眠っていた心の中に訪れたのは、彼の名と、優しく強い目だった。

「はたけカカシと言います」そう言って、軽く会釈をした彼は、今年の春に県外の系列会社から、うちの会社へと異動して来た上司だった。
はたけ主任は「よろしくね」と一言付け加えると、私を含む社員達に緩く微笑んだ。
綺麗に口角を上げた薄い唇の左下には黒子があり、鼻筋はすっと通っている。おまけに背が高く、スーツが似合う容貌の優れた彼を見るなり私以外の女子社員が「かっこいい」だの「素敵」だの、声を上げている。
しかし、私が思う彼の第一印象は『かっこいい』でも『素敵』でもなかった。
私にとっての『はたけカカシ』は、聞いたことのない、変な名前の人、だった。

はたけ主任は変わらず私達に笑みを向けている。その笑みはただ感情もなく、張り付けているような気がして。なんとなく苦手に思った私は、そっと、彼から目を逸らした。




私は女子社員の輪から孤立していると思う。それは入社してから薄々、気が付いてはいた。私が務める会社は服飾デザインの会社もあってか、私以外の女子社員は皆、お洒落で煌びやかで、何より華があった。
彼女達と肩を並べられるとは到底思えないが、私も出来る限り身なりには気を付けていた。
髪こそは巻いたりヘアアレンジを施したりは出来ないが、一本も髪の毛がほつれることのないようピシッとゴムで髪を一つに束ねていた。シャツも毎日アイロンを掛けて、皺一つないよう心掛けていたし、身なりをきちんと整えているつもりだった。
『服装の乱れは心の乱れ』常に母はこの言葉を口を酸っぱくして私に言い聞かせていた。そのせいもあってか、いつもきっちりとした印象を与える、襟付きのシャツを着ていないと落ち着かなかった。


「みょうじさん、悪いんだけど、これから倉庫に行って、在庫確認して来てくれる?」


終業間際、私に声を掛けて来たのは同期の子だった。彼女は申し訳ない顔を作り、「ごめん、これから用事があるの」と、手を合わせると、私の有無も聞かずにリスト表を押し付けた。私は「え、」と心の中で呟き、動揺する。
「後で必ずお礼するから」そう言い残すと、綺麗に巻いた長い髪を揺らし、小さめのバッグを手に持つと、さっさとオフィスから出て行ってしまった。

丁度よく、終業時間を告げるチャイムが鳴り響いた。どうしよう。困りながら辺りを見渡しても、皆、そそくさと帰り支度をして「お疲れ様」と声を掛けて去ってゆく。
お願いします。手伝って下さい。声にならない喉に詰まった言葉を無理矢理に呑み込んで、ようやく吐き出せたのは、情けない溜め息だけだった。胃の辺りがずん、と重く、痛くなる。
溜め息なのか深呼吸なのか分からない息を一つ吐いて、仕方ないと自分に言い聞かせながら地下にある倉庫へと向かった。


倉庫の前に着き、足を止めて、ドアノブをゆっくり回す。そっと扉を押せば、ひんやりとした空気が一瞬にして私を包み込んだ。寒いな。こんなことなら上着を着てくれば良かった。少しだけ後悔しながらも直ぐに終わるだろうと思い、構わず一歩、倉庫へ足を踏み入れた。
リスト表に記載されてある段ボールの箱を見つけて、閉じてあるガムテープを剥がす。封を開けて中身を確認してみると予想以上の量に驚いて、早くも心が折れそうになった。
仕方ない。何度目か分からない言葉を自分に言い聞かせ、簡易テーブルの上に段ボールを置いて、中身とリスト表を照らし合わせながら作業を開始した。

「あれ、みょうじさん?」

ふいに背後から声が聞こえて振り向けば、こんな薄暗い場所でも明るく目立つ髪色をしたはたけ主任が立っていた。はたけ主任は驚いたように目を開いて私を見ると、「どうしたの?終業時間とっくに過ぎてるよ」と声を掛けた。

「すみません。早く終わらせますから」

はたけ主任に頭を下げて、一秒でも早く仕事を終わらせようと、止めていた手を動かす。
はたけ主任はしばらく私の様子を見ていたが、「そっか、頑張ってね」と言うと、倉庫を後にした。
パタンとドアが閉まる音を聞いて、ほっと安堵の息を吐く。私が務める会社は残業に厳しい会社だった。てっきりはたけ主任に咎められると思ったが、何も言わず、あっさり引いてくれて本当に良かった。
…いや、ほっとしたのはそれだけではないかも。私は未だにはたけ主任が苦手だった。誰にも優しく、いつも微笑んでいて、捉え所のない彼は私にとって苦手な人だった。



