風に舞った椛の葉が、水面をひたと割った。
「…ほう。式神達の様子がおかしいと?」
「左様でございます、主様。」
――その報せを伝えてきたのは、自らの象った式神・翠玉であった。
「様子がおかしいのは、弟君のおつくりになった式神ばかり…。恐らく、銀翅様に何かあったのではないかと…。」
「…ふむ。何やら家の結界も揺らいでいるようだな。――ひとまず、結界は私が張り直す。恐らくは村の周りに張ったものも、同様だろう。…式神達の様子は?」
「それが…皆一様に、…不意に消えてしまったので御座います。」
「そうか。――既に死んだのかもしれんな。」
――いずれ、奴の入った山の見回りに行く必要がある。
「…解った。下がれ。」
「はい。」
まるで水面に落ちた淡雪のように淡白に、翠玉は音も無く姿を消した。
***
「何や、この気配。」
――不意に降って湧いたように現れたその気配に、咄嗟に身構える。
「あいつの結界も別に破れてへんみたいやけど、一体どないして入ってきたんや…? …急にその場に現れおったんやろか…。」
――ま、細かい事はどうでもええけど。
「…やかましゅうてかなんな…。あいつ、何やあったんやろか…?」
――うちもせやけど、あいつも黙ってないはず…。
そう思いつつ、降って湧いた気配のみなもとに向かいながら、肝心の銀翅の姿を捜した。
山の中腹辺りまでくだったところで、ざわざわと蠢く気配のみなもとを見つけた。
よくよく見れば、その気配に纏わりつかれながら地に伏せている者がいた。――案の定、銀翅である。
――ここまで纏わりつかれているのに、何の対処もしないということは。
おおかた力を使い果たして気を失い、それどころではないのだろう。
「…銀翅、大丈夫か?」
ひとまず助け起こせば、銀翅の周りを漂っていたもの達も驚いてざわりと散る…。
なかでもほんの少し強そうなものが、こちらに食って掛かる様子を見せたが、
「…やかましい! 喰い散らされとうなかったらさっさとこっから出て行け!」――と叫ぶと、微小なもの達は慌てて何処かへと姿を消した。
何処から来たのか知らないが、何か通り道があったのだろう。姿を消すと同時に、ざわざわと蠢くような気配も消えた。
――その辺りの事も銀翅に伝えた方が良さそうだ。またその抜け道を使って、現われられてはたまらない。
「…、はぁ。…ったく…。」
――やれやれ。こんだけ騒いでも目ぇ覚まさんとは、暢気な奴や。
こいつの場合、力尽きて行き倒れるのも、割とよくある話だった。いつもの事と思いつつ、銀翅の方を再び見やった。
「…え、」
――すぐに、目を瞠った。地が赤黒く染まっていたからだ。
改めて傷の具合を診る。これは――明らかにあのような微小なもの達に負わされた傷ではない。
恐らく、夥しい数のもの達は銀翅の流す血に引き寄せられて来ていたのだ。
私は、今までもっと大きな――例えば魂に宿る力にしか興味を持っていなかったが、微小なもの達にとっては、人の血さえ力となる。
迂闊だった。そんな事、力を持ってから――すっかり忘れていた。そんな自分自身に、小さく舌打ちをする…。
――この血…、こんだけでかい怪我やったら、手ぇ貸すだけ無駄か…。
いっそ放っておくのも手か、と、ほんの一瞬だけ思った。
しかしそうすればまた、物怪達を呼び寄せてしまうことにもなりかねない。
――それに…こいつ、…まだ、死んでない。こないに痛そうやのに、…。
物怪達が騒ぎ始めてから見つけるまでには、決して短くはない時が過ぎている。
それはまるで、気力だけで永らえているかのようで。
日頃からあまり生にこだわりを見せていなかった銀翅だが、しぶとい奴だな…と、感心を通り越して微かに呆れた。
「…そないに生きたいんやったら、うちも付き合うたるわ。」
そう応えてすっと立ち上がると、私は銀翅の血に手を翳す。
