第十二話 暗涙

-leve-

――それから過ぎていく穏やかな日々に、銀翅もやがて少しずつ、飽きてきたようでした。
それを見計らったように、十六夜は時折、遙や玄鋼のみならず、蓮華をも山に招きました。

無論、彼らが村に帰る時には、彼らの過ごした穏やかな時の記憶は削除されてしまいます。
互いに喜びあう再会であることから完全に削除するのは難しく、十六夜はそれを夢としてぼかす事で、宵の夢としたのでした……。


銀翅の姿が見違えるほどに老いた頃には、若き日の自身に似せた式神に『遣い』の役割をさせました。
――『遣い』が『ひと』であってはならない。曲がりなりにも神の眷属が、老いてはならない。

いつの頃からか、神の遣いが単なる式神であることに気づいた遙は、すこしの違和感を覚えつつも。
――山神さまも式を使うのかしら…?
と、納得しました。――玄鋼は何も言わないまま…。

そうして、長い歳月が過ぎてゆきました。

***

「――近頃、村の様子は如何です?」
「葵殿が上手くやっている。」
久方振りに、兄が訪ねてきた。――いつもの様に式を使って茶を振舞うと、兄も、慣れた様子でそれを口にする。

「そうですか。悠殿が病にたおれたと聞き、気にかけていたのですが…。ひとまずは何よりです。」
「全くだ。――いよいよ私も御役御免だな。」

「何を仰いますやら。…先日も兄上が、遙と共に村を荒らす物怪を排したと聞いておりますよ。」
「…、悠殿の事といい――相変わらず、事物に(さと)い奴だ。私が此処を訪ねずとも、障りないのではないか?」

「いえそんな、とんでもない。…村の皆が口にしている事程、耳に入りやすいというだけですよ。――貴方にしか知り得ない噺というのも、偶には聞いてみたいものですから。」
「…どうだか、な。――お前の方こそ、どうなんだ。」

「其れこそ、変わりなどあろう筈も無い。」
「…。病の事は?」

「お生憎様、何の変わりもありませんよ。」
「そうして大人しくしていても、変わらぬという事か。」

「どうやらその様ですね。幾年経ても、変わらぬものもあるのでしょう。」
「…。………、悪いのか。」

「…?」
「――お前がそうやって笑うのは、都合の悪い事を隠す時だ。違うか?」

「おや。…参りましたね、顔に出ましたか。」
「――ふん。お前の考えなど見え透いている。何年お前を見てきたと思っている?」

「お互い様ですがね。」
「口の減らぬ奴め。」

「兄上の方こそ、口数が少ないのはお変わりないじゃありませんか。」
「話を逸らすな。…悪いのか、と聞いている。」

「…。寧ろ、こうまで長く生きられるとは思いませんでしたよ。」
「――…。」

「あと幾月もすれば――と思い続け、気付けば四季がひとつ、ふたつと廻り、歳を重ねてしまいました。…いつ迎えが来ようとも構わないと思えば思う程に、長く生きてしまうものなのでしょうか。」
「…。それで?」

「悪くなっているかと問われれば、…そうですね、良くはなっていませんから、悪いのでしょう。」
「どの程度だ?」

「毎夜、夢に視る程度には。」
「…、以前より悪くなっているではないか。――何故言わなかった?」

「何故と仰られましても、…初めてではないのですよ。昔――あの怪我をするよりも以前はずっと、こうだったのです。夜眠っても、身体が休まった(ためし)がない、という様な具合に。」
「十六夜殿は、何と?」

「彼女は何も言いません。――聞こうとも思いませんが。」
「…。お前がそれだから、周りが余計な気を揉むんだぞ。」

「彼女は気負いする性質(たち)ではありません。言いたい事は直ぐに言う、そういうものですよ。」
「…、しかしな…」

「寧ろ、貴方の気負い過ぎなのでは?」
「――人の気も知らぬ癖に…」

「では、心配は御無用と申し上げておきます。…私は充分、生きましたので。」
「…。お前が良いなら、其れで良いが…。」

「遙にも、蓮華にも――葵にも会えた。何より貴方が、こうして時折村の噺を持ってくる。…穏やかな日々も、存外悪くないものでした…。」
「…。……、何れにせよ、お前ももう若くないのだからな。気だけで永らえるにも、限りがあると思え。」

