太陽に照らされて木々に積もり重なった雪が溶け落ちる音が聞こえた。それは春の訪れを告げる雪解けの音だった。柔い光で照らされた髪に少しだけ熱が篭る。ふと朝の白い空を見上げると燦々と輝く太陽が眩しくて、思わず目を細めた。

こんな日はどうしてもあの人を思い出してしまう。

歩いていた足を止めて、真っ直ぐ続く坂道に視線を向けた。緩やかな斜面の坂道は中学時代の通学路だった。晴れた日も雨の日も毎日学校へ行くために上り続けた坂道。あの人に初めて会った道。私の青春の場所。全てはこの坂道が彼と私を繋ぐ大切な場所だった。





「行ってきます!」

投げるように言い放った声は冬の寒空の下に響き渡った。玄関先で朝食ぐらい食べていきなさいと母の声が聞こえたが、そんな余裕などなかったので聞こえない振りをした。
――完全に遅刻だ。ちゃんと昨夜の晩に目覚まし時計をセットしておいたのになんで鳴らなかったのだろう。あの目覚まし壊れてるんじゃないの。苛立ちを目覚まし時計にぶつけながら走り出す。冷たい空気が肺に入り込み、むせ返りそうだ。頬を切る風があまりにも寒さを煽らせるので巻いているマフラーに顔を埋めた。
走っても走っても足を鈍らせる上り坂が今日は一段と憎らしく思える。一度足を止めて膝に手を置き屈むように呼吸を整える。
早く行かないと朝礼が始まっちゃう。もういっそのこと遅刻しようかな。いや駄目だ。今のところ皆勤賞の自分がただの寝坊で遅刻するなんて絶対に許せない。
頭の中で葛藤を繰り返しながら再び走り出すと、反対側から坂道を下ってくる自転車に乗った男子学生が目に入った。私も一度でいいからあんな風に颯爽とこの坂道を下りたい。いいなぁと羨ましく思いながら、すれ違う学生に目を向けた。
ふいに自転車が通り過ぎたことでぶわっと風が巻き起こり、私の髪を揺らす。なんだよもう。乱れた髪を手で撫で付けながら心の中で不満を漏らした。

キーッ

突然、背後から自転車の甲高いブレーキ音が聞こえた。驚いて振り向くと、少し離れた下り坂に先ほど自転車ですれ違った男子学生が私を見ていた。
男子学生は自転車から降り、歩道の端に自転車を止めて何かを拾うと、こちらに向かってゆっくり歩いてくる。なんだろう。しばらく立ち止まって様子を見ていると男子学生は私に声を掛けた。

「落としたよ」
「え?」

低くもなく高くもないその不安定な声色は声変わりの途中なのか。はい、これ。と男子学生が差し出したものは、私が通学鞄につけていたキーホルダーだった。それを見て思わず「あ」と声を上げる。そのキーホルダーは友達と雑貨屋で買ったお揃いのキーホルダーで、失くしたら困る物だった。

「ありがとう」
「…別に」

礼を口にすると男子生徒は愛想のない返事をした。見慣れない黒の詰襟の制服を着た男子生徒は恐らく他中の生徒だろう。朝日に照らされて輝きを放つ珍しい白銀色の髪は紺色のマフラーによく映えていた。
色白で端麗な容姿のこんな男子が私の中学にいたら、きっと女子達からモテるだろうなぁ。しみじみ観察するような目を男子生徒に向けると不愉快に思ってしまったのか、彼は眉を潜めて合わさっていた視線を逸らした。

「…じゃあ」

それだけ口にするとこちらに背を向けて、自転車で走り去って行ってしまった。遠ざかる彼の後ろ姿を眺めながら、彼が拾ってくれたキーホルダーをぎゅっと大切に握り締める。
じわり。春の雪解けのように何かが胸のなかに溶けて広がってゆく。


…また会えるかな。


今日、私は初めて遅刻をした。あれだけ欲しかった皆勤賞は貰えないけれど、全然悔しくなんかなかった。そんなことよりも私の心の中を埋め尽くしていたのはあの綺麗な髪色をした男子学生だった。



あれから私は彼に会いたくてわざとギリギリの時間に家を出て登校していた。母からはもっと早く学校に行きなさいと叱られたが、気にしない。それよりも今日も彼に会えるかな。淡い期待を抱きながらあの坂道を今日も私は走り続けていた。
同じ時間に同じ坂道の途中。今日もまた彼は反対側の斜面から颯爽と自転車で下って行く。
すれ違い様に軽い会釈をするようになった私は今日も軽く頭を下げる。彼も同じように頭を下げて私に会釈をした。それが私達の朝の日課だった。

