──春を分けて、目に写る景色に色が戻った頃。
俺は村を離れる支度を整えていた。
『ほんとに行っちまうのかい』
『薬師のあんたがいてくれると、あたしらも助かるんだけどねぇ』
「そうは言ったって、手持ちの薬草がないんじゃ薬師とはいえないだろ」
『そんなもん、山に入れば採れるじゃないか』
「おいおい、あの山に入ったら祟られるんじゃなかったのか? そりゃ御免だよ」
『…て、手前の道にだって、草木はあるし…』
「…困ったな。何だってそんなに引き留めてくるんだ?」
『あ、あたしは…』
やたらと食い下がってくる女──とよに、すこし苦い笑みを向けると、彼女は俯いて口ごもってしまった。
「ん?」──どうした、と彼女が言葉を紡ぐのを待った。やがて、重い口が開く…。
『……あたしは、もうあいつらなんか、当てにしたくないからだよ…』
『おい止せ、何てこと言うんだ』
そばにいた彼女の夫──タケが、彼女の言葉に驚いて小声で諌める。
しかし、とよはもう歯止めが効かないらしく、こう捲し立てた。
『あんなに何度もお願いしてだめだったのが、あんたに頼んだ途端にころっと治ったんだ。──あいつら、胡散臭くて仕方がない』
あいつら、というのは祈祷師たちのことだろう。
彼女は長い間、病を患っていた。右腕がしびれるので祈祷師に相談すると『右肩に誰かの腕が見える。それが肩を掴んで離さないので、腕が痺れるのだろう』と言われて、すすめられるままに祈祷を受けたらしい。
しかし、何度受けても治ることはなかった。藁にもすがる思いで俺に相談し、俺が渡した薬を飲んだらころっと治ったのだ。
「気持ちはわかるが、俺にもつとめがあるんだ。おとよさんみたいに困ってる人が他にもいるかもしれない。──俺は行かなきゃならないんだよ」
『…。……そうかい……』
彼女はそう言ったきり何も言わなかった。どうやら分かってくれたようだ。
「…じゃあ、達者でな。治ったとはいえ、あんまり無理をするんじゃないぞ」
結局彼女は、夫に連れられて去っていった。
「…全く、有難い話だ」
此処にいたのはほんの短い間だというのに、ずいぶんと感謝されたものだ。世話になっているのはお互い様だというのに。
「短い間だが世話になった。近くを通った時にはまた立ち寄るよ」
『こちらこそ。あなたであればいつでも歓迎しますよ』
朱鳥はそう言って、忙しいなか俺を見送ってくれた。
山を通る許しは貰ってある。
春になったので村を出たいと朱鳥に言うと、どうやら祈祷師に相談してくれたらしく、『それならば何日後のこの日ならば宜しい』と日にちまで定められたのである。何とも堅苦しいが、何を為すにもまず彼らに尋ねるのがこの村の常だというのだから致し方ない。
朱鳥や村人たちに見送られ、ひとり山へと入った。
進むにつれて木の青さは深く、空気が澄んでいくようである。山には修験者がいるものだが、この山は余程鎖されているのか、人の姿は見当たらない。
山の中腹に至った頃、がさりと叢が揺れた。
兎か狐の類だろうと思ったのだが、ひょっとすると熊かもしれないと身構えた俺の前に姿を見せたのは、よく知った顔の少年だった。
「おまえ──葵か? なぜこの山にいる?」
まさかと思いながらそう声をかける。人影は頷いて、こう言った。
『実は柾さんにお願いがあるのです』
「あ、ああ…何だ?」
この山には、祈祷師しか立ち入ってはいけないことになっている。その禁を侵してまで葵が聞いてほしい願いとは、一体何なのだろう。
きっと余程のことに違いないと薄々感じつつ、恐る恐る尋ねた。
『実は、あるお方が村を出る手引きをしていただきたいのです』
「…ほう? 誰のことだ?」
思わず小声で聞いてしまった俺に合わせるように、葵も声の調子を落として言った。その瞳には瑞々しい覚悟が満ちている。
『…。…先に断っておきますが、もしもおれの話を聞いたなら、あなたは命を賭ける必要があるでしょう。それが嫌だと仰るならば、日が頭上にのぼりきるまでにこの山を立ち去ってください』