「――けど、ただでっちゅう訳にはいかん。…貰うで。」
銀翅の血の力を用い、動くことのできない銀翅を連れて、“場”を頂の屋敷へと移した。
すぐに、銀翅の手当てをしてやる。
流れる血を拭い、気休め程度にしかならないだろうがと思いながらも薬を塗り、傷口に布を巻いた。
――…これで、良うなるとえぇけど…。
銀翅の呼吸は荒く、触れた指先からは強い熱が伝わってくる。
――…いま、いつもの咳とか出たら、手がつけられへんな…。
そう考えつつ、今できることを探した。
「…なぁ、ちょっとえぇか」
――恐らく銀翅のことがこわいのだろう。そのせいか少し遠くから心配そうにこちらの様子を窺う同胞――子狐達に、声をかけてみる。
『…?』
「あんた、…ちょっと川のつめたい水汲んで来てくれへん?」
『…。』
まだ口の利けない子狐は、私の言葉にこくりと頷いて幼子に化けると、こちらに恐る恐る近づき、側にあった桶を抱えた。
――空の桶さえ抱え込むようにして持たなければならないのだから、水を入れたらどうなることだろう。
「…あー、…あんたも。」
『…。』
あまりにもたどたどしい様子に、ひとりで行かせるのは心もとないと思い、もう一匹いた子狐にも命じて手伝いをさせることにする。
「…川は近くやけど、何かあったら、すぐ知らせにおいで。」
『…。』
『…。』
――先程よりはしっかりと頷いた様子に少し安堵すると、出て行くふたりを見送った。
「…さて。…こいつ、いつまでもつやろなぁ。」
今までこいつには散々口出ししてきたが、何かとはぐらかされたり、逆にいいように使われてきた。
そんな、人間の真似事もようやく終わるのだろうかと思うと、胸のすく思いがした。
「…。………………」
そうは思いながらも一応は『妻』として、額や顔、首もとの汗を拭い、障りが出ない程度に身体の汗も拭ってやる。
そうして、腕の辺りを拭ってやった時。
「…痛っ! …??」――不意に、ちり、と、指先に痛みが走った。
痛みに驚いて手を払いのけ、すぐに収まった痛みを訝しみながら、よくよく目を凝らすと。
「…何や、これ…」
朧げに輪郭を見せたのは、玄々と輝く太い鎖。どくどくと脈打つようにゆっくりと明滅を繰り返すその鎖は、ただの鎖ではないことに容易に思い至らせる。
その鎖が銀翅の手首に絡みつき、ぎしりぎしりと締め上げている…。
しかも、頭が痛くなる程に金の眼を凝らせば、鎖の先は地の底まで続いているようにも感じられた…。
「…………、まっくらで…、何も、見えへん…。」
それでもなお眼を凝らすが、頭痛が酷くなるばかりで、地の底はなお昏かった。
「もしかしてこれ…人間が言う“地獄”っちゅう奴か…?」
――地の底にはしびとの國がある。そんな話を、以前耳にしたことを思い出した。
「こいつが言うには、何や罰みたいなんを受けるところやて話やったけど…――罰どころか、何もあらへんやん。」
「…それとも…、うちの力をもってしても見えへんくらい、もっともっと地面の深いところにあるんか…?」
神である私にさえ、 真偽の程は判らない。――神とはいっても、ただこの地を治めるだけの存在に過ぎないからだ。天の意思とやらのことまでは解りようがない。
――いずれにしても。
「…こないな、ろくでもないとこに、こいつは、行くんか…?」
――虚無であれ、地獄であれ。
「生きてる間も散々人間に苦しめられて、死んでからは物怪達の怨みを受けて、地獄で苦しむんか…? あんな、まっくらな、…得体の知れんとこで、……」
この男に安息はないのだろうか。――そう思うと、腹立たしいやら哀れやら、様々な感情が沸き起こってくる。
――こいつは、このことを知っているのだろうか。死ねば、もしかしたら虚無へと消えるかもしれない事を知って尚、いつもの様に笑っているのだろうか。