「ねえ、君さ、」

でも今日は違った。いつか聞いた自転車の高いブレーキ音が背後で鳴り響き、あの日以降聞くことのなかった声が私の耳に入った。何だろう。高鳴る鼓動を無理矢理に落ち着かせて、ゆっくり彼の方へ振り向く。少しだけ距離が空いた下り坂の先にいた彼は振り返るように顔だけをこちらに向けて、じっと私を見ていた。

「…疑問に思ってたけど、なんでいつも走ってるの?遅刻しそうならもっと早く起きればいいんじゃないの?」

突然にして投げられたその質問にドキリと心臓が跳ね上がる。何て答えようか考えても上手い言葉が思い付かず、口をもごもごとさせた。その間も彼の目は真っ直ぐに私の目を捕らえて離さない。彼が私の答えを待っている。そう思うと余計に焦燥感に駆られて掻いた手汗が手袋の中で湿り気を帯びた。
私の気持ちなど知らず遠くで雀の賑やかな声が耳に入る。それはまるで背中を後押ししてくれているように思えて彼を恋う気持ちをより一層、掻き立たせた。なら、言ってしまおうか。意を決して、頭に浮かぶ言葉を素直に唇から発した。

「あなたに会うためです」

呟くように放った言葉は少し離れた距離にいる彼にちゃんと届いたらしく、彼は一瞬だけ目を見開いた。

「そのために遅刻ギリギリで走っていたの?」

溜息を吐いた彼は呆れた顔を私に向ける。ああ、やっぱり言うんじゃなかった。彼の表情を見て、心が痛くなる。よく考えれば分かるはずだった。見ず知らずの女子が自分と会うために遅刻すれすれで走ってるなんて気持ち悪いよね。一人で舞い上がって馬鹿みたい。無意識に作った握り拳に爪が食い込んで痛い。私は彼の顔が見れずに俯いた。

「じゃあ、明日から15分早くここに集合ね」

頭上から彼の声が降り注いだ。驚いて彼の顔を見ようとしたが、彼は私に背を向けてさっさと自転車に乗って行ってしまった。
相変わらず颯然として風を切る姿に思わず見惚れてしまう。

明日。15分早く。ここに集合。

彼の放った言葉を頭の中で唱えるように何度も繰り返す。ようやく理解出来た言葉は初めて彼と交わした約束だと一瞬にして嬉しい気持ちが込み上げた。
羽が生えたように軽くなった足で坂道を一気に駆け上がる。今日だけはこの坂道が苦ではなかった。

早く明日になれ。

弾む気持ちを抑えきれず、待ち遠しい明日が早く来ることを願った。




翌朝、約束した通り15分より前に早く着いていた私は坂道の途中で彼を待っていた。もうすぐ来るかなぁ。坂の向こう側を背伸びして何度も確認する。何回か繰り返していると、揺れる白銀の髪が視界に入って、どくんと胸が高鳴った。
いまさらにして自身の髪に寝癖がついてないだろうか前髪は変ではないだろうか心配になり、慌てて手で髪を撫で付ける。彼は私を見つけたのか、小さく手を振りながら颯爽と坂道を下ってきた。私も応えるように遠慮がちに手を振り返す。

きゅっと自転車のブレーキをかけて、彼は私の目の前で止まった。

「おはよう」
「お、おはよう」

まさか彼から挨拶をしてくれるとは思っていなかったので急に恥ずかしくなった。
彼はそんな私に気にも止めず言葉を続ける。

「待った?」
「…今来たところです」
「なんで敬語?」

多分同い年だよね。言葉を続ける彼の髪は初めて見たあの日みたいに煌めいていて、やっぱり綺麗だなと思わず見惚れてしまう。

「オレ、はたけカカシ」

ふっと笑うカカシくんの顔を見てびっくりした。てっきり笑顔を見せないクールな人だと思っていたから。私も慌てて自己紹介をしなくちゃと口を開く。

「私、みょうじナマエ」

じゃあ、遠慮なくタメ口にするね。確認すると彼は笑って頷いた。

それから私達は毎日のようにこの坂道の途中で他愛もない話をしたりしていた。カカシくんはお父さんと二人暮らしのこと。腐れ縁のような親友がいること。甘いものが嫌いなこと。カカシくんの好きなこと。嫌いなこと。私が質問すれば彼はなんでも答えてくれた。

でも彼は絶対に私の事を聞くことはなかった。私がカカシくんに質問するたび、自分に興味なんてないのかと不安を募らせていた。

「今日は手袋してないの?」

カカシくんは私の赤くなった手を見て唐突に訊ねた。いつもなら私の事なんて聞いてこないのに珍しいな。驚いてカカシくんを見れば、変わらず私の手をじっと見ている。

「忘れてきちゃったの」

苦笑しながら言うと彼はそう、とだけ答えてしばらく黙り込んでしまった。

「手、貸して」
「え?」

悴む私の左手をそっと彼の右手が握った。彼の手の温もりが左手に伝わり、恥ずかしくてぶわっと頬が熱くなる。彼が、カカシくんが私の手を握っている。カカシくんは表情一つ崩さず握った手に視線を向けている。伏せられた彼の睫毛が長くて女の子みたいだと思った。

