ザアザアと降り注ぐ雨粒を見て、無意識に溜め息が零れ落ちた。

どんよりとした厚い雲。じめじめとした陰鬱で嫌な湿気。それら全てがまるで、私の心を表しているようだった。

――学校なんて、なくなればいいのに。

私の吐いた呟きは、絶えず降り頻る雨音で掻き消されてしまった。
入学式が終わり、桜も散ってしばらく経った頃。新しいクラスにもようやく慣れて気の合う友達ができた私は新生活を楽しんでいた。これからきっと、キラキラした楽しい日々が私を待ち構えている。胸の中は期待と喜びで満ち溢れていた。
だけど過ぎゆく時間と共に、煌めいていた気持ちにふっと影が差し始める。初めは分からなかったそれが、やがて目に見えるようになり、明らかになった瞬間、どうしようもなく怖い気持ちが押し寄せた。

胸に宿った黒い影。それは、仲の良い友人達だった。

友人達は皆、彼氏がいて、話題の中心はいつも恋人の話だった。休日は遊園地に出掛けただの、彼氏とお揃いのアクセサリーを買っただの、楽しげに話す友人の会話に着いて行けず、恋人のいない私はたった一人、取り残された気持ちになっていた。そのうち話を合わせて無理に笑うことに疲れた私は、自ら友人達と距離を置くようになった。友人達もそんな私の気持ちを察したのか、挨拶はするけれど、休み時間に声を掛けてくることはほとんどなくなった。
――これがお互いのため。これで良かったのだ。そんな風に自分に言い聞かせるが、やはり一人でいることは寂しく、悲しかった。

相変わらず、空からは雨が降り続けている。雨脚は弱まるどころか、先程よりも強くなってきた。

そろそろ帰らなくちゃ、そう思うのだが、足が鉛のように重くて動けない。
理由は考えずとも分かっていた。沈んだ心だから帰る気力をなくして体が動かないのだ。陰鬱な気持ちを溜め息に乗せてまた一つ吐き出す。傘を開かずに柄の部分を強く握り締めると、未だ降り続ける雨を睨みつけた。

「あのさ、突っ立ってないで、どいてくれる?」

背後から低い声が聞こえて慌てて振り返れば、そこには白銀の綺麗な髪色をした男子が眉間に皺を寄せて私を見下ろしていた。――確か、同じクラスのはたけくんだ。

「ごめん」

急いで出入り口の端に寄ると、はたけくんは私の横を通り過ぎて所持していた傘をスッと開いた。はたけくんの傘は体の割には大きめな傘で、お父さんの傘なのかな?と、それを見て思った。

「誰か待ってるの?」

はたけくんは私を一瞥すると単調な声でそう訊ねた。はたけくんは大きめなマスクをしているため表情を読み解くことが困難だ。マスクと前髪の間から覗かせた目は重たげで、どこか冷めているようにも見えた。

「いや…」

目を合わせず答えると、私は足元に視線を落とした。そこにあるのは私の靴とはたけくんの靴。私立校なので指定されている同じデザインの革靴は、私よりも彼の方が手入れされていて綺麗だった。

「じゃあ、どうしてこんなところでしかめっ面しながら立ってるの?もしかして傘の開き方が分からないとか?」
「失礼ね。それくらい分かるよ」

馬鹿にしたようなはたけくんの言い方に腹を立てた私は目の前の彼を避けて足を一歩踏み出した。ずっと握り締めていた傘をパッと開くと落ちてきた雨粒が早速、傘地に跳ねてポタポタと軽快な音を鳴らす。雨でぬかるんだ校庭の土砂が革靴に跳ねるのを見て、ああ、最悪。と、心の中で悪態を吐いた。しばらく歩いて学校の敷地を出れば、ようやく泥のないコンクリートの地面に変わり、ほっと息を吐く。
雨脚は強くなる一方。早く帰ろう。思いながら早足で家路を辿っているとふと、背後から足音が聞こえた。不思議に思い振り向くと、そこにはあの大きめの黒い傘を差したはたけくんの姿があった。

