花蓮が仕事へ出かけていった一方――
掃除が好きな葉介は、すすんで家事をこなしました。
人とかかわることが好きな花蓮は、葉介と暮らし始めてからも仕事を続けました。
『あら。鈴原さんのお宅は、お父さんがおうちに居るの?』――なんていう奥様方のひそひそ話には、もう慣れっこです。その類のひそひそ話は、場所を移しても変わらないようでした。
そんなひそひそ話に、うーん、と苦笑していた葉介でしたが、瑠璃や晶がめいっぱい元気で幸せそうな様子を見ると、大抵の奥様方はすこしばつの悪そうな顔をして、ひとまずはその話題に区切りをつけるのでした。
――しばらく暮らせば、いつしかその話のタネも薄れていくだろう…。
葉介はそう思っておりました。
***
子供たちを送り出し、いつも通りの手順で掃除をしていると。
機械音の後に『おはようございます。狐塚でございます』――と、聞き覚えのある声が届いた。
「――はい、少々お待ち下さい」
廊下の掃除をしていたので、インターホンに出るより直接出た方が早い。
ガチャリと戸を開くと、そこには宵夢の姿があって。
「突然お訪ねして申し訳ありません。お引越ししていらしたばかりで何かと大変かと思い、何かお手伝いできることがあればと思って参りました。」
「この時間からですか? わざわざ有難うございます。」
宵夢も、仕事が早いらしい。その様に、僅かに苦笑した。
「お邪魔します。…旦那さんが出られたので、すこし驚きました。――でも、良いですね。宵夢ちゃんや晶くんは、お家ではお父さんと一緒なのね。」
「そうですね。…有難うございます。」
「え?」
「…そういうことを言われたのは、初めてのように思います。」
「ああ…、あまり、お気になさらないで。…人それぞれですよ」
「ええ。…」
――これこそまさに、鶴の一声。
狐塚家は土地の有力者。宵夢がよしとしたものには、表立っては逆らわない。――そういう風潮。
――そこは相変わらずなんだな…。
密かにすこし苦い思いをした。まぁ、そのお陰で不愉快なタネが消え去ろうとしているわけだが。
「遙ちゃんは?」
「ご心配なく。今日は園の日なので、いないんですよ。」
「…もしかして、この近所のですか?」
「はい。この辺りだと、あそこしかありませんから。」
「うちの晶と同じですね。」
「あら! そうなんですね。…ということは、晶くんは、今日は遠足ね?」
「えぇ、まぁ。」
――遙と晶が、同じところとはな。
そう思っていると、不意にまたインターホンが鳴った。
『葉介さん、おはようございます。』
――インターホンを通じずともドア越しに聞こえる声は、どうやら翠春であるようだった。
やれやれ、と密かに息をつき、戸を少し開ける。やはりそこには翠春の姿があった。
「…おや、これはどうも。今は生憎来客中なのですが、御用件は?」
こちらの笑みに負けず劣らず、翠春もある種の笑みを浮かべて言った。
『あぁ、そうでしたか。…荷解きのお手伝いでもと思ってお訪ねしたのですが。また後程――』
「あら、それでしたら、私と同じですね。」
戸に隠れて姿が見えない宵夢が、声をかける。
「…。」
私は内心、舌打ちでもしたい心地だった。見れば、翠春は待っていたと言わんばかりの笑みを湛えて、わざとらしく言った。
『おや、狐塚さん。あなたもお手伝いでいらしたんですね。』
「はい。…剛史さんのことはもう宜しいんですか?」
『ええ。今日も散歩です。』――くす、と笑ったのは、こちらに向けた笑みでもあったに違いない。
「…。お二人ともわざわざお手伝いに来てくださったのですね。有難うございます」
――できるだけ。努めて朗らかに、笑みを浮かべて両者を迎え入れることにした…。
『いいえ。家族のようなものですから』
「…素敵ですね。」――少し羨むように、宵夢は笑った。
『では、お邪魔しますね。』
そう言うと、翠春は我が物顔で上がり框を踏んだ。
「あ」
『…? 何か?』
思わず声で制したが、くれぐれも余計な真似はするなよ、と視線を送るに留めた。
此方の視線を穏やかに捉えた翠春は、わかっていますよ。と頷いたようでもあった。
「…いえ、何でも。」
『そうですか。――それで、荷はどちらに?』
――どうぞ、と宵夢にも視線を送る。
それが伝わったようで、宵夢も笑顔で頷くと、翠春の後に続いた。
「家具の配置は業者がやってくれましたし、もうほとんど終わっています。…物の片付けも…そもそも物が少ないので、すぐに終わると思います」
『そうですか。ほかには何が?』
「骨の折れそうな事といえば、本を棚に並べるくらいでしょうか。…服も昨日のうちに、出し終わりましたから。」
手伝ってもらうことといえば…と考えつつ、先立って部屋に向かう。
「…鈴原さん、すごくお掃除がお得意なのね?」
――整え終わった部屋を見、感心する宵夢の声が聞こえる。
「いえ、そんなことは。――荷物が少なかったので、すぐに終わったんですよ」
驚いて目を丸くしている宵夢の様子がすこし可笑しくて、けれどもそれを笑うまいと、すこし複雑そうな顔に留めた。
「まぁ、つまりはその本が…」
部屋に着いたので、戸を開けながら独り言ちる。
「――すごく、多いんですけどね。」
『………。』
ちらと後ろを見ると、翠春は知っていたと言わんばかりの顔。
「まぁ…!」
宵夢は驚いて感嘆の声を上げた。
残るはこの本の山。――自室の整理だけだった。
部屋、というよりは書斎、と言った方が良いのかもしれない。部屋の壁は本棚になっていて、まだほとんど埋まっていなかった。肝心の本は、段ボール箱に入った状態で部屋の隅に積まれている。
昔から――職業病とでも言おうか――様々な書物に興味を持っており、今に至ってもそれは変わらなかった。
小説。伝記。図鑑。地図帳。辞書や宗教本。何かの専門書――これは少しばかりだが。
果ては、寓話、童話の類に至るまで、さまざまな種類の本があった。…主に、日本語のものが多かったけれども。
「…すごい…。これ、全部買われたんですか…?」
呆気に取られた宵夢は少し下世話ともとれる質問をしたが、彼女の性格をよく知る私は気にも留めなかった。
「とんでもない。実家にあったのを持ってきたのがほとんどです。…そのせいで、すこし、年季が入っていたりするんですが。とくに、面白いと思ったものを持ってきたんです。」
「…そうですか…。」――聞いた宵夢は、まだすこし呆然としている。
「おそらく重いものもあるかと思いますが、宜しければお手伝いをお願いできますか。」
「えぇと…、出来る限りの事は…。」――宵夢は戸惑い気味に頷いた。
『力仕事ならお任せください。』――翠春は悠然と頷いた。