「泣いてたわよ。チフユ」

病室に入って早々、オレを見て溜息を吐いたのは紅だった。オレを見下ろす真っ赤な双眸には明らかに怒気が入り混じっている。『泣いてたわよ。チフユ』その言葉には『チフユを泣かせるな』そんな意味も含まれているのだろう。

「だからなに」

なるべく怒りを煽らせないように静かに答えたつもりだったが、今の紅では何を言っても悪いように捉えられてしまうらしい。紅は形のいい眉をぴくりと動かすと鋭い目でオレを睨み付けた。

「なによそれ。カカシはチフユのことが好きじゃないの?」

射抜くようなその赤い瞳は自分が思っていること全てを見透かされてしまいそうで。思わず顔を背けて視線を逸らした。勘の良い紅はオレの胸の内を悟ったのか、はあ、と長い息を吐くと先程より落ち着いた声で問い掛けた。

「…何をそんな頑なになっているの?」

紅の宥めるような言い方に無意識に身構えたオレは、「何が?」としらを切る。

「紅、何か勘違いしてない?そもそもオレ、チフユなんて好きじゃないし」

隙を与えぬよう言葉を紡げば、紅は「あなたも素直じゃないのね」と呆れたように嘆息を漏らした。『あなたも』その言葉に引っ掛かりを覚えたが、ここで反論したら今度こそ何を言われるか分からない。喉まで出しかけた言葉はぐっと呑み込んでオレは紅に視線を向けた。
紅は固い表情のままオレが入院で使っていた衣類やコップなどの生活用品を鞄に入れていた。その様子を見て、今日は退院の日だったと思い出す。任務の際に負った傷は優れた医療班のお陰で完治した。しかしずっと寝たきりの生活だったせいか、鈍った体はまだ本調子ではなかった。紅はそんなオレを気遣って、退院の手伝いをしに来てくれたのだった。彼女は男勝りで勝気な性格だが、恋人のアスマと匹敵するぐらいに優しく面倒見が良かった。アカデミーの頃から一緒にいて信頼できる昔からの仲間。しかし長い間一緒にいたせいか、こうして甘えてしまう部分があった。
…もしかしたら、紅には本当の事を打ち明けて良いのかもしれない。紅のことだ、オレとチフユの間に立って上手いこと取り持ってくれるだろう。
ーー言ってしまおうか。しばらく逡巡していると「カカシ」と、紅がオレの名を呼ぶ声が聞こえた。声の方へ視線を向けると、紅は作業をしていた手を止めて険しい表情でオレを見ていた。

「チフユを好きじゃないと言うのなら、もうチフユに近付かないで」

ピシャリと言い放った紅の顔は先程と変わらない硬い表情のままだ。紅はオレの目をじっと見て、目が覚めるような赤を引いた唇を開く。

「もうチフユを悲しませないで」

反論は聞かない。言いたげに真っ赤に燃える双眸をオレに向けた。その瞳に耐えられず、ふっと視線を手元に落とす。爪の生え際には小さなささくれが出来ていた。
紅の言いたいことは分かっている。オレのせいで大切な親友が傷付く姿など見たくないのだろう。オレも同じだ。チフユがオレのせいで傷付き、涙を流す姿など見たくない。
…ならば、紅の言う通り、チフユを悲しませないようにするには彼女から離れることしかない。分かってはいたが、何も知らない他人から言われるのはどうしても嫌だった。
ーー知りもしないで偉そうに。頭の中では誰も悪くないと分かっていても、悪態を吐けば吐くほど、腹の底から込み上げる怒りが心を埋め尽くしていった。

「……だから、オレはチフユが好きじゃないって言ってるでしょ。紅もしつこいよね。まるでガイみたい」

気付けば声に出していた。マズいと思い、慌てて口を閉ざす。恐る恐る紅の顔に視線を向ければ案の定、怒りで頬が紅潮しているのが見て取れた。紅は息を大きく吐くと「あら、そう」と冷たく言い放ち、オレの私物が入った鞄をドンっと叩きつけるようにテーブルに置いた。

