私はそっと目を開けた。
夜。十五夜――否、少しいびつな、十六夜の月。見覚えのない御殿の内。
病を思い出す。
――おかしいな。とくに苦しいと思った覚えはないのだけれど。
となれば、自然と目が覚めたことになる。――されど、夜。
これは一体何を意味するのだろう? 悪いことの予兆でなければいいのだが。
そこまでを刹那の内に考え、漸く思い出した。
「ああ、そうか…。此処はそういうところだった。」
十六夜の暮らす異界。
そこは、常夜の国。本来ならば人は立ち入る事すらできず、迷い込めば狐に喰われてしまう。
――そう、人であるならば。
そこで目覚めた私はつまるところ人ではないのだが、そうとは言っても元々人であるが故に、自らが異物であるという感覚を拭えない。
畏怖とも嫌悪感ともつかない感覚に戸惑いながら、静かに起き上がる。
すぐに、使いがやってくる。
「お目覚めで御座いますか、銀翅様。」
見れば、彼女は口元に狐の面をつけている。
「ああ、お早う。――君は…、いつもの娘とは違うね。今日は何か特別な日かい?」
私に宛がわれた世話役の娘は、面などつけていないのだが。
見るからに役目の異なるその娘に、出来るだけ物珍しさを隠して尋ねた。
すると、娘も言いにくそうに目を伏せ、答える。
「いえ。…その、実はお願いがございまして。」
「ほう。何かな?」
「誠に申し上げにくいのですが、その…。十六夜様を起こして下さいませんか。」
「……………。」
どうやら彼女は十六夜の真近に仕えているものらしい。――その彼女の頼みとは雖も。
…仮にも女性の寝所に入るというのは如何なものだろう。
「…いや、流石にそれはまずくないかい?」
「――承知しております。無理な頼みとも存じております。ですが、何卒。」
「…十六夜は、そんなに深く眠っているのかい?」
「いえ、その…。一応目を覚ましてはおられるようなのですが、揺すっても叩いても布団にお隠れになられたのでやむなく飛び乗ったのですが、それでもお布団からお出でにならず…。」
「そ、…そうかい…、そこまでしたのかい…。」
敬いとは何だろう。思わずそう考えてしまった。
「…。では、こうしては如何かな?」
私は一つの提案をした。
「畏まりました。」
面をつけた女性は、頷いて出て行く。
「…さて。あれで起きなければ、最早どうしようもないが…。」
じきに、騒々しく文句を言ってくるであろう十六夜に思いを馳せつつ、敷かれていた布を畳んだ。
「…主様。俺がやります。」
呼んだつもりはないのだが、すぐに、自らの式が姿を現した。ひょっとすると、何処かで様子を伺っていたのかもしれない。
「おはよう、瑞葉。…おっと、今は諒という名だったか。」
――経年の癖で以前の名を呼んでしまい、すぐに訂正する。
「…大丈夫だよ、畳むくらいの事は。」
「ご随意に。」――呼ばれた少年は特に気にする様子もなく頭を下げたが、此方はそういう訳にもいかない。
「いやいや。…せっかく君のご両親がくれた良い名なのだから、大事にしないとねぇ。」
「…。俺は、どちらの名も好きですけど。」――諒は、私の言葉に僅かに顔を上げると、少し照れたように頭をぽりぽりと掻いた。
「そう言ってくれるなら嬉しいが。無理に私に合わせずとも良いからね。」
「はい。ありがとうございます。」
ほんの少し嬉しそうに、諒は頷いた。
そんな話をしていると、俄かに外が騒々しくなった。
「…来たか。」
そう呟くと、諒は怪訝な目を此方に向けた。
たん、と、竹を割るような音が響いたかと思えば、障子が開いた音だった。
「おう、やってくれおったな…!」
そして其処には、般若の如き風格を漂わせた十六夜が居た。
「おはよう、十六夜。」――どうやら目が覚めたようだね。と、涼やかな笑みを向ける。
「仮にもうちの律する國で、よくもまあこんなことしでかすもんや…。」――が、十六夜はそれが余計に気に障ったのか、歪な笑みを貼り付けて言った。
十六夜は、全身から水を滴らせている。
背後では、先程の娘が「十六夜様、先ずはお召替えを!」と言っているが、彼女の耳には届いていないらしい。一方で諒は、驚いて身をかたくしている。
