二階堂先輩と話を終えた俺は、玄関まで先輩を見送ろうと立ちあがった。
「御馳走していただいた上、長居してしまって申し訳ない。ご両親によろしく言っておいてくれ」
「ああ、はい。わざわざ姉を送ってくださってありがとうございました。」
「いや…」
先輩も俺に続いて立ち上がった。
玄関まで見送ろうと歩き始めた俺の目に、ちら、と青いものが映ったような気がした。
まさか――
「あ…。」
「――ッ!?」
「…………………。」
辺りに青い炎を浮かべ、相変わらず目に眩しい赤い色の着物を着た、狐が現れた。
争いになってしまうかと思ったが、意外にも狐は何もしてこない。
身を切るような、鋭く緊迫した雰囲気に面食らう俺と先輩。姉は無事だろうか?
まさか既に襲われている…なんていうことも、ありえない話ではない。
狐の表情は、…影になっていてよく見えない。
しかも、何故か先程から一言も言葉を発しない。
「お…お狐さま。如何なさいましたか?」
俺は、どうにか隙を作ろうと考え、狐に向けた言葉をひねり出した。
「………それを聞くか、諒。」
にたり、と笑った狐の表情に射竦められる。…俺には、隙を作るなど到底無理のように感じられた。
二階堂先輩の方もどうやらそうらしい。狐の表情までは見えていないだろうが、俺と同様に気おされているようだ。
一体彼女は何を意図してここに現れたのだろうか?
まさか、このまま喰われてしまうのだろうか――?
「――私は此処だ。」
最悪の考えが脳裏によぎった時、聞き覚えのない声が唐突に響いた。
「…久しぶりだねぇ、十六夜。」
久しぶり…?
狐とそんな挨拶を交わせる人物は、まさか…。
俺は驚き、声のした方へ顔を無理やり動かした。
…姉がいた。いつの間にここへ来たのだろう? 何故か、目を瞑っている。
「――いやはや、やはりなかなか、星読みとは難しいものだ。」
声はそう言うと、軽やかな笑い声を立てた。
まさかと思ったが、話しているのはやはり姉ではなかった。その口は閉じられたままだ。
立て続けに起こる奇妙な事態に動けずにいると、同じく奇妙な笑みを浮かべた狐が、重い口を開いた。
「へぇ、自分から出てくるとはな。一体どんな面の皮しとるんや…?」
狐も俺たちと同様に、姉の方へ顔を向けて喋っている。…が、どうやらその言葉は姉に宛てたものではないらしい。――視線は、その後ろへ届いていた。
姉の背後、朧げな闇の向こうには、人影があった。
朗らかな笑みを湛えつつ、すっと進み出たその人影は、幽かに向こう側が透けて見えていた。
「…っ!?」
俺は声も出せないまま、その人物を凝視してしまう…。
その人物――男は、俺の視線に気づくと、俺に向かってにこりと微笑んだ。
「まぁまぁ、そうこわい顔をせずとも良いじゃないか。この子たちだって怯えているだろう。」
男は、視線を狐に戻し、悠然たる面持ちで――微笑みすら浮かべながら言う。
「…………。」
狐は、先程から奇妙な笑みを浮かべたままだ。…が、その眼に浮かぶ光はむしろ強まっている一方のように感じる。
怒っているのだろうか? おそらく、当人以外には判らないだろう。
「こないなことになるんやったら、要らん世話焼くんやなかったなぁ。」
ギロリ、と姉を睨みながら、如何にも腹立たしそうに狐は言う。
「…なぁ、宵夢。――ほっといても治っとったんに。」
やはり怒っているのか…? どうにも違う部分があるようにも感じられるのがとても気になるが…。
俺は、いつ闘うことになっても良いように、気を張り詰めさせる。
「ははは。久しぶりに相見えたというのに、ちっとも変わらないねぇ、君は。」
突如現れた男だけが、穏やかに笑っている。
「…自分の器が危険に晒されとんのに、何が面白い。…ほんっまに…」
――ち、と聞こえたのは舌打ちだろうか。とにかく、心底呆れた顔をして、狐は言い放った。
「…恐らく、既に察していることとは思うが。」
狐の様子にも動じず、男は俺たちの方を向いて言った。
「私の名は銀翅。この娘の――前世、とでも言うのかな。…とにかく、星を読むことを生業にしていた者だよ。」
以後よろしく、とでも言わんばかりに軽やかな挨拶を、男はした。
男の正体にも驚いたが、何よりも、この緊迫した状態で自己紹介をした陰陽師――銀翅の余裕っぷりには恐れ入った。
狐でなくとも、呆れてしまいたいくらいだ。
「――嗚呼。君達の事は既に存じているから、紹介は不要だよ。」
笑顔を絶やさぬまま、陰陽師は言う。
「……………。」
そんな陰陽師の様子に呆れ返っているのかは定かではないが、意外にも、狐は動かない。――俺たちも動かない。というより、動けなかった。
陰陽師は、つ、と狐に視線を戻す。既に暗く沈みきった庭は、風の音すら聞こえてこない。
普段は黒いはずなのに、いまは炯々と金色に輝く狐の眼と、それを静かに受け止める陰陽師。
「――成程。十六夜の月も未だ健在、というわけか。」
痛いほどの沈黙ののち、陰陽師が静かに言った言葉に、俺は妙な違和感を覚えた。
どこか…懐かしいような…。
「どれ。せっかくだから相手をしてやろう…、と言いたいところだが。」
小さく溜息をつき狐に近づきながら、銀翅は続ける。
「生憎、今の私には君に敵うほどの力はないようだ。――立派になったねぇ、君も。」
俺が奇妙な感覚にとらわれている一方で、どこか楽しそうに言われた言葉に、俺は絶句せざるを得なかった。
――陰陽師に止められないのなら、一体誰が止めるというのだ?
「………分かっとるやないか。」
意外にも、狐は淡白な反応を返した。――で? と言いたげな表情は浮かべているが。
狐の反応に、陰陽師は目を細め、問うた。
「…では、君はどうしたい?」
「…っ」
狐は、陰陽師の言葉に僅かに動揺したらしい。
「…あんたは…。いっつもそうやな。うちにばっかり任せて、ずるいわ…。」
深い溜息をひとつ吐くと、心底不快そうな表情を浮かべ、続けた。
「たまには、あんたが決めや。」
「おや。良いのかい? 力有るものに委ねるのが、筋だと思ったのだけれど…」
陰陽師は、驚いたふうな表情を浮かべた。
「…では、私が尋ねよう。時に限りがあるから、言葉を選ばずに尋ねるが…」
陰陽師は一旦目を伏せると、何故か俺の方を向いた。
「…諒、と言ったね。――君、私と一緒に来る気はないか?」
「は…? お、俺、ですか?」
驚きのあまり目を見開く俺。
「………………。」
陰陽師は、俺とは対照的に目を細め、こちらへ近づいてきた。
「……、随分と其処に馴染んでいるようだねぇ。そんなに気に入ったのかい?」
にこ、と微笑みかけられる。解っていないのは俺の方らしい…。
僅かにたじろぎ、何のことだろうか…? と訝る俺は、陰陽師の目を覗き込む。
「――――――……。」