「それじゃ私、先に帰るから。思ったよりも元気そうだし一人で帰れるでしょう?」

言い切ると、紅はさっさと病室から出て行ってしまった。紅の気迫に呆気に取られたオレはしばらく呆然と閉ざされた扉を見つめた。…こりゃ、あとでアスマにも言われるだろうな。面倒なことになってしまったと盛大に溜め息を吐く。

まあ、でも、これで良かったのかも。

チフユを諦めた以上、今さら誰かに言ったって無駄なだけ。事を荒げるだけだ。だったら胸の内にだけ秘めておいて、気持ちが消えるまでじっと待っていた方がマシだ。オレは一人頷いて、無造作に置かれた鞄を手に取ると、病室を後にした。


***


それから数日が経ち、紅とは待機所で会っても口を聞くことはなかった。案の定、アスマに「紅にこれ以上、余計なことを言うなよ」と咎められたが、「はいはい」と適当に受け流した。アスマは不服そうにオレを見ていたが、これ以上、誰かに文句を言われるのは嫌だったので、逃げるように待機所を後にした。

やはり気になるのは、チフユだった。最近では任務で昼夜逆転の生活を送っていたためか、隣室から生活音を聞くことはなかった。
チフユに会いたい気持ちは変わらずあったが、彼女の幸せを望むと決めたからには会うことは許されない。もし仮に、チフユと会ってしまったとしたらチフユを振った自分はどんな顔をして彼女に会えば良いか分からなかった。雑念を振り払うために、代わりに任務のことだけで頭いっぱいにした。

とある日の任務帰り、今日はいつもより早めに帰宅できたので、営業時間内ギリギリに店に入り買い物をすることが出来た。小腹が空いていたので適当な弁当を購入し、袋をぶら下げて慣れた夜道を歩く。
ふと見上げた宵の空は厚い雲が覆っていて、星はもちろん月明かりさえ見えない真っ暗な夜空だった。だからだろうか、住宅街の灯りがやけに明るく見える。それは自分が住むアパートも例外ではなく、数ある明かりが灯る部屋の中で彼女の部屋も該当していた。

ーーチフユ、部屋にいるのか。

嬉しいような。嬉しくないような。複雑な気持ちを抱えながら重い足取りで自室まで向かった。鍵を開けてドアを開けば、さっそく隣室から生活音が聞こえていた。
耳を塞いでも気配で分かってしまうのが嫌で、本気で引っ越そうとも思った。しかしあわよくば、また以前のようにベランダで彼女と話したいと望んでしまう自分がいて、なかなか踏ん切りがつかなかった。

オレは一体何がしたいのだろう。離れたいと思いながらもチフユに会いたいだなんて。余りにも矛盾が生じ過ぎて、自分でも理解不能だ。

はぁ、深呼吸なのか溜め息なのか分からない息を吐くと、テーブルに弁当が入った袋を置いてソファに寝そべった。気休めに本でも読もうかと読みかけの本を開いてみたが、雑念だらけの頭では当然の如く、内容が入って来ない。これではダメだと、読む気も失せてしまい、次のページを捲ることなく閉じた。
ふと時計の針を見れば夜の11時。明日も早いし、食べて寝るとするか。本をソファの隅に追いやり、テーブルの上にある袋を開けて弁当を取り出した。フタをあけてみると、見るからに冷え切った弁当に食欲も湧かず、行儀が悪いと思いつつも料理の上であちこち箸を動かしていた。
…もういいや、寝よう。弁当を袋に戻し、冷蔵庫に入れようと、立ち上がった。

ーーコンコン

ふいに、遠慮がちにノックする音が聞こえた。久しぶりに聞くその音に、胸が大きく鳴り響く。しばらく壁を見つめながら返事に困っていると、聞き慣れた彼女の声が微かに耳に入った。