「どうして着いてくるの?」

思ったことをそのまま彼にぶつければ、はたけくんは表情一つ変えることなく、

「オレの家もそっちなの」

と、言い放った。なによそれ。立ち止まる私の横をはたけくんは構わず通り過ぎる。追い越されたことに軽く苛立ちを覚えた私は、すかさずはたけくんの横に並び、追い抜こうと早足で歩いた。はたけくんは張り合う私を横目で見ると、呆れたように嘆息を漏らした。

「じゃあさ、一緒に帰る?」

どうせ帰る方向一緒なんだし。付け足された言葉は思いもよらぬものだったので、つい驚いてしまった。誰かに一緒に帰ろうと言われたのは本当に久しぶりだった。嬉しくなった私は迷わず「うん」と頷き、歩くスピードを落とすと、彼の隣に並んだ。

相変わらず空からは途切れることなく雨が落ちてゆく。だけど先程よりは雨粒が小さくなった気がする。はたけくんと私、二つの傘からは雨の雫が傘地に落ちて跳ねる音が聞こえる。私達は何も話さず、黙ったまま。そのせいか、コンクリートに打ちつける雨音と傘に落ちる雨音が交わり合い、静かな空間を引き立てていた。

「みょうじさんってさ」

先に沈黙を破ったのは彼の方だった。傘を傾けて隣に歩くはたけくんの横顔を覗けば、相変わらず眠たげな目で真っ直ぐ続く道を見つめている。
「なに?」私は顔を前に戻して返事をした。私達が歩く目の前には大きな水溜りがある。ポツポツと空から落ちる雨粒が水面に水玉模様を描く。

「みょうじさんってさ、どうして最近一人なの?」

歩いていた足がピタリと止まった。目の前の水溜りを越えなくてはいけないのに、思うように足が動かない。隣で歩くはたけくんは急に立ち止まった私を不思議そうな顔で見ている。

「…と、友達と喧嘩してるの」

だから今は一人なの。咄嗟に嘘を吐いてしまったのは本当のことを知られたくなかったから。こんな時にまで見栄っ張りの自分に嫌気が差してうんざりした。はたけくんは「ふぅん」と自分から聞いたのにも関わらず興味なさげに相槌を打つと、それ以上口にすることはなかった。
私達の間には雨音だけの、静寂な時間がふたたび訪れる。はたけくんも私もその場から一歩も動かない。

「……なんて嘘。本当は喧嘩にもなってない。最近ね、仲良くしてた友達と話が合わなくて私から離れていったの」

沈黙に耐え切れず、思わず吐露すれば、少しだけもやもやしていた気持ちがスッと消えてゆく気がした。

「そうなんだ」

はたけくんは一言、それだけ口にすると水溜りを避けて通るのではなく、ひゅっと飛び越えた。その拍子に彼の綺麗に磨かれた靴に泥がつく。
『そうなんだ』その相槌にはどんな意味が含まれているのだろう。同情?哀憐?それとも興味がない?色んな意味を考えるが、はたけくんの『そうなんだ』はどれにも当て嵌まらないような気がした。

「…ほんとはね、仲良くなりたいって思っている子がいるんだけど、友達からの視線が気になって話しかけられないの」

実は私には仲良くなりたい子がいた。その子は一人の私を気遣って話し掛けてくれる優しい子で、昨日はお弁当を一緒に食べようと誘ってくれた。ああ、こんな私のことでもちゃんと見てくれる人がいるんだ。そう思うと心の底から嬉しくなり、同時にその子ともっと仲良くなりたいと思った。だけど、以前仲良くしていた友達は別の子と仲良くする私を見てどう思うのだろうか。周りの視線をどうしても気にしてしまう私は「大丈夫」そう言って断った。本当は一緒に食べたかったのに。

「視野が狭いね。周りなんか気にせず好きな人とつるめばいいじゃない」

私にとっては大きな悩みなのに、はたけくんはサラッと答えを出してしまった。私だってそうしたい。あの子と仲良くしたい。だけど、また同じことを繰り返すんじゃないかって怖い自分もいる。絶望を繰り返すのなら一人でいた方がずっといいし、何より楽だった。