「…何やねん、それ。」
――無理に視ようとしたせいか酷く頭が痛んだが、それよりも目の前のこの男が不憫でならなかった。
「今かてこんなひどい怪我して、痛くて熱くて苦しいやろうに。」
「ここまでひどい怪我ははじめてやけど、怪我もぎょうさんしてきて、…それやのに、…こいつが今まで嫌やとか、やめたいとか、言うてるとこ、見たことない。」
――こいつはただ、自分だけを呪っていた…。…いつしか頭痛は熱を帯びた涙に代わり、その頬を流れ落ちていた。
「…。………………、」
そうして熱が抜けたせいか、少しずつ冷静になる。
地の底を凝視することを諦め、その金の眼を以てさらに銀翅の身体を見やれば、同じような鎖が首元にも、足首にも、さらには指先にも視えた。
「…はっ。」
――それを視て、妙に可笑しくなった。
「ただ地獄に堕ちるだけやのうて、その前に八つ裂きかいな。」
「――閻魔っちゅう奴も随分人が悪いなぁ。」
一介の山の主に過ぎない狐が、地獄の王を嘲笑う。
――その時、唐突に声が響いた。
「…そうだ。…私は地獄へ堕ちる。」
「…! 銀翅、目ぇ覚めたんか!?」
どうやら銀翅が目を覚ましたらしい。まさかこの重傷でと思ったが、顔を見れば確かに目を開いていた。
「――例え虚無へ消えゆくだけなのだとしても、それは罰として甘んじて受けよう。」
「…っ。」 ――重傷を負っているとは思えない程、朗々と紡がれた言葉に、私は続く言葉を失った。
――こいつはすべて聞いていた…? 私が視たもの、それを呟いたのを、すべて、聞いていた…?
「…この鎖のことは、前々から知っていた。」
そんな私の動揺を察したように、銀翅はささやかな種明かしをした。
「…前から…?」
どういうことだと問うように、銀翅に目をやる。銀翅はちいさく苦笑しながら、私の目を捉えて言った。
「…この怪我を負ったのも、鎖に足を囚われたせいだ。――まったく、因果とは侮れないね。己の成した業に足を取られ、致命傷を負うのだから。」
「致命傷、て…。」
「見ればわかる。これは私の命にまで及ぶよ。…今は、ほんの束の間、永らえているだけさ。」
銀翅は、ちらりと傷を見ただけであっさりと死を受け入れた。
「手を尽くしてくれた君には申し訳ないけれど…、いずれ苦しみはまた及ぶ。そしてこの鎖達は私を地の底へいざなう。」
――いつものように笑みを含んだその口で語られた話は、決していつものように笑い飛ばせるものではなかった。
「私はあの闇へ、黄泉へ赴いて、しびとになる。…そうなれば、君ともお別れだね。」
「…、………。」
その口調があまりにも淡々としていたので、私は二の句が告げなくなった。本人が受け入れているものに、他者が口出しできる道理はないからだ。
そうしていると、銀翅は私に優しく笑んで、何かを思い出したように話し始めた。
「…。…今は、あの物怪達の声は聞こえないね…。」
「…物怪達…?」――また妙な話が始まった。
私が怪訝な表情をすると、銀翅は少し意外そうな顔をして話してくれた。
「鎖の側についていたもの達のことだよ。頭を喰らうのは自分だとか、血を啜るのは自分だとか言って、取り合いをしていた…。――あぁ、爪先だけでも良いからくれと嘆願するものもいたな。」
「…それって…、うちが追い払った、あいつらのことか…?」
「…、ほう…?」
――私が駆けつけた頃、銀翅は蠢くほど微小な同胞達に囲まれていた。 そのことを銀翅に話すと、銀翅は納得したように頷いた。
「…成程。かれらは鎖を伝って私の力を得て、かたちまで取り戻したのか。――それは、良かった…。」
「…何が良かったん。」
――まさかこいつは、血を流しすぎて気がおかしくなってしまったのだろうか。
「あんたが今まで命がけで封じてきたもんが、またそのうち大暴れするかもしれんのやで?」
――それではただの骨折り損だ。