どんなに目覚めが悪くとも、さすがに水を被ればすっきりと目覚めるだろうと思い。
頭から水でもかけてやればいいのでは? と、提案したのである。
「寝てるとこにいきなり水かけるて、溺れさす気か! うちの子らに余計な事、吹き込んでからに…!」
子狐達に妙な入れ知恵をするなと、十六夜は怒っているらしい。
「少し、やり過ぎたかな。悪かったね。」――私の家ではこれが常套手段だったのだが。
「…。」――此方が謝ると、十六夜は複雑そうな顔をして黙りこんでしまった。
その表情を見るに、大方こんなところか。
『元はと言えば、起こしに来た使いの言葉を無視してずるずると引き延ばし、惰眠を貪っていた私にも非がないとは言えない。にも関わらず、潔く謝られては返す言葉がない。』――とか、
『どうせこいつは私がそう思っていることを、判っていてやっている。…つい乗せられてしまうところは、私も変わっていない。』――とか。
「――――…。」
「…まぁ、えぇわ。」――案の定十六夜は、言い返すこともなく大人しく引き下がった。
「…先に着替えておいでよ。身体に毒だから。」
「言われんでも、そうするわ。」
とはいえ、小言くらいは言われるだろう。――話ならあとで聞く、という意思を籠めると、十六夜は頷いた。
「…主様…。」
去っていった十六夜の背を見つめ、諒はぽつりと呟いた。
「急に大きな声がして、驚いたろう。済まなかったね。」
「…いえ、だいじょうぶです。」
――諒が驚いているのはそこではないらしい。
確かに、十六夜が障子を開いた瞬間、彼女からは凄まじい勢いであらゆる害をもたらす咒が此方に放たれていた。しかし往年の鍛錬の甲斐あってか、それらを無効化することができた。
その振舞いに、諒は感心したのかもしれない。
「…あと少し続いたら、何か一つくらいは罹っていたかも知れないねぇ。」
肉体があるならいざ知れず、魂魄のみの状態で咒を受ければ、その害意の及ぶところは計り知れない。――それを前にしても全くと言っていいほど怯まないのだから、肝の据わった男だ――と、諒は呆れたように安堵の息をついている。
「十六夜様を怒らせるのも、程々になさって下さいね。」――最早これが日常の光景となりつつあるのだが、諒は諫めずにはおれないらしい。
「ああ。せっかく身の穢れから解き放たれたのに、魂に罹ってしまっては口惜しいからね。」――これはこれで楽しいのだけれど、と思いはしたが、口には出さなかった。
***
「…。今日は、如何なさいますか?」
「さぁ。何をしようかな。…目的もなく日々を過ごす事の、なんと退屈なこと。」
くすくすと、銀翅は愉快そうに笑った。
ほんとうに退屈なのか、それとも俺の知らないところで何かしているのかは分からないが、何か楽しみがあるらしい。
「…君は、どうするんだい?」
「俺ですか。」
「ああ。…此処に来てから、少し経つけれど。なにも、四六時中私についていなくても良いんだよ。」
「ですが俺は――」
「元はそうだというだけさ。ずっとそうであってくれとは言っていないよ。」
「…、えぇと…。」
「君は、此処へ来たときに、じゅうぶん役目を果たしてくれた。」
「…俺の持っていた、あの五色の布の事ですか?」
ここに来た時、俺はいつの間にか五枚の布を握っていた。
細長い形をした布は、それぞれ青・白・赤・黒・黄の色をしていて、俺の手から宙へと、ひらひらと棚引いていた…。
それに見覚えはなかったのだが、すぐに現れた銀翅に見せると、『これを求めていた』と言われ。
よくは分からないが、ひとまず彼に預けたのだ。
「…あの布は一体、何だったのですか?」
「あれかい? ――…、それを観てきた君自身が憶えていないとはね。」
銀翅は、手に持っていた布を片付けて、よいしょとその場に座ると、俺の問いかけに、皮肉げに笑って言った。
「私は…、還ってきた君に、新たに役目を与えた。…あれはね、言うなれば我等の過去だ。」
「…過去、ですか。」
――まぁ座れ、と手で合図する銀翅に従って、向かい側に座る。
「そう。…未来から遡る過去は、あらゆる可能性を孕むもの。解らない事が多くあるが故に、様々な過去が派生し得るんだ。」