「…はたけくんが羨ましい。なんでもはっきり言うことができて。私もはたけくんみたいに強くなりたい」

唇から零れ落ちたのは、はたけくんを妬む言葉で、さらに自分が情けなくなった。目の前の水溜りは相変わらず雨の雫が落ちて水面が揺れている。私にはまだ、あの水溜りを飛び越える勇気がない。

「そう?みょうじさんが我慢しすぎなんだよ。それに、オレは強くなんかない。むしろ怖がりだよ」

てっきり嫌味でも言われると思っていたが、返ってきた言葉は意外なものだった。

「人の気持ちは見えない。本当は相手のことが苦手だとか、そういう隠し持った気持ちは誰だってあると思う。けど、オレはそういうの一番嫌だから思ったことはちゃんと口にするようにしてる。だから、強いんじゃなくて怖い」

はたけくんも?思わず聞き返せば、彼は小さく頷いた。私の心に柔らかな光が差す。なんだ、はたけくんも怖いと思うものがあるのか。だったら私と一緒だ。ほっと安堵の息を吐いてはたけくんを見ると、はたけくんは真っ直ぐ私に目を向けていた。怖いと言う割には強い眼差しを持つはたけくん。彼と私。似ているようでやっぱり違う。
はたけくんは私と違って、自分の気持ちをちゃんと相手に伝えようとしている。それに比べ、私はずっと同じ悩みを繰り返しているだけ。勝手に不満を抱き、挙げ句の果てには文句を零している。それでは駄目だ。私も、はたけくんみたいになりたい。怖さをバネにして、強くなりたい。

「ま、誰にだって悩みはあるよ。それに、あれを見ればみょうじさんの悩みなんて小さく思えるんじゃない?」
「え?」

はたけくんは「ほら」と、空を見るように促すと、目を細めて笑った。なんだろう?疑問に思いながらも私も空を見上げてみる。

「わぁ…」

空には七色の光が織りなす立派な虹が掛かっていた。しかも一つだけではなく、二つも。嬉しくて言葉にならず、二つの虹を見つめてその美しさにはっと息を呑んだ。幻想的な景色に、瞬きすら忘れてしまいそうだ。

「虹が二つあるってことは、明日は晴れだね」

歓喜する私とは違い、はたけくんは至って冷静だ。

「そうなの?」
「確かではないけど二つの虹が同時に見えるのは明日の晴天を約束するって意味らしいよ」
「へぇ…はたけくんって意外とロマンチストなんだね」

感心したように呟くと、はたけくんは照れてしまったのか「別に」と言って顔を背けてしまった。私は「そうだよ」と笑いながら再び空を仰ぐ。
今の空模様は先程のどんよりとした灰色の空と打って変わって、水色が曇の間から覗かせている。さっきまで振り続けていた雨も、今はもうすっかり止んでしまった。清々しく晴れ渡る空を見て、あれだけ飛び越えるのが怖いと思っていた水溜りも、今なら越えられる気がした。

「はたけくん」
「…なに?」

私はふっと笑うと、目の前にある大きな水溜りを飛び越えた。トン、と踵を鳴らして着地すると、はたけくんは驚いたように目を丸くさせた。

「はたけくん、ありがとう」

ありったけの感謝を込めて伝えれば、彼は息を吐いて「オレ、何もしてないけど」と愛想なく返した。はたけくんは相変わらず冷めた人だ。だけど私は彼の優しさを知っている。今まで一言も交わすことなかったクラスメイトの私に、怖さと弱さを教えてくれた。

「……そういえば、この川辺って春になると桜がたくさん咲くんだよね」 

はたけくんは話題を変えると川辺にある桜並木に視線を向けた。「今年もよく咲いたよね」冷めた口調の割には嬉しそうに話す彼を見て、きっとはたけくんは桜が好きなのだと、そう感じた。
だけど私はこの川辺に咲く桜を知らない。この道は通学路ではあったけれど、わざわざ遠回りをして別の道で友達と一緒に登下校していた私は、川辺に桜があったことすら知らなかった。