「…カカシ、いる?」

その問いに思わず『いるよ』そう答えたかったが、安易に答えて良いのだろうかと悩んだ。迷っている間にも刻々と時が進んでゆき、焦燥に駆られる。何か言わないと。そう思うのだが、なかなか言葉が出てこない。

「アスマから焼酎もらったんだけど、余っちゃって…一緒にどう?……友達として、一緒に」

『友達として』その言葉にはっとする。ああ、そうか。オレ達の関係は友達だ。隣人兼、友達。友達としてなら以前のようにチフユと酒を交わしたり悩みを打ち明けたり、他愛もない話で笑い合ったり出来るだろう。チフユの誘いに頷いて、何事もなかったふりをすればまたチフユと前の関係に戻ることができる。しかし今の状態でチフユに会って、オレの気持ちは歯止めが効くのか。また思いを募らせて苦しくなるだけではないのだろうか。

…いや、それよりもなによりも、オレの気持ちをなかったことになんて、できない。

「…ごめん無理。任務明けで疲れてる」

オレの吐いた言葉は凍てつく部屋にあてどなく彷徨い、消えた。目の前の白い壁は依然として汚れて見えたまま。それはまるで、あの頃には決して戻れないことを意味している気がした。

「…そっか、ごめん」

チフユの声は明らかに落ち込んでいた。ごめんだなんてホントはオレが言うべき言葉なのに。それすらも言えない自分に勝手に苛立ち、腹が立った。
カーテンの隙間から見える夜空は変わらず星一つ見えない真っ暗な曇天の夜空。思えばチフユと見た景色はいつだって美しい夜空だった。それは偶然なのか、はたまた必然なのか。後者なら悲壮美に満ちていて嬉しいと思ったが、すぐに自分に酔い過ぎだと気付き、自嘲気味に笑った。




翌朝、なかなか寝付けなかったオレは寝不足の朝を迎えた。カーテンから漏れた光を遮るように腕で目を隠して、今日の日程を頭に浮かべる。今日は確か、朝から護衛任務が入っていたはず。そろそろ任務に行く準備をしなくてはいけないなと、重い体を起こしてベッドから降りた。
洗面所に向かい、水で顔を洗うと氷のような冷たさに思わず顔をしかめた。ふと見上げた洗面鏡にはいつも以上に陰気な顔した男が映っている。とうの昔に塞がれたはずの左目の傷が今日は何故かヒリヒリと痛んだ。そっと人差し指で傷をなぞると、傷痕だけ厚く硬い皮膚になっていた。
この傷跡はオビトの意思を受け継ぎ里を守ると誓った印。この左目を持ったからにはオレは里のために任務をこなさなくては。愛だの恋だの現を抜かしている場合ではない。決意を改めるかのように、オレはもう一度顔を洗うと洗面所を出た。

結局、昨夜の晩に手付かずだった弁当は冷蔵庫の中に眠っていた。捨てるのはもったいないので朝食にしようと取り出してはみたが、やはり食欲が湧かず、再び冷蔵庫に戻した。
空腹のまま任務に向かうのは良くないと思ったので、牛乳を一気に飲み干し、空になったコップを流し台に置いた。歯ブラシを口に加え、リビングのカーテンを引くと、窓に結露が張っているのに気が付いた。
今日もきっと寒いだろうなと、結露を見ただけだというのに無意識にぐっと肩に力が入る。キッチンに戻り、口をすすいでから軽く身支度を整えると、廊下を出て玄関へ向かった。
冷たいサンダルを履いて棚の上に置かれた鍵を持って握り締める。ドアノブに手を掛けて扉を開くと、さっそく朝の冷えた空気が肌を刺した。やはり今日も寒い。先程と同じ呟きを頭の中で吐いて、バタンと扉を閉めた。同時に似たような音が隣から聞こえ、音のした方へゆっくり視線を向けた。

