「――ああ、そうだ。忘れていた。」
「まったく…。連絡がつかないと困るので、お忘れなきようと申し上げたはずです。」
まだ少しかたい口調が残る律義な翠春に、剛史――玄鋼は苦笑しました。
「済まんな。…おや」
置いたままで忘れていた小さな匣を手に取り、慣れない手つきでカチカチと操作すると、見知った誰かからの履歴が残っていることに気づきました。
「…翠春」
「はい、何でしょうか」
「これはどういう事だ?」
「…ああ。あなたの弟君がお電話を――えーと、何か用があるようでしたよ、という通知…報せ、ですね。」
「ふむ…。………」
どうやら頷いたけれども、まだどこか不思議そうな玄鋼の様子を見ながら。
あなたの弟からの着信履歴ですよと伝えるだけで、これだけの説明を要するのに、不在着信と着信履歴との区別はついているのだろうか? と、翠玉は愉快そうに首を傾げました。
――一応はそれなりに、弟君よりも長くこの世を謳歌していらっしゃる筈なんですがねぇ。
「…ちなみに、そのお電話には私が出ましたので。」
――解るはずがない。ということで、自己申告してみた。
「お前が? …そうか。」
翠玉がそう言うと、玄鋼は小さな匣に興味を無くしたように、懐へ仕舞いました。
「………良いんですか?」
「何がだ。」
「いえ。あなたがお気になさらないのなら、それで良いのですが。」
翠玉は、てっきり、何を話したのかといったことを聞かれると思っていたのでした。
――これは、また私が一肌脱がねばなりませんかね。
翠玉は呆れたように笑いましたが、その表情は、どこかひどく嬉しそうでもありました。
「お元気そうでしたよ。」
「…そうか。」
「お家も近くですので、また顔を見に行かれては? ご案内しますよ」
「…いずれな。まだ早かろう。」
「悠長な。」
元主の老いた身を、翠春は嗤いました。
「――また、機を逃しますよ。」
「…。」
「ほら。散歩のついででも、何でもいいじゃありませんか。」
「…そうだな。――では、明日にでも。」
「ええ。」
――くすくすくす。
この兄弟は相変わらず…と、翠春はやはり笑います。
剛史を指して、老いた…とは言っても、“まだ”50に届こうかという年代です。しかし、玄鋼にとっては、そろそろ迎えがきてもおかしくない感覚。
翠玉は、扱い慣れた元主の真意を口に出すことで、彼の矛盾を突いたのでした。
彼らのよく知る時と比べれば。
確かに、人々の寿命も長くなり、流行り病も少なく、住む場所もあり、食に餓えることも――余程のことがなければ――ありません。
しかし、まるでその代わりのように、鉄の塊が空を舞い、地を走るのです。玄鋼は、どうやらそれを気に掛けているようでした。
「…相変わらず、心配性なお方ですね。」
「急いたのはお前だろう。」
「おやおや。」
――以前ほどの繋がりはないにせよ、長く仕えた主の心など、凡そ理解出来ます。
「…まぁ、そういう事にしておきましょう。」
分かっているくせに、と、翠玉は皮肉げな笑い声を洩らしました。
玄鋼は、懐に仕舞った匣の重さを感じながら、重いような溜息を吐きました。