「…そうなんだぁ。知らなかった」
「え、知らなかったの?通学路なのに?」

驚いた様子のはたけくんに「あの頃は友達に合わせるので必死だったから」それだけ言うと、はたけくんはなんとなく察したのか「そういうことね」と、再び桜の木に視線を戻した。

「来年は見てみたいなぁ」

花が散り、新しい芽を出したばかりの瑞々しい桜の木を見てぽつりと呟く。川辺に佇む木々達に美しい桜が咲く姿を想像すれば、煌めいた未来を久しぶりに思い描けたような気がした。はたけくんは「そうだね」と頷いて、私と一緒に桜の木を眺める。彼の表情を読み解くのはやはり難しい。だけど、弧を描いた弓のような彼の目を見て、微笑んでいるのだと思った。

私の心は羽が生えたようにふわっと軽くなる。自分が今までしてきたこと、見てきたこと全て間違いじゃない。彼と出会えたことにより、心が報われた気がした。

きっと、大丈夫。

私はもう一度、雨上がりの虹に視線を向けた。先程より色彩が薄くなってしまったけど、澄み切った青空を見て、心の中にある重い気持ちがふっと消えてゆく気がした。


***


「お昼、一緒に食べてもいい?」

翌日の昼休み、私は勇気を振り絞って仲良くなりたい子に声を掛けた。彼女は一瞬だけ驚いた表情をするとすぐに「いいよ」と笑い返してくれた。断られなくて良かった。彼女の笑顔を見た私はほっと安堵の息を吐き、静かに席につく。鞄から弁当箱を取り出して広げると、彼女は弁当の中身を見るなり「わぁ」と歓喜の声を上げた。

「みょうじさんのお弁当かわいいねぇ」

褒めてくれる彼女の言葉に私は嬉しくなった。友達と食べることを想像して、母が作ってくれたお弁当。ずっと申し訳ない気持ちで食べていたけど、今日からは楽しい気持ちで食べることができそうだ。

「ありがとう」

頬が緩むのを抑えきれず、照れ笑いを浮かべると友達も優しく微笑み返してくれた。

久しぶりに誰かと食べるお弁当は特別美味しく感じた。憂鬱だった教室がこんなにも楽しく感じるなんて嘘みたい。幸せを噛み締めながらふと窓に目をやると、窓際の席に座るはたけくんとカチリと目が合った。彼は目を細めると、穏やかな笑みを作る。その柔らかな瞳は「良かったね」そう言ってくれているような気がして、心の中にぽっと暖色の火が灯った。声には出さず、「ありがとう」と口の動きだけで伝えると、彼はゆっくり頷き、再び視線を窓の外に移した。その拍子にゆらりと揺れる白銀の髪が光に照らされ輝きを放ち、眩しく見えた。

それからと言うもの、私は彼のことが気になって仕方がなかった。もっと話してみたい。仲良くなりたい。そんな願望が膨れ上がったが、席の遠い彼と話す機会はなく、通学路が同じでも一緒の時間帯に合わさることは全くと言って良いほどなかった。彼のことを思えば思うほど胸は焦がれ、切ない気持ちが押し寄せた。この気持ちはきっと、恋だ。私は彼と一緒に虹を見たあの時から彼を好きになっていたのだ。



結局、想いばかりが募るばかりで彼との距離は埋まることなく一年の時が流れた。
二度目の春。彼が教えてくれた川辺の桜が咲く季節。今年こそは桜を一緒に見ようと私はこの季節を待ち望んでいた。明日にでも誘ってみようかな。下校途中、通学路でもある川辺を見て悶々と考えに耽ける。はたけくんの言った通り、この川辺は桜の花が美しく咲き乱れていた。
ふと立ち止まり、見事に咲き誇る桜の木を見上げる。薄ピンクの花びらがひらりはらりと舞い散りゆき、地面に落ちている花びらの上にまた一つ、もう一つと重なり合う。しばらくその様子を見ていると、視界の隅に白銀の綺麗な髪が映った。少し前を歩く猫背気味の見慣れた背中の隣には私と同じ制服の子が歩いている。