そこには一晩中考えていた彼女、チフユが立っていた。チフユもたった今オレの存在に気が付いたのか、一瞬だけ驚いた顔をすると、一呼吸置いてからオレに挨拶をした。

「…おはよう、カカシ」

久しぶりに聞くチフユの声。響き渡る胸の鼓動がやけにうるさい。オレは挨拶を返さず、チフユから顔を背けると鍵をドアノブに差し込んだ。焦りと戸惑いで手のひらに汗が滲み出る。
さっき気持ちを整えたばかりなのに、なんで今なの。タイミングの悪い自分を悔やみ、白い溜め息を吐いた。

「カカシ、昨日はごめんね。疲れは取れた?」
「…まあね」

チフユの顔を見ず、鍵を締めたばかりのドアノブに目をやり一点を見つめる。金属部分が少しだけ黒くくすんで見えるのは気のせいだろうか。
早くこの場から去らなくては。そう思うのだが、足が思うように動かない。視界の隅にいるチフユは廊下から見える景色を見て微笑んでいる。こっちの気も知らず、呑気な彼女の様子に軽く苛立ちを覚えた。ジリジリと熱いものが喉にまで込み上げて息苦しい。頭に浮かび上がるのはチフユへの怒りの言葉。
ーーオレの気も知らないでよく笑ってられるよね。

「今日は天気が良いね「チフユさあ、よく振られた相手に気にもせず話しかけられるよね」

腹の底から湧いた怒りは言葉となり、チフユの声を掻き消した。チフユはどう思っただろうか。悲しんだろうか、それとも怒っただろうか。チフユの今の気持ちを知ることが怖くて、オレは馬鹿みたいにドアノブに掛けている手を見つめた。爪の生え際にある、ささくれは前に目にしたときよりも、細かく裂けて悪化していた。

「ねぇ、カカシ。振られたら話し掛けちゃいけないの?むしろ気にしてるのはそっちじゃない?」

チフユの声は明らかに怒りと悲しみが入り混じっていた。微かに震えているのは気のせいではない。

「…そうかもね」

否定せず投げやりに呟くと、チフユの息を呑む音が聞こえた。オレはドアノブから手を離し、チフユに視線を向けた。オレを見るチフユの顔は未だかつて見たことのない悲しげな表情だった。揺れる瞳には、たっぷりの涙を溜めていて、瞬き一つでもしたら零れ落ちそうだ。

……オレはまた、チフユを悲しませた。

これで彼女との関係は友達でもなく、ただの隣人に戻った。何も声を掛けず、ただ突っ立ったままのオレにチフユは嫌気が差したのか、オレに背を向けると走り去って行ってしまった。
咄嗟に追いかけようとするが、今の状況でどんな言葉を掛けて引き止めればいいのか分からず、オレは途方に暮れた。

朝の静けさのなかで遠くで微かに鳥のさえずる声が耳に入る。陽気な鳥の歌声と自分の不甲斐ない感情が余りにも相反し、苦い気持ちが胸に込み上げた。屋根と手摺りの間からは雲一つない青空が広がっている。チフユの言う通り、今日の天気はとても良かった。ああ、オレはチフユになんてことを言ってしまったのだろうと、今更にして後悔の念が押し寄せた。

「オレ達、なんで出逢ってしまったんだろうね」

無論、空に問い掛けても返事が返ってくることもなく、悲愴感に酔っていた自分が無性に恥ずかしくなり、己を嘲笑した。
なんとなくポケットに手を入れて指を丸めると、中指の指先にあるささくれて捲れた皮が親指に当たり、痛みを感じた。チクリと刺す感覚が心にも生じる。

ホント、馬鹿だよね。オレって。

自分の気持ちとは逆の、突き抜けるような晴れた空を見て、指先だけではなく体中までもが裂けてゆく気がした。


返事の来ない朝





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