――明くる日の、晩。
銀翅の姿は蓮華の部屋に在りました。
面があるのだから声だけでも掛けたいと、銀翅が珍しく自ずから願い出たのです。
玄鋼は如何にも渋々といった様子で、それを許しました。また、その時間も厳密に定められました…。
銀翅は深く息をして、出来るだけ音を立てずに、衝立のそばへ膝をつきました。
――衝立の向こう側からは、微かな寝息が聞こえます。きちんと眠れぬ日もあるらしいと聞いていた銀翅は、今日はどうやら大丈夫らしいと安堵しました。
銀翅はおそるおそる、その顔を覗き込みました。
以前銀翅と暮らしていた頃よりも、やつれているように見えました…。
不意に銀翅の内で、本当に声をかけても良いものか、という不安が首を擡げます。
――声を掛けたところで、彼女は喜ぶだろうか?
銀翅は僅かに考え、――せっかく許しを貰ったのだから、と覚悟を決めました。
「…蓮華殿。」
銀翅が何度か声を掛けると、蓮華はゆっくりと目を開け、さも不思議そうに辺りを見回しました。
「蓮華殿」
途端に蓮華は、はっとした表情をして起き上がり、その顔に喜色を浮かべ。
「銀翅様、何処に…」――と言いかけたかと思えば、何かを思い出したように悲痛な表情をしました。
その口からは嗚咽が漏れます。しかし、尚も続いた銀翅の呼び掛けに、どうやら幻聴ではないらしいと思い至ったようでした…。
「ぎ――銀翅様…、本当に…?」
「蓮華殿。…貴女をそこまで嘆かせるものは、何ですか。」
「銀翅様…! 一体、何処から…?」
尚も信じられぬと言うように銀翅の姿を捜す蓮華は、或いは怯えているようにも見えました。
「――怯えさせてしまって、申し訳無い。…貴女のことが気がかりで、暫しの間、黄泉より戻ったのですよ」
「黄泉、から…。」――けれども、それでも会いにきてくれたのか。
蓮華は顔を伏せましたが、その口元は確かに笑んでいました。
「…。」――暫しの間、銀翅は沈黙しました。
すると、蓮華は。
「…ほんとうに、お戻りになったのなら。今一度そのお姿を、顕してくださいませ」
「…。」
銀翅は刹那、迷います。――しかし。
「――それは出来ませぬ。こうして声を交わすことも、本来なれば許されぬこと…。兄に見つかれば、忽ち祓われてしまうでしょう。」
それを聞いた蓮華は息を呑み、両手で口を覆いました。
「…、はい…。」――そして頷くと、今度は喜びの涙を流しました…。
「…どうか、健やかにお過ごし下さい。おつらいのなら、私のことなど忘れ、此処を出ても一向に構わないのですよ。」
「貴方様のことを忘れたいなどと、思ったことはございません。私はただ、何のお力にもなれなかった己が恨めしいのです…。」
「…その事で、申し伝えに参りました。…貴女に罪はありません。――貴女の子が流れたのは、私の咎なのです。」
「…、え…」――思いがけない言葉に、蓮華は言葉を失いました。
「…あまり、仔細は申せません。…ただ、兄の子が育っていると聞きました。…貴女もまた、兄の側女についたのだとか。」
「は、はい…。」
「貴女はまことに深い情をお持ちだ。…それを、あの娘に注いでやってください。…あの子も、黄泉の内で嘆いておりましたよ。狂おしいほどに泣く、母の声が聴こえると。それが、身を切られるよりつらいと。」
「…っ、…。――…、貴方様が仰るのなら、間違いではないのでしょう。」――蓮華は震える声で言うと、すこしいびつに微笑みました。
「もしも。何か願いがあるのなら、私にではなく兄に言いなさい。きっと聞き届けてくださるから。…これが、私にできる総てです。」
「はい…。きっと。」
「――死人である私には、貴女の嘆きを止めることはできない。貴女の声を聞くことはできても、共に嘆くことしか出来ません。…貴女が自ずと前を向くまでは。」
「はい…。」