はたけくん、と女の子。

はたけくんと肩を並べて歩く女の子は私と同じ学年の子だった。しかも学年一可愛くて美人だと言われている子。どうしてその子がはたけくんと一緒に歩いているの?
さっきまで桜を見て浮かれていた気持ちが一気に底に落ちて、じゅくじゅくと腐ってゆく。憧れていた背中が違う女の子と歩いている。受け入れ難い現実を目の当たりにして私はぎゅっと握り拳を作り、二人から目を背けた。視界に映ったのは満開に咲く桜で、まるで私を嘲笑っているようだ。さっきまで可愛いと思っていた舞い散る花びらが鬱陶しく思えた。私は桜の咲く季節が嫌いになった。

そのあと、はたけくんと彼女が恋人同士だと風の噂で知った。友達の情報によればつい最近、女の子から彼に告白したらしい。ああ、もっと早く桜を見ようって約束していれば良かった。もっと積極的にはたけくんに話掛けていれば良かった。たくさんの後悔が私を苦しめるが、何もかもがもう遅い。私は雑念を振り払い、考えないよう必死に努めた。




そして月日が流れ、三度目の春。私は三年生になった。今でも彼に片想いをして苦しんでいる私は、今年も嫌な季節が来たなと億劫な気持ちを抱きながら春を迎えた。
そんななか、彼と彼女が別れたという情報が私の耳に飛び込んできた。別れた理由は彼女が浮気をして、はたけくんが別れを告げたとか。様々な噂が飛び交っていたが、結局のところ、真相は分からないままだった。

「ねぇ、ナマエってはたけくんのこと好きなんでしょ」

音楽教室へ向かう途中、友達から唐突に振られた話は驚くべき内容だった。

「え、なんで?」

驚きを隠せぬまま聞き返せば、彼女はふっと悪戯な笑みを浮かべた。あどけない笑みを零す彼女は初めて声を掛けてくれた時と変わらないままだ。

「ナマエの様子見てたら分かるわよ。いつもはたけくんのこと目で追ってるし。この前なんて、はたけくんが別れたって聞いたら明らかに動揺してたよ」

知らなかった。私の気持ちが彼女に知られていたなんて。なんて答えようか戸惑う私に彼女はそっと背中を押した。

「好きって言っちゃいなよ。また誰かに取られちゃうよ」
「けど…」
「ほら、ちょうど良くはたけくんが目の前にいた。はたけくーん!」

彼女は大声を上げて私達の少し前を歩くはたけくんの名を呼ぶと、「ナマエがはたけくんに話があるんだって」と続けた。ゆっくり振り向き、こちらを見つめるはたけくん。その表情は明らかに怪訝な顔付きだ。

「ちょっと、」

助けを求めるように友達を見れば、彼女は満面の笑みを浮かべて「じゃ、私は先に行ってるね」と私を置いてさっさと行ってしまった。取り残された私とはたけくん。廊下からは生徒達の会話、足音、たくさんの音が聞こえる。

「何?」

はっきりとした彼の口調は以前と変わらず鋭くて思わず怖気付いてしまう。はたけくんと話したのは本当に久しぶりで、煩いくらいどくどくと心臓が波打っていた。

「…えっと、はたけくん今大丈夫?」

とりあえず話す時間があるのか訊ねてみると、彼は腕を組みトン、と窓のある壁に寄り掛かる。

「あと5分で予鈴なるから簡潔に話してね」

そう言いながら、私を見た。教科書を持つ手が無意識に強くなる。彼の表情を窺おうとしても逆光でよく見えないのがとても怖かった。

「あの、ね」

私、声が震えてる。それもそのはずだ。ずっと想いを寄せていた相手に告白するのだから。…例え、この恋が駄目だとしても、想いを伝えられたのなら悔いはない。

「私、はたけくんが好き。付き合ってください」

はっきりと告白した割には弱々しく情けない声量で、彼にちゃんと伝わったのか心配になった。私の視線は下を向いたまま。生徒達の声が遠くなる。予鈴はあと少しで鳴ってしまうだろうか。
はたけくんは一呼吸置いたあと、「そっか」と、それだけ呟いた。ああ、きっと駄目だ。ふられてしまう。彼の淡白な声を聞いて続く言葉を想像すれば、ぎゅっと胸が掴まれたように痛くなる。

「いいよ、付き合おう」

しかし、彼が出した答えは思いもよらないものだった。顔を上げて不安になり「本当に?」と聞き返せば「ホント」と一言だけ答えが返って来た。なんだか拍子抜けだ。てっきり断られると思っていたのに。
はたけくんは寄り掛かっていた壁から背を離すと一、二歩こちらに歩み寄った。窓に入り込んだ風が彼の伸びた銀灰色の髪を揺らす。ようやく窺えた彼の顔は、笑顔だった。弓張月のように笑う目は一年前と同じ笑顔だった。

「よろしくね」
「うん、こちらこそ」

私が返事をした瞬間、校内に予鈴が鳴り響いた。
――マズい。遅れちゃう。私ははたけくんと顔を見合わせると、慌てて音楽教室へと向かった。


その日からはたけくんとの交際が始まった。だけど、はたけくんと付き合っていると言っても「おはよう」と「バイバイ」の他に会話が少し増えただけ。一緒に帰ることはもちろん、手を繋ぐことさえなかった。

はたけくんの好きなところ。好きな仕草。私が今まで覚えてきた言葉では足りないほどの愛しさに歯痒く虚しく、そして苦しくなった。
せっかく距離が縮まり、手の届く距離にいるはずなのに何故か彼が遠くにいるような気がしてならなかった。そして、コップいっぱいになった不安は突如として、溢れ零れた。

「カカシくん!」

凛と弾む可愛らしい声が教室に響き渡り、声のした教室の出入口に視線を向ければ、はたけくんが前に付き合っていた彼女が立っていた。彼女の視線の先は、はたけくん。
先程まで私と会話をしていたはたけくんは、彼女に目を向けると私に「ちょっと待ってて」と言い、彼女の待つ廊下に行ってしまった。彼の遠ざかる背を見ると胸が痛み、頭がくらくらする。

行かないでよ。

気持ちは口にしないと伝わらない。分かっているつもりだったが、肝心な時に限って言葉が喉に詰まり、声にならなかった。
はたけくんは教室に戻ると自分の机から数学の教科書を取り出して再び彼女の元へ向かった。恐らく、教科書を忘れた彼女がはたけくんから教科書を借りようと教室に訪れたのだろう。
スタイルが良くて容姿端麗の二人が並んで話す姿は本当にお似合いで、悲しくなった。私と同じことを思ったクラスの誰かが「あいつらやっぱり似合ってるよな」と話す声が聞こえる。
二人の姿を見れば見るほど、胸の底で悲鳴が上がり、息が苦しい。
彼女と話が終わったのか、教室へと戻ってきたはたけくんは、私に「ごめんね」と謝った。ごめんねなんて言わないでよ。嫉妬心に溺れた私は何も言えず黙ったまま俯く。心配するはたけくんは「どうしたの?」と屈んで、私の顔を覗き込んだ。

「なんでもないの。ほら、先生来たよ」

言いながら、はたけくんに顔を見せることなく急いで席についた。こんなみっともない顔、とてもじゃないが彼に見せられない。だって、今の私の顔は嫉妬で歪んでいるだろうから。

翌日、私は少しでも彼と釣り合いが取れるようにいつもより早起きをしてメイクを施した。母の化粧ポーチからこっそり貸りた淡い青のシャドウと桜色の口紅。
洗面所の鏡の前に立ち、瞼の上に綺麗な青を小指で薄く塗り、唇に紅を引けば少しだけ大人っぽく見えた気がした。
私は浮かれた気持ちで玄関を出ると、軽い足取りで学校まで向かった。途中、川辺には桜が満開に咲いていたが、私は見向きもしなかった。それよりも今日の私の顔を見て「綺麗だね」そう言って、彼に褒められる想像で頭がいっぱいだった。

「おはよう」

教室に入ると私は早速、はたけくんに声を掛けた。はたけくんは私を見てどう思うだろうか。褒めてくれるだろうか。淡い期待を抱いてはたけくんに視線を送るが、彼はちらっと私を見て「おはよう」と返すだけだった。
え、それだけ?他にも言うことあるでしょ。立ち止まったままの私を不思議に思ったのかはたけくんは「どうしたの?」と声を掛けた。

「今日の私、何か違うと思わない?」

自分から言うのもどうかと気が引けたが、気付いてくれない悔しい気持ちの方が強く、思わず訊ねてしまった。はたけくんは目を丸く見開いたあと、長く細い息を吐く。

「…お前らしくない」

ぽつり、それだけ呟くと彼は視線を外して前を向いてしまった。『お前らしくない』その言葉が頭の中で木霊する。綺麗だね。可愛いね。欲しかった言葉が泡となり消えてゆく。まるで胸が、心が張り裂けそうだ。
私は何も言わず、自分の席に向かうと椅子へ腰を下ろした。身体中が重い。目も唇も手で擦ってメイクを消してしまいたい。そんな衝動に駆られたが、せっかく丁寧に塗ったものを落としてしまうのは勿体なく思い、行き場のない手はぎゅっと握りしめて机の上に置いた。

結局、放課後まではたけくんと話すことはなかった。彼が私に話し掛けてくることもなかったし、なんだか私だけが彼を好きみたいで、自分が惨めに思えた。

「なぁみょうじ。お前、今日いつもと違くねえか?」

帰り支度を整えていると、話し掛けて来たのはクラスメイトの男子だった。彼は「化粧してるだろ」と微笑むと「似合うじゃん」と私を褒めた。

「ありがとう…」

呟くように礼を口にすると彼はまたふわりと笑った。褒められたことは素直に嬉しかった。けど、その言葉を一番に貰いたかったのは、はたけくんだ。彼の顔を思い出すだけで目頭が熱くなり、涙が出そうになる。急に黙り込む私に彼は「大丈夫?」と心配そうに顔を覗き込んだ。

「何してるの?」

突然、冷たい声が頭上から降り注ぎ、顔を上げると私の目の前に現れたのは、眩しいほどの明るい銀灰の髪色を持つ彼――はたけくんだった。

「ちょっと来て」

彼は私の手首を掴み、グイと引っ張るとそのまま早足で歩き出した。慌てて掴まれていない手で鞄を持ち、はたけくんの歩調に合わせる。私とはたけくんのやり取りを見た男子生徒が「おい」と声を掛けたが、はたけくんは無視をして教室を後にした。
昇降口を出ても彼は何も話さない。私の手首を掴んだままぐんぐん進む彼の背を見て怖くなった。私、何かしただろうか。もしかして彼の気に障ることを言ってしまっただろうか。歩いている途中、何度も彼の名を呼んだが、彼は何も言わず、ただ私の手を引き、前を向いて歩みを進めるだけだった。

ようやく手を離し、足を止めた場所は川辺だった。私より少し先にいる彼は後ろを向いているので顔を窺うことが出来ない。
やっと開放された手首はまだじんじんと痛みを感じ、熱が帯びている。私は恐る恐る「はたけくん、どうしたの?」と彼の背に問い掛けた。

「……ナマエこそどうしたの?」
「え?」

僅かに空気を震わせて発した声は弱々しくか細いもので、よく耳を澄まさなければ聞き漏れてしまうくらいの声量だった。

「化粧なんかして他の男子に色目使っちゃって。ナマエはさ、オレのこと好きって言うけど本当なの?全然そんな風に思えないんだけど」

振り向いたはたけくんは一息で言い放つと鋭い目で私をぎっと睨んだ。『好きって言うけど本当なの?』その言葉が悔しくて、やるせなくて、無意識に握り拳を作った。
私はいつだって、今だってはたけくんしか見えていない。どうしてそんなことを私に聞くのか彼の気持ちが分からなかった。はたけくんだって、前に付き合っていた子に優しくしたりなんかして、私を見てくれていないじゃない。

