『…どうぞ。粗茶ですが』
「あぁ、すまん。」
言われた通り夕方に顔を出すと、素っ気ない態度ではあったが迎え入れられた。
それに息をつく間も無く茶を出され、行き場のない溜め息を茶で飲み込む…。
『…じきに、娘が帰ると思いますので。』
「分かった。…、…。」
それ以外、特にこれといって会話はない。
居間のテレビだけが無機質な音を流し、言葉のない空間を代わりのように埋め尽くしていく。
――葉介は、こちらを見ようともしない。
どこそこのコンビニに強盗が入っただとか、犯人はまだ捕まっていないだとか、そういった内容のニュースに見入っているようだ。
『…よその町の出来事がこうも容易に知れるとは、不可思議な世になったものですね。』
「…、…そうだな。」
ようやく、小さくはあったが会話が成立する。
壁に掛かった時計を見上げたが、まだ数十分も経っていなかった。
時が経つのがひどく遅く感じる。
恨めしさのあまり時計をじっと睨むが、だからといって時の進みが早くなるわけでもなく。
『…、何か、用事でも思い出されたのですか?』
――それどころか、葉介に不審がられてしまった。
「…いや、…何でもない。」
『そうですか。…何か他にご用がおありであれば、ご遠慮なくお帰り下さいね。』
「ああ。気を遣わせて済まないな。」
そんな会話をしていると、テレビの音に混じって、また別の機械音が鳴った。
『…おや、翠春さんでしょうか。』
「…。」――葉介がそう呟いて玄関に向かった僅かな合間に、そっと安堵の息を漏らす。
…理由は何でもいいのだが、弟が去ってくれてほっとしている。
そんな自分を静かに嫌悪し、顔をしかめた。
「お邪魔します。」
――そう言って顔を覗かせたのは、翠春である。
「…遅かったな。」
「これでもすごく急いだんですよ。貴方ひとりでは間がもたないでしょう?」
「………………。」――事実であったので、返す言葉もない。
「図星でしたか。」――翠春にはすぐに見破られ、くすくすと笑みを零された。
「…それで、物は手に入ったのか?」
「ええ。葉介さんにお渡ししておきましたよ。どうやら、気に入っていただけたようで」
「…そうか。苦労を掛けたな。」
「いいえ。」
――翠春には、とある有名店の稲荷寿司を買ってくるように頼んだ。
…何でも、子供たちの好物がそれなのだという。誰にでも愛想が良く、すぐに人の懐に入り込める翠春は、いつの間にか誰かからそんな話を聞いていたようだ。
そうこうしている間に、葉介が翠春の分の茶を淹れて、運んできた。
「…ありがとうございます。」
『こちらこそ、良い土産を戴いて。』――にこりと笑んで、葉介は言った。
「いいえ。…娘さんのお口に合うと良いのですが。」
「…。………」――あの葉介さえ、翠春に対しては愛想良く振舞ってしまうらしい。
――この人たらしめ。
密かにそう思いつつ、ぬるくなった茶を啜った。
すると、不意に玄関から物音がした。…ドアの開く音からして、誰か帰ってきたらしい。
『ただいま〜』――声やイントネーションからすると、恐らく瑠璃だろう。
ひょっこりと居間に現れたのは、やはり瑠璃で。
『お、つよしまたきたんか! 懲りへんなぁ』――開口一番、そう言われた。
それに既視感を覚えつつ、張り詰めた空気から僅かに解放され、何処かほっとしたような心持ちで声を掛ける。
「あ、ああ。お帰り、瑠璃」
『お帰り、瑠璃。…道中、危ない目には遭わなかったかい?』
『ただいま、おとーさん。…うん、だいじょうぶやった。』
『そうかい、それは良かった。』
「…。今日は、帰りが遅かったのか?」
『…さて。普段通りではないでしょうか。』
此方の言葉にだけ僅かに冷たさが混じる声音と表情で、葉介は笑う。
「そうか…。」