しばらく作業に打ち込んで、ふと壁に掛けてある時計の針を見れば、倉庫に来てから小一時間は経っていた。…まだ終わりそうにもないな。箱の中身を見下ろして、途方に暮れた。

「やっぱりいた」

ドアが開いたと共に声が聞こえて、私の肩がビクリと震えた。恐る恐る声のした方に視線を向けると、帰ったはずのはたけ主任が呆れた表情を浮かべながらこちらを見ていた。

「…すみません」

先程と同様、頭を下げて謝ると、はたけ主任ははぁと盛大に溜め息を吐いた。彼のその態度を見て、またしても胃がずきりと痛む。

「みょうじさん、ホントは誰かにやらされているんじゃないの」

はたけ主任の言葉にドキリと心臓が波打つ。何も言えず、俯いて黙り込む私を怪訝に思ったのか、はたけ主任はゆっくりと私に近付いて来た。コツ、コツと彼の足音が無音の地下に響き渡る。あぁ、私、怒られるのだろうか。嫌だなぁ。そんな事を思いながら、はたけ主任がこちらまで来るのをじっと待つ。
とうとう私の目の前にまで来て、ピタリとはたけ主任は足を止めた。視界の隅に映る、はたけ主任の革靴のつま先を見て、ますます私の頭は項垂れる。

「とりあえず、はいこれ」

しかし、訪れたのは私を叱責する言葉ではなく、意外な言葉だった。驚いて顔を上げると、はたけ主任は手に持つ缶コーヒーを私に差し出しながら、緩い笑みを浮かべていた。

「冷めちゃうよ?」

ほら、早く。はたけ主任はコーヒーを受け取るよう、私を急かした。慌ててはたけ主任からコーヒーを受け取り、「ありがとうございます」と礼を口にする。彼は気にする素振りもなく「あとでお金ちょうだいね」と冗談を言いながら笑った。
はたけ主任は壁に立て掛けてあった二つのパイプ椅子を広げて並べると、私に椅子に座るように促した。気を利かせられなかった自分を恥じながらも、礼を言って、ゆっくりと椅子に腰を落とすと、疲れがどっと押し寄せた。ずっと立ち続けていてパンパンだった自分の足に今頃になって気付き、思わず苦笑いを浮かべる。手で包むように缶コーヒーを持つと、熱がじわりと私の指先を温めていった。はたけ主任は私が座ったのを確認すると、静かに腰を落とした。

隣に座るはたけ主任はカチッと音を立てて缶の栓を開けた。彼のコーヒーは、私が手に持つ微糖コーヒーとは違い、無糖のブラックだった。私も爪で引っ掻くように力を入れて、栓を開ける。途端に立ち上るコーヒーの良い香りが私の鼻腔を擽り、安心感を与えた。

「…ねぇ、もう少し器用に生きることはできないの?」

唐突に言い放った、隣に座るはたけ主任の視線は私に向かれている。

「器用に、ですか?」

言葉の意味が理解できず、質問で返すと、はたけ主任は缶の縁に口をつけて、コーヒーを飲み込んだ。ゴクリと鳴らした彼の喉仏が上下する。思わず見惚れてしまうような恍惚な姿に他の女子社員が見たらきっと、黄色い声を上げるだろう。頬を赤らめる同僚達の顔を想像しながら、私は握りしめる缶コーヒーに目を向けた。

「…そうやって人の仕事を引き受けるのも良いけど、自分が苦しむだけじゃない。みょうじさんには、断る術も必要だってこと」

例えば、笑って受け流す、とか。そう口にするはたけ主任の声は柔らかい。私は手元からはたけ主任に視線を移した。はたけ主任は厳しい表情を浮かべて、作業途中の段ボールに目を向けている。
なんとなく、はたけ主任が張り付けた笑みを作る理由が分かった気がした。はたけ主任は事を荒げないために、わざと笑みを作って場を流しているんだ。それに比べ、私は馬鹿正直に受け入れ過ぎてしまう。だからこそ彼は、私に受け流す力を持てと、世渡り上手になれと、言いたいのだ。けど、それは私にとって腑に落ちなく、納得出来ないものだった。

