………」
十六夜に背を向けて横になった銀翅を、十六夜は複雑そうな表情で見つめました。
やがて、何かを決意したかのように一旦眼を瞑ると、相変わらず咳き込んでいる銀翅の背をそっとさすりました。