「どう?温かくなった?」
「…うん、ありがとう」

心配そうに問い掛けるカカシくんに礼を口にするだけで精一杯だった。彼の右手と私の左手は繋がれたまま。彼の手を握り返すことがとても恥ずかしくて躊躇ってしまう。

初めて男の子と繋いだ。しかも大好きな人。私の初恋の、人。

「私、カカシくんが好きだ」

思わず唇から思いが零れ落ちた。繋いだ彼の手が微かに揺れる。

「カカシくんは私になんて興味なんてないと思うけど‥」

彼の顔を見るのが怖くて視線を地面に落としたまま、ぽつりと呟くように告白をする。
しばらく二人の間に静かな時間が流れる。雀の声、学生達の会話、車が走るエンジン音が遠くで微かに聞こえる。私が話さなくても騒がしい朝に少しだけほっとした。

「……オレも」
「え?」

ようやく発した彼の言葉は本当に小さな声で、耳をよく凝らさなければ、聞き漏らしてしまいそうだった。

「オレもナマエのこと、好き」

思わず彼の顔を覗き込むと今まで見たことのないくらいに頬を真っ赤に染めている。私も釣られて、同じくらい頬を赤に染める。
どちらともなくぎゅっと互いの手を握り締めて、私達は照れ笑いをしながら見つめ合った。




それから私達はどんなに冷たい風の中でも暑い夏の日差しの下でも手を繋ぎながら15分だけ話すのが約束になっていた。お互いが違う中学でもこの時間があれば寂しくない。私は幸せだった。
だけど、私にも一つだけ大きな悩みがあった。それは生まれて初めてぶつかる、将来について考えなくてはいけない進路問題だった。

「カカシくんはどこの高校に行くの?」
「オレは木の葉高校」

木の葉高校は進学校だ。偏差値が高い木の葉高校を受験するなんてやっぱりカカシくんはすごいなぁ。

「ナマエは?どこに行くの?」
「まだ分からない」

本当は自分が行きたい高校は決まっていた。私が行きたい高校はA高校。けど、カカシくんと同じ高校にも行きたいと迷っていたのでどうしても言えなかった。いっそのことナマエもオレと同じ高校にしなよ。そう言ってくれたら気持ちに迷いなどないのに。

「私も頑張ってカカシくんと同じ高校に行こうかな」

なんとなく発した言葉にカカシくんは一瞬だけ目を見開くと、直ぐに顔をしかめてしまった。どうしたのだろう。彼の冷たい目を見て怖くなる。

「オレと一緒になりたいからって自分の進路を決めていいの?そんな安易な考えでいいの?」

咎めるような口調のカカシくんの言葉に間違いなどない。私だって、自分で選ばなくてはいけないことくらい分かっていた。
だけど私の聞きたい言葉はそれじゃなかった。オレと一緒に頑張ろうよ。一緒に同じ高校に行こうよ。ただその言葉が欲しかっただけなのに。

「カカシくんは私のこと本当に好きなの?」
「初めからそうだったよね。いつだってカカシくんは私のことなんて興味なかったもんね」

気付けば彼を責め立てていた。心の奥底で積もっていた言葉が止めどなく唇から溢れてゆく。カカシくんは俯いたまま何も言わない。それがどんどん私の怒りを煽って、言葉を加速させる。

「私達、しばらく会わない方がいいかも」

つい思ってもいない言葉が口から出てきて、彼の右手を振り解いてしまった。

「……そうだね」

力の抜けた私の左手を握り返すことなくするりと解かれる。
今ならまだ間に合う。ごめん言いすぎた。早く言わなくちゃと焦っても唇は縫い付けられたように思うように開かない。
彼は一瞬だけ私を見ると背を向けた。じゃあね。冷たくそう言い放つと、自転車に乗って去って行ってしまった。
なんでこうなってしまったのだろう。嘆き悲しんでも、もう遅い。一人取り残された私はただ茫然と立ち尽くす。ぽたりと音を立てて流した涙が冷たいコンクリートに落ちて滲ませた。



それからカカシくんと会うことはなかった。いや、私が避けていたから必然的に会うことはなかった。彼と会うのが怖くて私は以前と同じ時間帯に家を出て通学していた。
あれだけ悩んだ進路も結局、最初に決めたA高校を選んだ。カカシくんの「安易な考えで決めていいの?」その言葉が胸に刺さり、A高校を選んだのも理由のひとつだった。