「…そんなの私らしくないです」

私の言葉にはたけ主任は笑った。悔しくて、ぐっと缶を持つ力が強くなる。

「ごめんね。そうだね。みょうじさんらしくないね」

はたけ主任はコーヒーを飲み干して、空になった缶をテーブルの端に置くと、スッと椅子から立ち上がった。

「でも、あまり無理しないでね」

言いながら、段ボールの横に置いてあるリスト表を手にした。

「じゃ、さっさと終わらせようか」

変わらず優しい笑みを向けるはたけ主任に慌てて「悪いです」と断る。しかし彼は「一人じゃ夜が明けちゃうでしょ」と、聞く耳を持たず、作業に取り掛かった。

「…ありがとうございます」
「いえいえ、これも上司の務めですから」

冗談を言いながら笑うはたけ主任の横顔を見て、胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。知らなかった。苦手だと思っていた笑顔の中には強さがあったなんて。

はたけカカシ。眠っていた心の中に訪れたのは、彼の名と、優しく、強い目だった。


私は今日、はたけ主任に恋をした。


***


好きと気付くのは、あっけなく早かったけれど、好きのその先を超えるのはとても難しいことである。それでも、起こされた私の想いは止まることはない。

あれから、はたけ主任は出張に行ってしまい、会えなかった。噂によると明日には帰ってくるそうだ。はたけ主任に会えないだけでこんなにも毎日が長く感じるとは思わなかった。待ちくたびれる毎日に切なく感じるのはやはり、彼を好きだという証拠だ。

「みょうじさん、ちょっと良い?」

課長に呼ばれて、「はい」と返事をした。きっと午後に開かれる会議の準備のことだろうと思い、呼ばれた席まで向かう。ピタリと課長の席の前で足を止めて、指示を待っていると、課長は手元にある書類から顔を上げた。

「はたけくんが明日帰って来るのは知ってるよね」

その名を聞いて思わずドキリと心臓が波打つ。突然にして好きな人の名を聞いた私は咄嗟に素知らぬ顔を作り、「はい、知ってます」と答えた。

「明日、はたけくんと一緒にウチの取引先のA会社まで行ってもらえないかな?」
「私と、ですか?」

思いがけない課長の指示に思わず聞き返すと、課長は「そうだよ」と頷いた。――え、私が?はたけ主任と?なんで?混乱して頭が回らず返答の言葉を忘れていると、課長は訝しげに眉を潜めて「大丈夫?」と訊ねた。はっと我に帰った私は、慌てて頷いた。

「分かりました」

私の返事を聞くなり、課長は「じゃあ、よろしくね」と笑うと、用件が済んだのか、再び書類に目を落とした。
私は気持ちを落ち着かせながらも自分のデスクまで引き返す。なんでなんでと頭の中で疑問を浮かべるが、自分に問うたところで答えなど返ってくるはずがない。なんとか席まで辿り着き、椅子を引いてゆっくり腰を下ろすと、はぁ、と長い息を吐いた。気休めにパソコン画面に目をやってみたが、やっぱり落ち着かない。

明日、はたけ主任と取引先に行く。

頭の中で確認するように予定を唱えたが、そわそわする気持ちは変わらない。仕方なく鞄の中に入れてある手帳を取り出して、開いてみた。ボールペンを固く握り締めて、明日の日付の欄にペン先を走らせる。

『はたけカカシ主任とA会社』

記入した文字を指でなぞると、弾む気持ちがより大きく、膨れてゆく気がした。
あんなにも変だと思っていた名前が、今は大切で、愛しい。
はたけ主任に出逢えたこと、話をしたこと、次はもっとはたけ主任と距離を縮めたいと、いつの間にか願っている自分がいて、思わず苦笑いを浮かべた。

私は溢れる気持ちを抑えるように、そっと、手帳を閉じた。


***


「出張から戻ってきて早々、悪いね」
「いえいえ」

後日、はたけ主任と私は課長に呼び出されてA会社に行く理由を伝えられた。どうやら弊社とA会社を結ぶ、大事な商談らしい。その話を耳にするなり、とてつもない不安が私を押し寄せた。
果たして、そんな大切な場に私が同行しても良いものなのだろうか。心配する私をよそにはたけ主任は「じゃあ、行こっか」と笑い掛けた。