一体こいつに何の得があるのか、私にはさっぱり分からない。
しかし銀翅は、それさえ見越していたかのように、悠々と答えた。
「それは、時が廻って、満ちただけのことさ。その時は、兄か、兄の子か、…はたまたその先の者が、またかれらとたたかうのだろうね。――こちらの都合でかれらの力を奪ったのだから、少しは返してやらないと。」
「…。……、終わりはあらへん、って事か?」
「…私は、村の者達がいっときでも長く穏やかに暮らせるように、手助けをしたまで。――心残りも、やり残しも、何もない。…あとは兄や…姪が、引き継いでくれるからね。」
「………、それが、あんたの生き方か? 自分のやりたいこと全部他人に預けて、自分は地獄へ堕ちて、怨みが晴れるまで、ずっとそこにおるんか?」
「そうだ。」
――間髪入れず、躊躇いなく首肯された未来。
それは間違いなく真実となり、また容易には逃れられないことを、生のある今なお、ぎしりと締め上げて銀翅に苦しみを与える黒い鎖が伝えている。
「――それで良い。…この家に生まれた以上、生を涯る先は地獄だと、ずっと教えられてきたからね。」
「…。」――こいつの諦めが良すぎるのはそのせいか。どうせ全てを失うのだからと、なにものにも執着せずに生きてきたのか。
「…なにも私だけじゃない。兄も、きっと姪も、…父だってそうだ。祖父だってそうだっただろう。…我々の血筋の者は皆、物怪に喰らわれるか、地獄へ行って罪を禊ぐか、その涯てしかないんだよ。」
「…そんなん、…」――あんまりや。
そう言おうとした私を眼だけで黙らせると、銀翅は、言わずともわかっている、とでも言いたげに苦笑して、言葉を続けた。
「…己が地獄へ赴く代わりに、村の皆が天へゆけるならそれで良い。…己が物怪に喰らわれる代わりに、村の者が助かるなら、それで良い…。私の家の者は皆、そう考えたはずだ。…贄は少ないほうが良い。」
――贄。
よりにもよって銀翅の口から漏れた言葉に、私はなぜかひどく落胆した。
「…どうか、私のことで心を痛めぬよう。…覚悟なら、もう何年も前から、している…。」
――言葉に詰まり始めた銀翅の様子に、“時”が迫っているのだと知る。
「…今まで、世話になった。……どうか君は、…この先も、君の役目を、果たしておくれ…。」
「…、…。」
銀翅はそれだけ言うと、逃れられない苦しみに僅かに呻きながらも身を委ね、目を瞑った。 ――呼吸はまだ続いている。
“君の役目”。…私の役目とは。
私は銀翅の言葉を考え、銀翅とのささやかな会話を反芻する。
――村人達のために散々しんどい思いして、地獄に堕ちて怨みを買う…。
そうしている間にも、黒い鎖は銀翅の首や足を少しずつ締め上げてゆく。
――そうやってひたすら時が過ぎるのを耐えるか…、
耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな音で、きしり、きしりと僅かに軋むような音がする。
――そうでなくても、うちらの胃袋に収まるか…。
きっとその小さな音にはそぐわない程の大きな苦痛を、絡みつく者に与えながら。
「…。…………、ほぅか。…解ったで、あんたの言いたいこと。」
――頭痛を思い出しそうになってようやく、私は銀翅の願いに気が付いた。
「地獄に堕ちるやなんて、ざまぁみろ。――今まであんたらに邪魔されてきたうちらの怨み、ようやっと晴らす時が来たようやな。」
――これで良いのだと全てを受け入れた男なら。
「……ちっさい蟲の銀の翅なんて、うちがむしり取って、喰ったるわ。」
――きっとこの終幕も、受け入れてくれるに違いない。
十六夜は、地獄の王を嗤ったその口で、哀れんだ男の名も嗤う。
その眼は生あるものの輝きを煌々と湛え、つよく、つよく輝いていた。
其の瞳、闇夜に輝く十六夜月の如く。