そして今日は中学の卒業式だった。これが最後だと思い一歩一歩、地面を踏み締めて坂道を歩く。ふと坂道の脇に植えられた桜が目に止まった。見上げると桜色と空の青の二色のコントラストが私の視界をたちまち埋め尽くした。


…カカシくんと見たかったな。


ぽつり、心の中で呟く。そんなことを願っても、彼はここにはいない。溜め息を一つ吐いて止まったままの足を動かした。ふと足元を見ると散った桜の花びらが絨毯のように広がっていることに気が付いた。
なんとなく花びらを踏みたくなくて避けるように歩いていると、びゅっと私の横で自転車が通り過ぎた。風が吹いた拍子に桜の花びらが舞い上がり落ちてゆく。きゅっと背後から聞き慣れたブレーキ音が聞こえて、もしかしてと慌てて振り向いた。

「カカシくん」

そこにいたのは先程まで恋い焦がれて会いたいと願っていた彼だった。彼は初めて出会った日のような目でじっと私を見ている。懐かしいカカシくんの目だ。
ひらりはらりと桜の花びらが頭上から落ちてゆく。まるで雨のように降り注ぐピンクの花びらが彼の白銀の髪に止まった。

「ナマエ」

以前よりも低くなった彼の声が私の名を呼ぶ。その声にどくんと心臓音が胸に鳴り響いた。懐かしい彼の姿を見て、これは夢なのではないかと疑ってしまう。
私達は見つめ合ったまま、話さない。二人の間に春風が吹いた。

「今日、卒業式なんだ」

沈黙を破ったのは彼の方だった。カカシくんは弱々しい目を私に向けている。

「私も今日、卒業式なの」

答えると、彼は私を見て微笑んだ。柔らかい彼の表情にほっとする。私はカカシくんに会ったら一番に報告したかった事を告げようと口を開いた。

「私、A高校にしたの」

カカシくんは一緒だけ驚いた顔をしたあと、直ぐにふっと笑う。

「そっか、ナマエが決めたのなら応援するよ」

彼が発した言葉は一言だけなのに、重くなっていた自身の心がふわっと軽くなる感覚がした。

「カカシくん、ありがとうね。私、頑張るよ」
「ナマエもありがとう。オレも頑張るよ」

二人の間に柔い春風が吹いて桜が舞い上がる。もう少し一緒にこの景色を見ていたい。だけど、そんなことは許されない。

「…また遅刻しちゃうよ」
「…そうだね」

本当は行きたくない。もっといたい。でも、私達は別々の道を選んだのだから前を向かないといけない。意を決して私はカカシくんに背を向けて歩き出す。

「じゃあね」

放たれたカカシくんの言葉に驚いて振り向くと彼は手を大きく振っていた。じゃあね、その一言で全てが理解できた。またねの言葉がないのはもう私達が会うことはないってこと。

「じゃあね」

私も両手を挙げて笑って別れの言葉を返した。空がとても眩しくて思わず目を細めてしまう。ようやく見れた彼は優しくて温かい笑みを溢していた。
彼が決めたさよならは当分、私を苦しめるかもしれない。それでも別々の道を歩むためには私達は何かを犠牲にしなくてはいけない。それが今だった。

気持ちは昨日今日と毎日変わってゆく。明日、彼は私の事をどう思っていてくれるだろうか。そして彼のいないこの坂道を次に歩くのはいつの日だろうか。やっぱり辛いと思うのだろうか。
思わず振り返りそうになった私は急いで坂道を駆け上がり、走り去った。






「先生、おはよう」
「おはよう」

坂道を駆け上がる生徒達が私を追い越しながら声を掛けてゆく。息切れ一つせず坂道を上る生徒達にみんな若いなぁ。と羨ましく思う。

あれから私は母校で教師をしている。久しぶりに歩いた坂道はあの頃と変わらないあの日のままだった。
私はあの時に彼が言ってくれた言葉を大切に胸に仕舞いながら今日の日を生きている。

やっぱり私は彼を忘れられない。

深呼吸をすれば朝焼けの冷たい新鮮な空気が肺に染み渡り、吐いた白い息が鼻を撫で付けて消えて行った。止めていた足を動かして一歩、二歩と坂道を踏みしめるように歩き出す。

ひゅるり、ふいに風が吹き、私の髪を攫っていった。

長い坂道の先を見つめれば、彼がまた手を振りながら自転車でやって来そうで。ああ、自分はこんなにも彼に恋い焦がれていたのかと自覚させた。
私にとって彼は永遠に初恋の人。こんなにも好きな人に逢えたことはとても大きな出来事だったのだと、胸の中で想いを馳せた。


歌詞参考 自転車/aiko







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