A会社は最寄駅も近くにない田舎町にあるということで、交通手段は車だった。外を出て、駐車場に停めてある社用車を見るなり、思わず立ち止まってしまう。狭い空間に長い時間もはたけ主任と二人きりだなんて。考えただけで心拍数が加速するこの心臓は果たして、取引先まで持つかなと更に不安を煽らせた。

「どうしたの?」
「…いえ」

はたけ主任は車のキーボタンを押して鍵を開けた。ガチャリと音を立てて運転席の扉を開けると「ほら、乗って」と私に助手席に乗るように促した。私は小さく頷いて、助手席の扉の前まで歩み寄り、冷たく無機質な取っ手を引いて扉を開けた。
少し屈んで車に乗り込めば、いつの間にかはたけ主任は運転席に座って、シートベルトを締めている。遅れを取らぬようにと、私もシートベルトを引いて、カチリと金具をバックルに差し込んだ。
私がシートベルトを閉めたのを確認したはたけ主任は差し込んだキーを回してエンジンを掛けた。「じゃあ行くよ」と言って、アクセルをなだらかに踏み込む。私達を乗せた車はゆっくりと加速させ、目的地へまで向かった。

車を走らせている間、はたけ主任と私は会話もせず、エンジン音だけが車内に鳴り響いていた。助手席に乗っている私が話を切り出すべきか。そう思い、声を掛けようとしたが、はたけ主任の運転の妨げになってしまったら申し訳ないと思い、開いた口は再び閉ざした。
信号が赤になり、静かに私達の乗る車が停止線前に止まる。車の運転は性格が出るとはよく聞くが、本当にそうだな、とつくづく思った。温厚なはたけ主任の運転は穏やかだった。
ふと、はたけ主任の横顔を盗み見れば、当たり前だが、真っ直ぐ前を見て運転に集中している。やっぱり話し掛けなくて良かった。ほっと安堵の息を吐いて、はたけ主任の顔から窓へと視線を移した。今日は雨の日だった。パラパラと空から降る雫が窓に落ちて滲み、水玉模様を描いていた。

「みょうじさんって他の子となんか違うよね」

信号が赤から青に切り変わり、発進と同時にはたけ主任は私に話し掛けた。突然の質問に驚きつつも、「私だけ地味ですもんね」と冗談を返せば、はたけ主任は真に受けてしまったのか、慌てた口調で「違うよ」と否定した。

「清潔感があっていいと思うよ。いつも皺一つない服を着ていて、見てて気持ちがいい」

はたけ主任の言葉を聞いて、一気にぶわっと熱が顔に集中する。そんなこと、誰にも言われた事がなかった。恐る恐るはたけ主任の顔を窺えば、彼は至って変わらない、涼しい表情で運転をしている。
私は心の底から今が赤信号で止まっている時ではなくて良かったと安堵した。こんなに赤くなった顔を見られたりなんかしたら、気持ちがすぐにバレてしまうだろう。

「みょうじさんらしさ、オレは良いと思うよ」

はたけ主任の声のトーンは至って落ち着いている。私も落ち着かなくちゃ、とはたけ主任との会話に集中した。
私らしさ。それは倉庫で話した会話の続きだ。実はあの日、はたけ主任に笑って受け流す術も必要だと言われてから自分を変えようと思っていた。しかしなかなか上手くいかず、余計に自分を苦しめていたのだ。はたけ主任はそれを見抜いていたのだろうか。
窓越しの景色に視線を移すと、厚い雲からは変わらず、雨が降り注いでいる。一定の感覚で雨のしぶきを掻き消すワイパーを見て、私の湿った気持ちも徐々に消えてゆく。
『みょうじさんらしさ、オレは良いと思うよ』その言葉は『私は私のままでいい』そう言われている気がして、たまらず嬉しい気持ちが込み上げた。

「今回、みょうじさんと取引先に行くことを課長にお願いしたのオレなんだ」
「え、そうなんですか?」

私の問い掛けに、はたけ主任はゆっくりと頷く。

「だって好きでしょ?この仕事」
「はい、好きです」

はたけ主任は私の返事を聞いて嬉しそうに微笑んだ。彼の言う通り、私はこの仕事が好きだった。地味で目立たない私だけど、煌びやかな服を見たりするのは気持ちが弾むし、何より好きなことを活かせる職場で働ける自分を誇りに思っていた。
…けど、知らなかった。はたけ主任が私を見ていてくれていたなんて。