「存じ上げております。――その所為か、近頃はよく目が回るようになって。十六夜に頼んでどうにか眠らせてもらっては居るのですが、身体が休まっている心地はしませんねぇ…。」
「そうか。難儀だな…。」

「――兄上は? 息災でいらっしゃいますか?」
「私か。まぁ、大病は患っておらんがな。」
そう言いつつ、兄は寒そうに身を震わせた。

「失礼。…火が弱まってきましたか。」
「爺扱いするな。大した事はない。」

「我慢が過ぎると、病に憑かれますよ。」
「お前が言うか。」

「何を仰います。…私が言うからこそ、ですよ。」
「…。まぁ、好きにしろ。」
幾年経ても強がりな兄の様子に、これも病のうちか、と微かに笑った。

「その様子では――雪が深い時期になれば、また暫くはお屋敷に籠られるのですね?」
「…不本意ながら、な。」

「…ふ。」――どんなに強がったところで、もう爺なのだな。
そう笑っていると、苛立ちを隠せない様子で兄は言った。
「…お前にも直に分かる。覚悟しておけ。」

「――はい。年長者の言葉には重みが有りますね。」
「…。」――ち、と僅かに舌打ちが聞こえた。

――兄を揶揄(からか)うのも随分慣れたな。
そう感慨に浸っていると、唐突に聞き慣れた声が響いた。

「玄鋼、来とったんか。」
「あ、…ああ。起きたのか。」
「お早う、十六夜。」

「…。相変わらずやな、玄鋼。」
どうやら驚いたらしい兄の様子を、十六夜は面白がっているらしい。

「急に出てくると、解っているのだが…な。」
「一遍に色んな心配し過ぎやねん、あんたは。」

「十六夜。兄の気の細やかさは、どうやら治らない様だよ。」
「そうみたいやなぁ。…ま、揶揄い甲斐あっておもろいし、ええけどな。」
「…。何とでも言え。」

「…で、何の話してたん?」
「唯の世間話さ。」

「ふうん。」――ふわあ、と、十六夜は眠そうに欠伸を漏らした。
「…。今宵はよく眠れなかったのかな?」

「いや、べつに。――起きてすぐやし。」
「…そうかい。無理はしない方がいいよ。」

「…、うん。」
「…。………」――眠れないからと毎日のように頼っているから、その疲れが出ているのかもしれない。

そう考えていると。
「…いつも愚弟が世話になっている。」
「兄上…、」――兄に先を越されてしまった。

「ああ。会うたんびに言わんでもええて。分かっとるよ…。」
「…。恩に着る。」

「成り行きでこないなっとるだけやのに、義理堅い奴や。――恩義に感じとるんやったら、まずは長生きして貰わんとなぁ。」
「…。ああ。直ぐに死ぬ心算は無い。――これからもどうか、弟を頼む。」

「うん。あんたは村と、遙の事だけ考えぇ。元々山は、うちの領分やさかい。」
「ああ。――ではそろそろ、村へ戻る。」
「…、はい。」

「だいぶん暗くなってきとるさかい、気ぃつけて。…何やったら(しるべ)に、明かりひとつ点けよか?」
「…。それで、昔のように、延々と山路を歩かされるのだろう?」

***

――随分昔、玄鋼が幼い頃に、山に入った時。
黄昏時のことでした。灯りを手に山を下っていると、道があったはずの所には草が生い茂り、右も左も木々ばかり。道を探して彷徨っているうちに、辺りは少しずつ暗くなってゆきました。
これはもしやと勘付いた玄鋼は、薄闇の中で辺りに目を凝らしましたが、特に変わったものはありません。――物怪め、姿をあらわせ――と声を張り上げてみても、闇は寂弱として、応えはありませんでした。

そうこうしているうちに、辺りは完全に闇に包まれました。
玄鋼の持つ灯りだけが煌々と輝き、生い茂る(くさむら)を踏み締める音だけが聞こえます。
黒々とした草木の陰は、今にも蠢き、襲い来るのではないかと思う程。時折吹き抜ける風は、さわさわと枝葉を揺らして遊びまわりました。

がさりと聞こえたけものの足音にすら、或いは自分の足下を草が掠めることにさえ怯えるようになった頃。
闇雲に歩き回った玄鋼は、いつしか川のほとりにいました。ざくりと踏み締めるものは小石へ変わり、僅かに安堵したのも束の間。ごうと強い風がひとつ吹いたかと思えば、玄鋼の持つ灯りはかき消されるかのように消え、玄鋼からすれば――唯一ともいえる望みが絶たれたようにさえ感じられました。

薄らと月明かりに照らされ淡く輝いていた川面は僅かに輝きを返してはおりましたが、玄々(くろぐろ)と輝くそれは巨大な蛇の(からだ)のようにも見え、却っておぞましく映るのでした。
すべてが恐ろしいもののように思えたその時、不意に雲が切れ、空に浮かぶ月が辺りを照らします。――それに安堵する間もなく、玄鋼の目に或るものが映りました。
月明かりに応えるかのように、其処彼処から青白い鬼火がいくつも浮かび上がったのです。それらは、ちらちらと瞬きながら、玄鋼を取り巻くように飛び回っておりました。

――山には屍人が巣食うから、夜には出歩かぬ方が良い。

そう言われていたのを思い出した玄鋼は、声も出せずに(うずくま)りました。
――物怪(うちら)の姿が視たいんやったら、灯りは消して貰わんとなぁ…?
突然耳元で囁かれた言葉に目を見開き、顔を上げた玄鋼は、自分が山の入り口に蹲っている事に気付いたのでした…。

***

「…へぇ。あれ、あんたやったん。」
「何だと…?」

「いや、それにしても。…ガキの頃の話を、まぁだ根に持っとるんか。」
「…。あの後は、大変な目に遭ったとそれはもう騒ぎになったのだ。私は当主にひどく叱られ、やれ禊だ祓だ、山神様を鎮めねばと上を下への大騒ぎ…。」

「…あんた、思ってたより持ち堪えたからな。つい。」
「…。……………。」――兄は、十六夜の言葉にひどく眉根を寄せた。
私は笑みを悟られないよう、声を殺した。――兄にも、そんな時分があったのか。

「――あんたみたいな爺に山路歩かせたって、直ぐばててしもて洒落にならんやろ。せぇへんがな、昔やないんやから。」
「…、どうだか。」

「…。兄上。」
「ん?」

「何かあれば、直ぐに文をください。」
「ああ。…お前もな。――では。達者でな」

「はい。――お気を付けて。」
兄の傍らに、ゆらりと十六夜の狐火が灯った。

「此れに頼る事になるとは、私も耄碌(もうろく)したな…。――全く、(とし)には敵わぬ。」
――兄はぽつりと呟くと、皮肉げにではあったが、確かに笑った…。


「…驚いた。兄の笑顔など――初めて見た。」
「…ふぅん。」――十六夜もどうやら感慨深そうにしている。

「そうか。…笑ってゆかれるか。」

晴れやかな心持ちで呟くと、何の気なしに十六夜が言った。
「…。――水、汲んで来るわな。」

「あぁ。…有難う。」
――全く。神に気を遣わせるとは、大層な身分になったものだな。

「じきに会える。…そうですよね、兄上。」
――私も老いたものだ。
いつしかその目からは、涙がこぼれ落ちていた。

leve:レヴェ
スペイン語
意味:軽微な、ささいな、微弱な。やっと認識できる程度の。
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