「…、…? それって…、並行世界、みたいなやつですか?」
懸命に理解しようとした俺の疑問に銀翅は頷くと、さらに続けた。
「君達の言葉では、そう言うのだね。…実際に私が経験した過去はひとつしかないから、もし君のように過去を遡ったとしても、ひとつの過去にしか辿り着けない。けれども何も知らない君は、数多の過去へ辿り着ける…。」
「俺はそれを、観てきたんですか。」
「そうだね。…あの布はその証だ。君自身、憶えてはいない様だけれど。――きっとあの布が形となった時、君の観たものはあれらに宿ったんだろうさ。」
「……、そうですか…。本当にあるんですね、並行世界なんて…。」
――まるでどこかの小説のような、奇妙極まりない話だ。以前の俺ならば、間違いなく馬鹿馬鹿しいと鼻で笑って、済ませていただろう。
しかし、せっかくのその経験を覚えていないのは、何だか残念なような、…いや、やはり憶えていなくてほっとしたような、複雑な気持ちがする。
「貴方も、御覧になったんですか?」
「過去をかい? …それは、まぁね。君の見聞きしたものは、私にもわかるからね。」
「…。たくさんの過去を知って、いかがでしたか。」
「……どう、か。――そうだな、…何と言えば良いのだろうね。」
銀翅は遠くを見つめるような表情で、珍しく、少しの間悩むような仕草を見せた。
「――過去を顧みて、『あの時もしもああしていれば』と夢想することは、誰しもあるだろう。…その先を見る事ができたようで、とても興味深かったよ。」
「…。そうですか…。…俺は…、貴方のお役に立てたんですよね…?」
――まるで、見たくないものを見てしまったとでもいうような。
どこか悲しそうに見えた銀翅の様子に、恐る恐る確かめるように、俺は尋ねた。
銀翅の言うことをすべて信じるならばの話だが…。
命じたのは銀翅だが、実際に動き、数多ある過去を観てきたのは俺だ。もしも責められるのならば、俺にも非があるように思えて、俺はわずかに身をかたくする。
――余計な事をしてくれたな、と言われたらどうしよう。
そんな俺を見て銀翅は確かに苦笑すると、俺の頭に手をやった。
「…君は、ほんとうによくつとめを果たしてくれた。これで漸く、場を繋げる事が出来るよ。」
「場を…? 何処へ、繋げるんです?」
銀翅は何かと、俺の頭を撫でる。――ほめられるのはもちろん嬉しいことだが、小さな子供のように扱われては、素直に喜べない…。
「我々の、在るべきところへ。」
――するとそれを察したように、銀翅は俺の頭を撫でるのをやめ、静かな瞳で俺を見つめた。
「…? 在るべき、ところとは…?」
「…此処は、十六夜が統べている國だ。今はまだどうにか保っているけれど、十六夜が人々に忘れられつつある以上、そう長くは保たない。此処に留まっていては、いずれ消えゆくしか道は無いんだよ。――だから、我々は新たな居場所を探さなければならない。」
「そ、…そうなんですか。」
「――しかし、当て処なく探していては、徒に時が過ぎるだけだ。…そこで、君の心を導とする事にした。」
「…え、お、俺ですか。」――何故そこで、俺の話になるのだろう。
突拍子の無い話に、俺は目を丸くした。
「今一度、君に役目を与える。…君の願いは、『彼女』のもとへ帰ること。そうだろう?」
「い、いえ、俺は…」――重ねて問われ、混乱しつつも、…何となく、それを認めてはいけないような気がして、咄嗟に否定しようと銀翅の言葉を遮った。
「気兼ねする事はないよ。正直に言ってご覧。」――しかし銀翅は、それを見越したように目を細めると、いつにも増してやわらかな口調で俺に告げた。
「…。………実は」
その厚意に甘んじ、改めて自分の本心を探る。
「ああ。」
――しかし。
「…………、判らないんです。」
「ほう?」――正直に自身の胸の内を告げると、銀翅はそれを咎めるでもなく、そっと先を促した。
「その…。俺が以前、姉の力になりたいと思っていたのは、…実際のところ、貴方の力になりたいと思っていただけなのかもしれないと、思って…。」――またも厚意に甘え、しかし上手く伝えることができずに、口籠った。