「おかえり瑠璃ちゃん。…これから、あきらくんのお迎えに行くのかな?」
すかさずとばかりに、翠春が瑠璃に声を掛ける。そう言って近付くと、翠春は瑠璃にだけ聞こえる声で、何か囁いた。
『…。…う、うん。…おとーさん、すばるといっしょにあきら、迎えに行っていい?』
『ああ。…では、行っておいで。――翠春さん、宜しくお願いします。』
「…、…。」――弟は、瑠璃の問い掛けに頷く間際、こちらにちらと目を向けていた。
恐らく何かを警戒しての事だろうが、用心深い弟の警戒している事など、此方に容易く分かる筈もない。
「お任せ下さい。…瑠璃ちゃん、おいで」
『はぁい! いってきまーす』
『気を付けて行っておいでね。翠春さんのそばを離れないように。』
『うん、だいじょうぶ! うちとすばる、仲良しやから!』
はしゃぐような声が聞こえ、思わず頬を綻ばせる。――と、二人を見送った弟が居間に戻ってきた。
「…やはり子供は元気だな。――打ち解けるのも早い。」
『そうですね…。』
弟はそう言って曖昧に笑うと、空いた湯呑を下げた。
***
一方、その頃。
「なあ、すばる。」
「何かな?」
「なんで、つよし、また来たん?」
「ああ…。どうもね、君のお父さんに、夕方頃おいでって言われたらしいんだよ。」
瑠璃と翠春は並んで歩きながら、共に首を傾げていました。
「へ。」――何の心変わりや、と瑠璃もとい十六夜は驚きます。
「…、そんなに意外?」――翠春はそれに気付かず、僅かに苦く笑いました。
「…。…あんたかて、変やなて思うとるんちゃうのん。――翠玉」
唐突に名を呼ばれた翠春――翠玉は、僅かに畏まって応えました。
「――まぁ、そうですね。…何でしょう? 剛史さんが勝手に押しかけたというならともかく、弟君が許したとなると、ねぇ」
「…、なぁんか、知ってそうやなぁ、あんた。」
何を白々しく。と、十六夜は眉をひそめます。
「私は何も。」
対照的に、翠玉はにっこりと笑いました。貼り付けたような笑みとは、このような笑顔を指すのでしょうか。
「ほれ、その笑い方。きしょいわ〜」
「気色悪いだなんてひどい。…私は何も存じませんよ。」
しかし尚も翠玉は、しらを切りました。――余程言いにくいことなのかもしれません。
「…。まぁ、そういうことにしといたるわ。どうせあんたの事やから、何言うてもかわされるだけやろうし。」
――十六夜がそう言うと、その通りと言わんばかりに翠玉はくすくすと笑うのでした。
「…あきらくん、帰ったら驚くでしょうねぇ」
「…まぁ、な。――あの子も、何か知ってそうやねんけどな、立場上。」
「…。」
「何や、うちだけ仲間外れか。…つまらん。」
「そんなに拗ねないで。――土産に持ってきた稲荷寿司、私の分も差し上げますから。」
子供のように唇を尖らせている十六夜に、翠玉は笑みを抑えて言いました。
「え、稲荷寿司あんの!? …って、待てや、何であんたも一緒に食べることになってんの」
が、十六夜は翠玉の言葉に誤魔化されず、尚も鋭く問いかけました。
「え? …夕方頃からお邪魔するんですから、てっきり夕飯もご一緒するのかな〜っと思って、そう言ったまでですよ。」
「…。…………ふうん。」
「…納得してませんね?」
「…。そもそも、何でうちに来るときは、長居する前提なん?」
「それは…」
くす、と笑って翠玉は言いました。
「――家族だから、とでも申しましょうか。」
「…。」
――そういう問題か? と言いたげな十六夜でしたが、言葉には出さずに止めたようでした。
「ここは、兄弟水入らずにして差し上げましょう。」
「…ふん。」
――そないうまいこと、行くかいな。
嬉々として期待を滲ませる翠玉とは対照的に、十六夜はいつものしかめ面で鼻を鳴らすのでした。