「だから、頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」

礼を口にすれば、優しい横顔が隣にあって。やっぱりかっこいいなと思う私は、本当に重症だと思う。私は好きな気持ちが彼に伝わらないよう、ゆっくり視線を前に向けた。狭い空間の中で彼と並んで座る、触れてしまいそうな右肩が今日は特別に熱く、擽ったく感じた。


***


A会社での、巧みに交渉するはたけ主任を見て、私はたくさん学ぶことができた。商談もはたけ主任のお陰で無事に終わり、安心したのもあって、帰りの車内では会話に困ることはなかった。

「今日は本当にありがとうございました」

会社の駐車場に車を停めて、降りようとする私にはたけ主任は「みょうじさん」と引き止めた。なんだろう。私はドアを開けようとした手を止めて、はたけ主任に顔を向けた。

「電話番号教えて貰ってもいい?」

突然の言葉に私は驚いて「え?」と聞き返した。はたけ主任は慌てた様子で、

「違う違う。私用で使うのではなく、これから仕事の用件で掛けると思うから」

と、慌てて否定した。その言葉を聞くなり『なんだ。そういうことか』と、少しばかりがっかりする自分がいて、思わず苦い気持ちが広がってしまう。

「分かりました」

番号を口頭で伝えれば、はたけ主任はポケットから自分の携帯を取り出して人差し指で画面に番号を打ち込んだ。打ち終わると、ぱっと顔を上げて、「じゃあ、一応、オレの番号も教えるね」と私に言った。その言葉にまた驚いて、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
驚く私を差し置いて、番号を言い出すはたけ主任に慌てて「待ってください」と言いながら鞄に入れてある携帯を取り出した。間違えないようにはたけ主任の番号を打ち込んで、最後に登録の文字をタップした。

「何かあれば掛けていいからね」

なんて、はたけ主任は悪戯に笑い掛けるものだから、仕事の用件でなのか、それとも私用での用件のことを指しているのか、その言葉の本意は分からなかった。それでも私は小さく「ありがとうございます」と、礼を口にすると、彼は緩く、柔く、笑った。

「じゃあ、オレ、このまま別の会社に行かないといけないから、みょうじさんは先に会社に戻ってていいよ。悪いけど、課長に今日のことを伝えといてくれる?」
「分かりました。お疲れさまです」

お疲れさま。そう言うと、はたけ主任は車で走り去ってしまった。私は一礼してから姿が見えなくなるまで見送った。
はたけ主任は会社にとって優秀で有望な人材だ。いつも多忙で、オフィスに滞在する時間が少ない彼のデスクの上は資料や書類などで山積みになっている。寝る暇も惜しんで仕事に明け暮れているのか、ひどい時には目の下に隈を作っている日もあった。そんな彼の姿を目にする度、いつか過労で倒れてしまうのではないかと気が気でなかった。
――私も早く一人前になって、はたけ主任を支えたい。そんな強い思いが湧き出てきて、決意を固めるようにぎゅっと手を握りしめた。



会社に戻り、A会社との商談がうまくいったことを報告すると課長は「はたけくんならやってくれると思っていた」と、満面の笑みを浮かべた。

「じゃあ、みょうじさん。今日のことを報告書にまとめといて」
「分かりました」

一礼して、自分の席へと戻ろうと課長に背を向ける。しかし「みょうじさん」と名が呼ばれた私は、踏み出した足を止めて振り返った。

「みょうじさんも頑張るんだよ」

課長の口から意外な言葉が出てきて驚いた。課長は変わらず、にっこりと笑っている。私はゆっくり頷いて、「はい。頑張ります」と強く答えた。

『頑張れ』を課長にも言われた私は俄然やる気が溢れ出た。さあ、仕事をするぞ。自分に気合いを入れて席に座ると、さっそくパソコンの電源を入れた。起動している間、手持ち無沙汰だった私はコーヒーでも淹れようかと思い、給湯室に向かおうと席を立った。