「…そうかい。」
――銀翅は、そんな俺の様子に一度区切りをつけるように頷くと、まるで俺の心を荒立てぬよう気遣うかのように、静かに俺に尋ねた。
「――では、君はどちらが良いと思う?」
「…え、っと…?」
「君の心の声。式神が主へ抱く忠義故か、それとも姉を慕う弟であるが故か。――君自身は、どちらであれば、嬉しく感じるのかな?」
「………。………、」
「急かしたりはしないよ。…よく考えるんだ。君の心を、君の言葉で教えておくれ。」
――主である銀翅には、俺の心を読むことだって簡単にできるだろうに。
銀翅はそれをせず、俺自身の自覚を待つ事にしたようだった。
「……。…じゃあ、……できることなら、姉のところへ帰りたいです。」
――自分の望みを口にすることは、こんなにも勇気の要る事だっただろうか。
そう慄いた俺の心を見たようにくすりと微笑むと、銀翅は誇らしげに言った。
「そうか。ほかでもない君が言うなら、そうなんだろう。…よくぞ口にしたね。――君の願いは、出来ない相談ではないよ。…その為にこれと、十六夜の力を借りる。」
銀翅はそう言いながら、懐からあの五色の布が付けられた緋色の扇子を取り出し、俺に見せた。
「…そうなんですか。あ、…ありがとうございます。」――少し大袈裟にほめられた気がするが、悪い気はしなかったので、素直に礼を述べた。
「君の真のすがたが何であれ、『彼女』のもとへ帰りたいと願う君の目を通して得た過去であれば、きっと君の望む場所へも繋がっているさ。」
「…そういうものなんですか。」
「そうだよ。…ヒトの望みは強いものだからね。だからこそ、導に相応しい。」
「…、ヒト、ですか。」――俺は、思いの外鋭く耳に入った単語に、僅かに顔をしかめた。
「…、勘違いしないで欲しいのだが、今の君はまぎれもなくヒトだよ。」
「…。…………」――そうは言われても…と、俺は言葉もなく床を見つめる。
「我々の時代は既に過去のもの。…だからこそ、――数多ある過去も同様に――ああして集めて祓い浄めることにしたのさ。彼らには、我々にあったしがらみは必要ない。…もちろん、完全に絶つ事は出来ないけれどね。」
「…俺も、そのひとつだったんですね。」
「……、………そうだね。だから、これから場を改めるのさ。」
「場が改まったら、俺達はどうなるんでしょう。」
「さてね。それは十六夜にも解らないことだろうさ。…ひょっとすると、私や十六夜は消えることになるかもしれないけれど――」
「…え」
「――君は、そうはならないよ。」
「…。…俺は、ヒトだからですか。」
「そうだね。」
――ヒトならば、安易には消えないらしい。しかし、それなら…。
「貴方は、一体…?」
「…なんなのだろうね。…ヒトの魂ならば巡るのが必定。けれど過去を忘れるでもなく、『私』は此処に在る――」
「…。」――俺の問いは、銀翅自身にさえ解らないらしかった。…いや、ただ隠しているだけなのかもしれないが……。
「ともかく――君は役目をひとつ果たしたから、今暫くは此処に来る以前のように好きに過ごすといい。…と言っても、遊ぶ相手も居ないんじゃ、そうもできないかな。」
銀翅はそう言うと苦笑した。――結果としては俺を孤独にしてしまったのだから、どうにかしなければ――と銀翅が思案しているのが、何となくわかった。
「主様。…そのこと、なんですが…。」
「うん?」
「お尋ねしても、よろしいでしょうか。」
「うん。何かな? そう畏まらずに聞いてご覧。」
「はい。――あの、俺は結局、…何のために、あの家に…。」
「…ふむ。『何の為に』と聞かれれば、――そうだね、先遣とでも言おうか。」
「先遣。…って、何ですか?」
「文字通り、先に遣わすもののことさ。『そろそろ其方へゆくから、どうか心づもりを』とね。」
「…誰への、先遣ですか。」
「十六夜への。…それから、道案内も兼ねてね。」
「…道案内…。」――俺は何故か、方向音痴だった姉のことを思い出している。
「目印は十六夜が立てていた風車。けれども、そうだな…――喩えるならば、目印が遠くにぼんやりと浮かぶ灯りのように見えているだけでは、ほんとうに其処まで辿りつけるのか、些か心許ないだろう?」
「そうですね…。」
「だから、念の為に先に遣いを出して、道を見定めておこうと思ったんだよ。…上手くいかなかったけれどね。」
「そう…ですよね。姉――貴方のほうが、先に生を受けていましたし。」
「ああ。…彼女が方向に疎いのは、案内が上手くいかなかった所為もあるんだよ。」
「…。」――俺のせい、か。
「君の所為ではないよ。」
はっとして顔を上げると、銀翅は困ったように微笑んでいた。
「どういう訳か、術が歪んでしまったんだ。その心当たりは、君にもわかるかな?」
「…! もしかして――」
「そう。私が君に祓ってくれとお願いした、蛇神だよ。」
「…。」
確か、名前は――水玄蛇葉神。
以前、俺が夢で教えられた、あの地に棲み付いていた大きな白蛇のことだ。
「――思えば彼女も、昔から悪戯が好きでねぇ。彼女が面白そうだと思ったものに気まぐれに力を与えては、事態を掻き乱して楽しんでいたよ。」
「…昔から、ですか。」
「そうだよ。ただ力を与えるだけだったのだけれどね。彼女は流れを司るから、ことをかき乱すにはそれで充分過ぎたのさ。」
「…。……貴方と、蛇神は、どういった関係だったのですか?」
「おや。それは彼女から、もう聞かなかったかな? …彼女は、私の家の護り神だったんだ。」
「えっ。」――蛇神と話した時のことは、何故かあまりよく覚えていないのだが…。それを、祓ったというのか。
「私の生きていた時代でも、もう伝承になっていたような。それはそれは古くから在る、神様だったようなんだ。――だから私も、あまり詳しくは知らないのだけれどね。…ひょっとすると十六夜ならば、何か知っているのかもしれないね。」
「…、はぁ…、何か、気が遠くなりますね。」
「君からすればそうだろうね。…君と遭った頃には、随分と力も弱まっていたようだ。」
「あ。」――『老いた』と言っていたのは、そういうことだったのか…。
「…。とにかく、あの時ばかりは十六夜も困ったようでね。来る筈の先遣が来ないので、目を覚ますのが随分と遅れたらしい。先に生まれた宵夢のことはいつも通り、何となく目をかけてはいたけれども、それが私だとは気付かなかったようだ。」――だって、先遣が来ていないのだから。
「…先遣って、そんなに重要な役目だったんですか。」
「そうだね。…十六夜は来るべき時に備えてできるだけ力を遺しておこうと、ずっと眠ったまま、有事の際には夢にだけ顕れるようにしていた。…『父』からも聞いていただろう?」
「…はい。」――『父』とは、以前俺が暮らしていた家での、父だった人物。彰文のことだ。
「本来ならば、先遣によって十六夜が目覚めて、更に先遣は十六夜の指南を受けて己の為すべきことを自覚し。その後で『私』が生まれ、『私』の指南をするのも、先遣のつとめだったんだ。」
「はぁ…、あ、だから、うちでは性別関係なく長子が家を継ぐ決まりになってたんですね。」
「そうだね。先遣のつとめこそ重要だと考えて、彼女なりにそう指南したんだろう。」
「でも実際には、立場が逆になってしまって…。」
「ああ。――十六夜もいつまでも目覚めず、私もずっと、彼女の中で眠ったまま――宵夢としての自我が強く根付いてしまった。だから――十六夜が自ら『私』を目覚めさせた。」
「…。」
「宵夢に『お前こそが銀翅である』と敢えて告げることで、…言うなれば『隙』を作った。」
「…となると、姉が式神に襲われて怪我をしたのも?」
「恐らくは彼女の狙い通りだろうね。…ほら、あの式神は狐のかたちを取っていただろう? きっと、何でもいいから理由をつけて、『私』に触れようとしたんだ。」
「…。では何故、今頃になって…。」
「…。」
「こうなることが決まっていたなら、いっそもっと早くこうなっていれば…。」
「――私はどうしても、今の世を知りたかった。」
「…。」
「目覚めるのが遅かったから、結局はそのほとんどを夢のうちから見るだけになってしまったけれど。…それでも、今の世を知れて嬉しかったよ。」
「…。…………」
「けれども結局は、私の我侭だね。――君につらい思いをさせてしまった。」
――銀翅は深々と頭を下げる。
「本当に澄まない。詫びのしようもない。」
「!? 主様、…そんな、責めるつもりは、なくて…」
まさか主が、式神である俺に対してこうも容易く頭を下げるとは思っておらず、おろおろとしつつも慌てて銀翅に声をかけた。
「――君は納得しないかもしれないが――そもそも、歪んでしまったものに手を出すこと、それ自体がとても危険なことなんだ。だから、手出しをするならば慎重に、けれども速やかになさねばと思ったのだよ…。」
「そうですか…。」――だから、此処に来るときはあまりにも急で、しかし随分と遅くなってしまった…。
「…やむを得ない、ことだったんですね。」
「…ああ。――切欠はほんの僅かな歪みであっても、それが正されなければ、段々とずれは大きくなってしまう。」
「…そうですね。」
「それに――式神というものは、元を糺せば歴とした呪詛だ。祓うものもなくあのまま放置されていては、やがては君達の家の未来にさえ疵を付けただろう。」
「…っ。」――あのままでは、俺が、あの家に害をなすものになっていたのかもしれないのだ。そう考えると、心底ぞっとした。
「私も十六夜も、そんなことは望んでいない。」――そうでなければ、こうも長く見守るなど…神の身であっても、果たせたものか。
哀しげな、労わるような表情を浮かべ、銀翅は絞り出すように言った。
「……。」――俺は懸命に想像力を働かせる。
薄暗い森の中。…支えてくれる者も少なくなり、視つけてくれる者も少なくなり。
いつしかひとりで過ごすことの方が多くなって、起きていても眠っていても、大して変わらない毎日…。
――それがいつ終わるかなんて解らないまま、そもそも本当に終わるのか? と、疑いさえしながら。ずっと、ずっと、気の遠くなるような時間、待ち続けるのだ――。
「――どうか、誰も厭わないでやっておくれ。」
銀翅は苦しそうに笑うと、俺の肩に手を置いた。
「はい…。」――努力します。
そう言って笑うと、銀翅は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
――過去はどうあれ、俺にできることをすればいい。
きっと、…今度こそ、俺の役目を果たすんだ。
「――、君なら出来るよ。」
芽生えた俺の意志を確かめるように、銀翅は頷いた。
***
「ああ、そうだ。――遊び相手を用意してあげようと思ったんだった。」
諒が感慨に耽っていると、銀翅が思い出したように言いました。
「…え?」
「――スイ。」
そして唐突になにかを呼ぶと、見る間に人影が現れました。
『お呼びでしょうか。』
凛とした鈴の音と共に顕れたそれは、諒には見覚えのない姿。
「お前は――」
――けれども瑞葉には、見知った面影。
『お久しゅうございます、弟君。』
「ああ、実に久しぶりだ。――どうだい、調子は?」
『御蔭様で。』
「それは何より。」
翠玉は本来、銀翅の兄である玄鋼の式神でした。
しかし銀翅は、玄鋼の創ったそれに自らの力を注いで模ったのです。依代もなく、瞬時に。
「スイ。――君の主が戻るまでの少しの間、君が私に仕える事を許そう。」
『有難き幸せ。』
「…今は些か不足もあると思うが、兄が戻ったら、真名を呼んでもらうと良い。」
『はい。…それにしても、仮の名だけで此処まで力が戻るとは、流石は弟君です。』
「…ふ。主でない者を讃えるなんて、君も相変わらず変わり者だねぇ。――今の言葉を兄が聞いたら、叱られてしまうよ。」
『事実を述べたまでのこと。お叱りを受けたところで、より滑稽に思うだけです。それに――仮にとはいえ、今は貴方が主ですので。』
「…君の様な面白い子が、あの兄の式神とはねぇ。」
――そう言いながら、銀翅は『スイ』の頭を撫でました。
『人は見かけによらない、という事かもしれませんねぇ。』
――翠玉は、それを嫌がるどころか、もっと撫でてくれと言うように、ころころと笑うのでした。
そんな翠玉の従順な様に、諒がまたも驚いて目を丸くしていると、気付けば翠玉は諒の傍らで微笑んでいました。
『――貴方も、久しぶりですね。…確か、瑞葉とか言いましたっけ。』
「あ、…いや。」――尋ねられた一瞬、諒は「どう答えたものか」という意味を込めて銀翅に目配せをしました。
銀翅が頷く仕草を返したので、諒は自ら名乗ることにしました…。
「今は、諒だ。」
『おや、そうなのですか。…、良い名ですね。』
翠玉はわずかに驚いたような表情をしましたが、今は銀翅の式神であるという自身の立場を思い出したのか、涼やかな笑みを浮かべるのでした。
「――では、そこの二人。何かあったら呼ぶから、それまでは好きに遊んでいなさい。」
「え――はい。」
『御守ですか。承知致しました。』
「おも…っ!?」
『ほら、此処に居ては銀翅様の邪魔になります。行きますよ!』――子供扱いするな、と目くじらを立てた諒の様子に、またもころころと翠玉は笑い、諒の腕を引いて何処かへと駆けてゆきました。
銀翅は懐かしさに目を細めて見送りました。
するとそこへ、着替えを終えたらしい十六夜が銀翅を見つけて近寄ってきました。
「あんた、何しとん。」
「遊び相手を用意してあげようと思って。」
「そっちもやけどそっちちゃうわ。」
「うん? ――ああ、うん。解ってる。もうしないから、許しておくれよ。」
「…。…うちも、あんましあの子ら困らさへんようにするわ。」
「うん。…私は慣れているから良いけれど、仕えている子たちはきちんと労っておやりよ。」
「ああ。当たり前やろ。」
「それなら良かった。」
十六夜は先程、感情に任せて咒を飛ばしたことを、どうやら後悔しているようでした。
それを横目に、銀翅はくすりと笑います。
「互いに過ぎたところがあった。――これで手打ちということにしよう。」
「ああ…。」――そういえば。
互いに反省したところで、十六夜は何か思い出した様子でした。
「…で、よりによって兄貴の式神をわざわざ呼び出して、何しとんの?」
「とりあえず、諒の遊び相手に。――何れにせよ、あの子も必要だろうからさ。」
「せやけど…。」――翠玉が何か害意を抱いてはいないかと、十六夜は心配しているようでした。
「そうなれば、還すだけだよ。…何かあれば、私には直ぐに解る。――呼べるのなら、早い方が良いしね。」
「…。ま、それもそうやな。」――銀翅に対してはそれさえ杞憂かと、十六夜は関心を無くしたようでした。
「…あれで、良かったんか?」
「勿論。…彼等の行く末を、私が決める訳にはいかないからね。」
「…あんたかて、これからどうしたいかくらい、あるやろ…?」
――まるで諒に任せきりにしているようにも見える銀翅のその様に、どこか不安そうに十六夜は尋ねました。
「あるとも。…だからこそ、こうして日々手を尽くしているんじゃないか。」
――それは、君もだろう?
銀翅も確かめるように尋ねると、十六夜は黙って首肯するのでした…。
「――ところで…、君は、今日もお出かけかな?」
「…ああ。そっちは頼むわ。」
「解っているよ。…気をつけてね。焦って無理をしないように。」
「うん。…これであと…、」――十六夜は何やら、ひいふうみ…、と数える仕草をしました。
「――そうだね。」
その様子に銀翅が頷くと、十六夜も頷いて外へ向かいました。
「解った。――ほな、行ってくるわ。」
「ああ、いっておいで。」
「あんたも、気張りや。」――けど、程々にな。
何事にも力を尽くし、時にそれが過ぎる銀翅を諫めるように、十六夜は言うのでした。
去っていく十六夜の後に続いていた付き人が、銀翅の傍で止まりました。
「きょうは、君がお目付け役ということか。」
銀翅がそう問いかけると――如何にも、とばかりに少女は頷きました。
すぐに無茶をする銀翅を見兼ねてか、それとも自分の國を荒らされてはかなわないと思ったのか、十六夜は銀翅に見張りをつけているのでした。
――心配性だね、とでも言うように呆れた笑みを零した銀翅は立ち上がると、縁側に浮かぶ月にもその笑みを向けました。
「では今日も、つとめを果たすとしようか。」
庭に降り立った銀翅は、手に持つ緋色の扇子をさっと広げると、その足で、たん、と地を踏みならします。
――ゆらりと水面の月が揺れ、
扇子に結び付けられた五色の布が、ふわりと起こった風に揺れました。