「貴女の嘆きが何時しか止まり――貴女が幸福を感じる事が出来るようになる日が来るのを、黄泉の底より願っております。」
「有難う御座います…。…、あの、銀翅様。」――その言葉の片鱗に別れを感じ取った蓮華は、思い出したように言葉を紡ぎました。
「…何でしょう?」
銀翅は静かに、紡がれる言葉を待ちます。
「私は、貴方様と共に過ごす事ができて、…たいへん幸せでした。」
「…。私の方こそ。――きっと、あの子も、そう言うでしょう。」
「私の事は気に掛けず――どうかもう安らかに。あの子にも…そう、お伝えくださいますか。」
「無論ですとも。…――じき、春ですね。御身体を冷やさぬように。」
銀翅はすぐさま、隠し部屋へと向かいました。
途中、廊下で玄鋼の姿を見つけます。
「…終ったか。」
「…はい。」
答えた声は確かに震えていました。
「――如何だった?」
「…。死人だからこそ、吐ける嘘もあるのですね。」
銀翅はそう言うと、ひとり、隠し部屋のうちへ戻りました。玄鋼は迷う素振りを見せましたが、同じく銀翅に続いて隠し部屋へ入るのでした。
銀翅は面を外して、安堵の息を吐きました。
――いえ、或いは悔いる思いがあったのかもしれません。そのまなじりには光るものがあったからです。
玄鋼は銀翅の肩に手を置き、静かに問いかけました。
「何か…、私に出来る事はあるか?」
「蓮華をお願いします。――あれ以上嘆かせては、彼女はこわれてしまう。」
振り向いて言った銀翅の唇には血が滲んでいました。
「ああ。――よく…堪えたな。」
「…。あやうく、すべてを話してしまうところでした。」――銀翅は口元を拭い、笑顔を繕いました。
「…。………、そうか…。」
「彼女にまで、日陰者の生きかたを強いる訳には参りませんから。――彼女にはもう、会わぬ方が良い。」
「お前がそう決めたのなら、私は何も言わん。」
「…。――兄上。お願いが御座います。」
「言ってみろ。」
「彼女が何か願いを口にしていたら、私にも聞かせてください。貴方の力だけでは、足りぬ事もあるやもしれません。」
「…、分かった。それだけか?」
「あとは…。遙の素性は、今後も内密に。」
「…? どういうことだ? いずれは明かすのだと思っていたが。」
「彼女に嘘を吐きました。その嘘はいずれ、ほんとうの黄泉の国へ行ったなら――私自ら白状して詫びます。或いは、自ずと裁きを受けましょう。」
「そうか…。………、それで良かったのか?」
「彼女には生ある内に、幸福になって欲しかったのです。…その為には、彼女の過去の呪縛を出来るだけ、打ち祓わねばならなかった。」
「…その為の、嘘か。」
「はい。」――銀翅がこくりと頷くと、その頬がようやく濡れました。
「………お前はつくづく、優しい男だな。」
「とんでもない。…己の満足のために、親が親として――子が子として享受できるかもしれなかった行く末を潰したのですから。」
「否。…元はといえば私と――父の咎だ。本当に申し訳ない。」
「…。」――銀翅は複雑そうに、頭を下げた玄鋼を見遣りました。
「……。」
「――過ぎた事ですから。…彼等を、幸福にしてやって下さい。」
「ああ。」
「…当主様が簡単に頭を下げてはなりませんよ。」
「…。……」
「過ぎた事を悔いるばかりでは、何時までも先に進めません。――出来るだけ早く折り合いをつけて…次の手を考えねば。」
「――肝に銘じよう。」
「…。では、私は山へ還りましょう。何かあれば、報せを。」
「達者でな。」
「貴方こそ。」
「先ずは――吉き日が来れば、報せを出す。」
「お構いなく。勝手に出てゆきますから。」
「餞くらい、素直に受け取れ。」
「――ふ。…承知致しました、当主様。」
玄鋼が隠し部屋を出ると、黒々とした空に月が見えました。
「…、今宵は星が、よく見える。」
「兄上は相変わらず、お気の細かい方だ…。」
すぐに届いた文を見て、銀翅は嬉しそうに笑うのでした。