「ねぇ、みょうじさん。ちょっといい?」

声がした方に振り向けば、以前、私に仕事を頼んだ同期が目の前に立っていた。少しだけ嫌な予感がしつつも、断る理由も特に思い浮かばなかったので、「うん、いいよ」と返事をした。
彼女の背中を追って、連れて来られた場所は先ほど私が向かおうとした給湯室だった。
中に入ると、同期の他にも二人の先輩が私を待っていた。二人はキッと吊り上げた目を私に向けている。嫌な予感は見事に的中した。狭い給湯室にはむせ返るほどの様々な香水の匂いが充満していて、私は思わず顔をしかめてしまった。

「…ねぇ、みょうじさん。あなた最近、はたけ主任と仲が良過ぎない?」

一人の先輩が一歩、私に近付いて問いただす。専制的な圧に負けて、私は思わず身を引いてしまった。俯き黙って言い返せない私を二人は嘲笑い、再び鋭い言葉を投げつけた。

「さっきまでだって仲良さそうにドライブまでしちゃって」
「地味なくせにやることは大胆で汚いわね」

二人の私を罵る言葉は尽きない。後ろで見ている同期は何も言わないが、二人と同じくらい怖い表情で私を睨みつけている。
悔しい。言い返そうにも、怖くて唇が開かない。

「これ以上、はたけ主任に近付かないでよね」

それだけ言い残すと、どん、とわざと私の肩をぶつけて三人は給湯室から出て行った。

悔しい。悲しい。苦しい。泣きたい。

ヒリヒリと痛む右肩と共に様々な感情が私の胸に訪れて、今にも破裂しそうだった。
コーヒーなんてとてもじゃないが淹れる気にもなれず、私は給湯室を出ようと重い足を動かした。

ふと、ポケットに入れた携帯が震えているのに気が付いた。着信?誰からだろう?携帯を取り出して確認すると、はたけ主任から着信の文字が画面に浮かび上がっていた。――どうしたのだろう?高鳴る胸を抑えつつも「はい」と、電話に出れば、すぐに低い声が耳に入り込んだ。

「みょうじさん。傘、忘れたでしょ」

え?と私は反射的に頭の中で自分の傘をどこに置いたか思い出そうとした。はたけ主任は「ピンクの傘ってみょうじさんのだよね」と続けると、ようやく車内に置き忘れていたことに気が付いた。

「…あ、忘れてました」
「どうする?」
「そのままで大丈夫です。明日にでも取りに行くので」

きっとはたけ主任は出先から電話を掛けてきているのだろう。私なんかに手を煩わせてしまうなんて申し訳なく思い、慌てて「傘なしでも帰れますから」と、付け足した。

「ダメでしょ。今日は夜まで雨が降るらしいよ。今から会社に向かうから、終わったら出入り口で待ってて」

はたけ主任は早口でそう言い放つと、ぷつりと電話を切った。ツー、ツーと、電子音が耳の中で鳴り響く。私は落ち着かせるように、大きく息を吐いた。『待ってて』その一言だけで、どんよりと心を覆っていた霧が晴れ渡ってゆく。
彼の声を聞いただけ。ただそれだけなのに、こんなに早く明るくなる私の心はひどく単純だ。

――大丈夫。私らしく。

車内で彼に言われた言葉を大切にゆっくり心の中で唱えれば、痛みが消えてゆく気がした。頭に浮かぶのはやっぱりあの優しい横顔で。乗り越えなくては、と気持ちを切り替えた。



オフィスに戻ると、先程の三人の突き刺すような鋭い視線が刺さったが、気にしないと心に決めて自分の席へと向かった。
とっくの前から起動していたパソコン画面を見て、私は課長に言われた報告書を作る作業に取り掛かった。



いつの間にか終業の時刻を過ぎて、辺りを見渡せば、誰もいなかった。――いけない。はたけ主任と待ち合わせをしてるんだった。慌てて作業を切り上げて、パソコンの電源を落とす。帰り支度を素早く済ませると、オフィスを後にした。

外に出れば、夕方から夜に代わり、辺りは真っ暗だった。ザーザーと降り注ぐ雨を見て、はたけ主任の言った通りだったな、と空を見上げた。

「みょうじさん」

ふいに名前が呼ばれ、驚いて振り向けば、はたけ主任が目の前に立っていた。

「すみません。待たせてしまって」

咄嗟に遅れたことについて謝れば、はたけ主任は至って気にする素振りもなく「いえいえ」と謙遜すると、私が車内に置き忘れた傘を差し出した。

「はい、これ」
「ありがとうございます」

礼を言いながら傘を受け取ろうと、私は柄の部分を持った。しかし、はたけ主任は手を離そうとはしてくれない。どうして?不思議に思いながら顔を上げて見ると、はたけ主任は困ったような笑みを浮かべていた。