「…はたけくんも人のこと言えないよね。本当は前に付き合っていた彼女のこと忘れられないんじゃないの?」
「は?なに言ってるの?」

反論する私にはたけくんも声を荒げる。だってそうじゃない。私がどれだけ背伸びをしてもはたけくんは私の気持ちなんて、ちっとも知ろうとしない。私はこんなにもあなたが好きなのに。どうして伝わらないの。

「私ばかりはたけくんを想っていて馬鹿みたい」

そうだ。全部、馬鹿みたい。思えば思うほど頭に血が上り、顔が熱くなる。おまけに目の縁からは涙が溜まり、流れ落ちそうだから余計に腹が立つ。
はたけくんは小さく息を吐く。そんな彼の態度を見て、ますます怒りが込み上げてきた。溜め息を吐きたいのはこっちの方だ。

「そうだね。ナマエは馬鹿だよ。アイツを真似て化粧なんかしてもオレは全然嬉しくない。ナマエはさ、自分を見繕うばかりでオレを全然見ていない」

一つ一つ諭すように言葉を発する彼の表情は先程の怒った様子ではなく、どこか悲しげな表情だった。私は図星を突かれた気持ちになり、はっとした。彼は知っていた。私があの子の真似をして、必死に背伸びをしていることを。

「…これだけ言ってもまだ分からない?伝わらない?ナマエはこの桜を見ても何とも思わないんだね」

はたけくんは顔をゆっくり上げると、何かを見つめた。私も彼の視線を辿り、それを見ると、思わず息を呑んだ。彼が見ていたもの、それは、思い出の詰まった桜の木だった。はたけくんは覚えていたんだ。あの日の私を。雨上がりの虹を。自分のことばかり考えていた私は、大切な記憶を忘れていたんだ。

「…ごめん」

唇から漏れた謝罪の言葉は散りゆく花びらと共にピンク色の地面に落ちた。はたけくんは力の抜けた私の右手をそっと繋ぐ。彼の手はさっきとは比べものにならないくらいの優しい力加減で、その温かさに心の中にある(わだかま)りが解けるような気がした。

「あいつと付き合っていた事実はこれから先もずっと変わらない。けどオレは今、ナマエと付き合っている。ナマエだから付き合ってるんだよ。だからこれからはオレの背中を見るのではなく、隣を歩いてよ」

隣に並んだ彼の横顔を見るとあの日と変わらない穏やかな柔らかい目で、ああ私はどうして大切なことを忘れてしまったのだろうかと、ひどく後悔した。はたけくんは絡めた指で私の薬指を焦らすように撫でる。その感覚のせいで胸が高鳴り、私の頬はあっという間に熱くなる。

「…私のこと、好き?」
「好きだよ。少し気が弱いけど、そういうところ全部引っくるめて好き」
「私もはたけくんが好き。少し冷たくて怖いけど、そういうところ全部引っくるめて好き」

なにそれ。言いながら彼は呆れた目を私に向けるが、瞳の奥は優しさに溢れていた。私は息を吸い、背筋を伸ばして真っすぐ前を向く。憧れだった背中を越えて、今は肩を並べて歩いている。
正直に言えば、まだ私には彼と一緒にいられる自信がない。だけどどうか神様、胸を張って彼の隣に歩けるように、信じられる力をもう少しだけ私に下さい。

彼は私の手を引くと、マスクを下げて、静かに唇を重ね合わせた。目を閉じるのを忘れた私は彼の背中越しにある桜が目に映った。降り注ぐ花びらが春風に吹かれて舞い散りゆく。私はあの美しい景色を瞳に焼きつけるため、シャッターを切るように瞼を閉じた。

春が終わり、夏が訪れて桜の花びらが朽ち果てても今日と変わらず愛し合えますように。そしてどうか、幸せなキスをするのが私たち、二人でありますように。

密かに願いながら、そっと唇を離して、あなたを見た。
歌詞参考 桜の時/aiko







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