少年らしい、勝手な願いだった。
「…無茶を言うなよ。正午まではあと一刻もないんだぞ。それに、そこまで話しておいて、聞くなら命を賭けろなんて、あんまりじゃないか」
『……すみません。勝手な願いなのはわかっています。けれど、おれはもう見ていられない』
葵はそれだけ言うと、口惜しそうに俯いてしまった。
どうやらよほどの訳があるらしい。けれども命を賭けるなんてただ事ではない。即答できずにいると、葵は何かに観念したようにこう言った。
『ではせめて、彼の病を診てはいただけないでしょうか?』
結局俺は、葵の願いとやらを聞いてやることにした。
とはいっても、何者かの病を診ることについてだけだ。それ以上を聞くのは、本人に会ってからでも遅くはないだろう。
なにせこちらは、命を賭けろと脅されているのだ。
──尤も、もしかするとその病人も命懸けなのかもしれないのだが。
てっきり村の誰かの病を診てくれという話なのだろうと思っていたのだが、彼はどんどんと山の深くへと進んでいく。
まさか、この山のどこかに隠れ棲む人物がいるとでもいうのだろうか。それだけで、ただ者ではない。
そういえば、同じ薬師からこんな噂を聞いたことがある。
──どこかに、人を寄せぬ神の山がある。もしも人が迷い込めば、遣いの狐に喰われてしまうらしい…。
物怪は子どもに化けることが多いと聞く。もしや彼は葵に化けた狐で、俺は神の山におびき寄せられている餌なのではないか?
神や物怪など信じない質だったが、いまの状況はあまりにもその噂に尤もらしさを与えていた。先を行く葵を、注意深く見つめる。しかし、どれだけ目を凝らしても、尻尾もなければ鉤爪もない。
まさか俺がそんなことを考えているとはつゆ知らず、当の葵が口を開いた。
『…見えてきました。あそこです』
葵が指す方向には、一軒の家があった。一見すればごくごく普通で、どこにも怪しいところはない。
やはり俺の考えすぎか…。葵に悟られぬよう密かに苦笑していると、このまま家の前で待つように言われ、しばらくすると中へ案内された。
中には男と女が一人ずつ。
女は男のすぐそばに控えるようにして座り、男は寝床から半身を起こした状態で、俺の目を見て穏やかに微笑んだ。
『私は白雨と申します。──このような処までわざわざお出でいただき、痛み入ります。…道中、なにもございませんでしたか?』
俺は男の言葉に答えられなかった。
「あ、あなたは…」
俺の前に現れた病床の男──白雨は、祭の日に見かけた、件の人物だった。──他言すれば命はない。
以前見かけたときよりも、男は明らかに具合が悪そうだった。暗やみで見ても顔色が悪く、以前見かけたときよりも痩せている。──他言すれば命はない。
驚いて口をあんぐりと開けた俺に謎めいた笑みを向け、男は尚も口を開いた。
『祭の日以来ですね。お変わりないようで何よりです』
「あ…、あのことは誰にも話していない」
『存じております』
たった一言放たれた言葉に、俺は生きた心地がしなくなった。
──存じている? 何故? どうやって?
まるですぐ傍で見ていたような表情を、二度目に会った男は見せている。
「……俺をどうする気だ」
『病を診ていただけると伺っております』
「それだけか?」
『それだけで十分です』
矢継ぎ早に放った質問に、男は淡々と答えた。
男の言葉には深い諦めがあった。──何の縁もない俺にさえ、それが解るほどに。
それに面食らっていると、男の傍らにいた女が席を立ち、桶を持って戻ってきた。
『…ほんで、薬師はん。うちらは何をしたらええんどすか?』
女がそう尋ねたそばから、男が首もとに手をやった。葵がそれを制し、男の着物の前を開けさせる。青い衣から白く痩けた膚がのぞいた。
──この男は何者なんだ。変わらず畏れが拭えぬままだったが、彼のことが気になっていたのも事実だ。
俺は男に歩み寄った。