「オレ、傘忘れちゃったんだよね」
「え?」
「だからさ、入れてくれない?」

言いながら、はたけ主任は差し出していた傘を引くと、パッと乾いた音を立てて広げた。一瞬にして薄いピンク色が私の視界を埋め尽くす。はたけ主任は何食わぬ顔で「じゃ、帰ろっか」と隣に来るように私を促した。
戸惑いながらも私は足を踏み出して彼の隣に並ぶ。はたけ主任の左肩が私の右肩に触れるように当たる。車内の時よりも近い距離に私のなかで心臓の鼓動が鳴り響いた。
ふと彼の横顔を窺えば、はたけ主任は重たげな瞼をして降り注ぐ雨を見つめていた。彼の手に持つ可愛らしいピンク色の傘が彼とはあまりにも不釣り合いで、思わず口元を緩ませた。

「なに、笑ってるの?」

はたけ主任は私の顔を覗き込むようにして訊ねた。その顔は少しだけ不満そうで、さらに笑いがこみ上げた。私は別に何でもありませんと誤魔化して、彼の顔から逃げるように反対側に顔を背けた。

「ふぅん。ならいいけど」

そう言って、ようやく離れた彼の顔はどことなく微笑んでる気がして、私も嬉しくなった。
ポタ、ポタと楽しそうに傘地に跳ねる雨の雫が、カーブを描きながらするりと滑り落ちてゆく。濡れないようにと、私寄りに傘を差してくれている彼の優しさが愛しく感じる気持ちと、好きだとやっぱり言えない切ない気持ちが交わり、交差した。

「私、はたけ主任のサポートができるようにもっともっと頑張ります」

はたけ主任に相応しい女性になるにはもうそれしかない。決意を改めて口にすれば、はたけ主任は「え、」と言葉を漏らして黙り込んでしまった。もしかして困らせてしまった?
しばらく経ってもはたけ主任の返答が聞こえず不安になり、気休めに空を仰いだ。いつの間にか雨も止んでいて、傘の上に落ちる水しぶきの音も聞こえなくなっていた。

「雨、止みましたね」

話題を変えるように言い放った私の言葉に、はたけ主任は空を見上げる。

「いーや、まだ降ってるね」

彼は傘を深く下げると、ゆっくり屈んで、顔を近付けた。視界が遮られ、思わず身を引く私を逃さないと、はたけ主任は距離を詰めた。彼の、温かい吐息が私の髪を揺らす。思わず目を閉じると、そっと私の唇の端に、温かい唇が触れた。
状況がうまく飲み込めず、瞼を開けば、はたけ主任の顔が目の前にあって、これはキスだと理解した。
彼は驚く私に悪戯な笑みを向けて「唇はまた今度ね」と、冗談なのか本気なのか分からない言葉を口にした。今度こそ私は一歩下がって、彼との距離を取った。きっと、今の私の顔は間抜けな顔をしているであろう。何も言えず、口をパクパクさせる私に彼はふっと、笑った。

「待ってるからね」

そう口にすると、彼は傘を閉じた。呆然と立ち尽くす私に、はたけ主任は「置いてっちゃうよ」と振り返り、手招きをした。私は慌てて止まっていた足を動かして、少し前を歩く彼に着いてゆく。

雨上がりに二人で歩く道は一人で歩く足音と違って聞こえて、嬉しく感じる。
すぅ、と息を吸い込むと、雨上がり特有の湿った匂いが私の鼻先をくすぐった。時折吹く、胸を切る風が彼を思う気持ちをどんどん加速させてゆく。
私は隣で歩く彼をこっそり盗み見た。そこにはいつもと変わらず微笑む顔があって。その横顔を目にするたび、ああ、やっぱり私は彼に恋をしているのだな、と、自覚させた。

『いつかは言えるかな。好きだって』

起こされた想いは誰にも止められない。躓いて転んでも真っ直ぐに彼の背中を追い続けよう。いつの日か、彼に気持ちを伝えよう。そう胸に固く誓い、大好きな彼の横顔を見つめた。

歌詞参考 横顔/aiko







×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -