一段と冷えた寒い夜。いつも通り任務を済ませたオレはアパートまで向かっていた。 歩いている途中、少しでも夜気から逃れようと、首を竦めてぐっと肩に力を入れる。ようやく部屋の前に着き、ピタリと足を止めて悴む手をポケットに入れると鍵を取り出す。鍵穴に鍵を差し込もうとドアノブに目をやればふと、ドアノブに茶色の紙袋が掛けてあることに気が付いた。 なんだろうか?忍という職業柄、無意識に身構えつつ、人差し指で紙袋のフチを引っ掛けてみると、中から窺えたのは起毛立った茶色の布だった。 ……毛布? この毛布は確か以前、朝日を見た日にチフユに貸したものだった。紙袋を手に取って、毛布を取り出してみると、ふわっと微かにチフユの香りが鼻を掠めた。やはりチフユが返しにきたのだろうと確信する。 ひらり、紙袋から白いメモ用紙が弧を描きながら足元に落ちた。訝しげに思いながら、紙を拾い上げて目を通すと、そこには丸みを帯びた几帳面な文字で「ありがとう」と一言だけ書かれてあった。 …どうせ返すなら直接渡せばいいのに。軽く不服に思いながらも、そっとメモ紙を紙袋に戻した。 紙袋を持つ反対の手でドアを開けば、相変わらず冷えた空気がオレを迎え入れた。用のなくなった鍵を玄関の棚に放り投げる。サンダルを脱ぎ、裸足でリビングまで向かうと冷たい床が足裏の熱を奪っていった。 手探りで照明をつけると視界に映ったのは蛍光灯で照らされた殺風景で温かみもない、いつもの自室だった。床に紙袋を置き、どさっとソファーに腰を沈める。今日も代わり映えのしない一日だった。それが良いことなのか悪いことなのか今のオレには分からない。けど何もないということは平和な証拠なのだろう。ふぅ、溜め息を吐いて目を閉じる。無音の部屋から微かに聞こえたのはシャワーを浴びる音だった。 チフユは風呂場にいるのだろうか? 隣の生活音を聞いて、寂しさを紛らわす習慣がいつの間にか定着してしまった自分に苦笑する。 …オレも、風呂に入ろうかな。 先程までずっと外にいたせいか、頭から足の爪先まですっかり冷えてしまった。温かい風呂に浸かるのもいいかもなぁと、先ほど腰を沈めたばかりのソファから立ち上がり、脱衣所へと向かった。 額当て、グローブ、ベスト、忍服、最後に肌着を脱いでゆけば、晒された肌が冷たい空気に触れて、思わず身震いした。悴む指先で風呂場に続く戸を引く。足を踏み入れると、さらに冷気が体を刺した。 「さむっ」思わず呟いて、とりあえず浴槽に湯を汲み始めた。その間、手早く体を洗って温かいシャワーで泡を洗い流す。シャワーを止めれば、濡れた体を冷気が触れて一気に体温を奪った。一刻も早く風呂に浸かりたい。我慢できなかったオレはまだ湯が溜まっていない浴槽に足を入れた。 ぼうっと浴室のタイル壁を見つめながら湯が溜まるまで、じっと待つ。両手で掬った湯で顔を洗えば、少しだけ疲れが取れた気がした。 そういえば、チフユも風呂場にいるんだっけ。 今頃鼻歌でも口ずさんでいるのかな。久しぶりにチフユの鼻歌でも聴こうと、きゅっと蛇口を捻り、湯を止める。目を閉じて、チフユの声に耳を傾けてみるが、聞こえてきたはチフユの声ではなく、自身の髪から滴る雫の音だけだった。 ーーなんだチフユ、もう風呂から上がってしまったのか。少しばかり残念に思いつつ、身体が暖まる感覚を肌で感じながらもう一度、顔を洗った。 充分に体が暖まり、風呂から上がると、脱衣所に置いてあるバスタオルで体を拭いてゆく。濡れた髪は乾かすのが億劫だったので、肩にフェイスタオルを掛けるだけにした。 裸足で寒い廊下に出れば、せっかく暖まった体の熱を容易く奪っていった。寝る前に温めた牛乳でも飲もうかな。そう思い立ったオレはキッチンへと向かった。 食器棚を開いて自分専用のマグカップを取り出すと、ふと食器の奥に佇む紺色のマグカップが視界に入った。 チフユも飲むだろうか? とりあえずもう一つのマグカップを取り出して自分のマグカップの隣に並べると、オレはしばらく深緑と紺色の二つのマグカップを眺めた。 紺色のマグカップは引っ越しの際に予備として購入したものだった。なんの変哲もない既製品のマグカップ。しかしオレにとっては特別で大切なものだった。 まさか彼女が使うようになるとは、ね。 ふっと無意識に口角が上がる感覚を噛みしめながら、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出すと小鍋に二人分の牛乳を注ぎ入れた。 ガスコンロで鍋に火をかけている間、手持ち無沙汰だったオレはチフユを誘おうと思い、壁まで歩み寄った。 コンコン、いつものように軽く壁を叩く。オレは火にかけてある鍋に注意を払いながらもチフユの返事をじっと待った。 しかし、幾ら待てどチフユの声は聞こえない。寝てしまったのだろうか?それともまた体調でも崩しているのだろうか?なんとなく不安になったオレはチフユの名を呼んだ。 「…チフユ?」 しん、と静まる部屋にオレの声が響き渡る。 「…ごめん、今日は会いたくない」 返ってきたのは抑揚のない、くぐもったチフユの声だった。その声を聞いて、先程まで浮かれていた心が一瞬にして影を落とす。 「どうかした?」 黙り込むチフユに痺れを切らしたオレはすかさずチフユに問い掛けた。しかしチフユは先程と同様、何も答えない。 「…明日は?会える?」 自分の発した声には明らかに焦りが入り混じっていた。今日が駄目なら明日にすれば良い。明日が駄目なら次の日でも構わない。すぐ近くにいるチフユが遠くに行ってしまいそうで怖かった。 「会えない。…明日も、ずっと」 チフユの消え入りそうな声を聞いて、ずん、と鉛のように重いものが心にのし掛かった。 ーー何よそれ。いつでも壁を叩いてねって言ったのに。いつでも話し相手になってくれるって言ったのに。チフユにとってのオレは、大切な友人なんでしょ?前に言ったじゃない。…全部、忘れてしまったの? そっと額を壁に置いて、指先で冷たい壁を這わせた。壁越しのすぐ近くにはチフユがいるような気がするのに、何も出来ないオレは相変わらず臆病者だ。 「 ! 」 シャーッとキッチンの方から牛乳が吹きこぼれる音が聞こえた。慌ててキッチンに向かい、ガスコンロの火を止めて鍋を見る。鍋の中では牛乳が煮えたぎり、グツグツと音を立てていた。 何やってんだろ、オレ。無意識に溜め息が零れ落ちて、近くにあった布巾を手に取った。 とりあえず汚れてしまったガスコンロを拭こうと鍋を調理台に下ろす。拍子に右手に触れたマグカップがコトン、と傾いて翻えすように調理台から転げ落ちた。 ーーしまった、 気付けば時すでに遅し。重力に負けて床に吸い込まれるように落ちたマグカップはガシャンと大きな音を立てて真っ二つに砕けた。 割れた音が鼓膜を突き抜け頭の中で反響する。思考が上手く回らなくなったオレはしばらく呆然とその場に立ち竦んで破片を見つめた。 …割れてしまった。 ようやく現状を理解出来たオレは、ゆっくりしゃがんで散らばった破片を一つずつ拾い上げた。手のひらに破片を乗せてゆけば、陶器が重なり合う高い音が響き合った。 ーーなにも今じゃなくたっていいでしょ。 形あるものは儚く、いつかは壊れてなくなってしまうことは最初から分かりきっていたこと。知っていたはずなのに。ちゃんと理解していたはずなのに。大切なものがまた一つ跡形もなく壊れてしまった。 鋭く尖った破片が胸を突き刺すように痛い。全ての破片を拾い集め入れた袋を捨てようとするが、どうしてもそれが出来なかったオレは目につかない、キッチンの隅へと置いた。 *** それからしばらく経ち、あの日からチフユと会うことはなかった。あれだけ心落ち着かせて聞いていた隣の部屋の生活音も今は聞く度に胸を締め付けている。 結局、あの時に割れてしまったマグカップはいまだに捨てられずにいる。チフユを想う気持ちも変わらないままだった。どうしてチフユはオレを拒むのだろうか?チフユはオレを嫌いになってしまったのだろうか? …チフユは、オレをどう思っているのだろうか? チフユに訊ねたいことはたくさんあった。だが、チフユの口から発せられるすべての答えを聞くのが怖かった。 ふと壁に目をやれば、見慣れた白い壁の筈なのに、今日は一段と色馳せて見えた。毎日当たり前だと思っていたものが、消えてなくなった。 冷えた空気を大きく吸い込んで長い息を吐けば、目に見えない肺に溜まった様々なものが排出されていった。 溜息で充満したこの部屋の空気は悪い。無性にここから逃げ出したくなったオレは、予定の時間よりも早めに待機所に向かった。 「カカシ、久しぶりね」 待機所に入るなりオレに声を掛けてきたのは紅だった。その隣にはいつもと変わらず煙草を口に加えて紫煙を吐き出すアスマがいた。 「私、今さっき長期任務から帰ってきたところなの」 そういえば久しく紅の顔を見ていなかったな。思いつつも、オレは適当に「へぇ」と相槌を打った。アスマはオレの態度が気に入らなかったらしく、ムッとした表情を浮かべている。相変わらず紅のことになるとムキになるアスマに呆れた目を向けるが、まぁオレも同じようなものか、と自嘲して視線を逸らした。 「明日、久しぶりにチフユとご飯にでも行こうと思うんだけど、カカシも一緒にどう?」 「なんでオレが?」 紅の突然の誘いに思わず上擦った声を上げる。それを聞き漏らさなかったアスマはにっと口角を上げて、からかうように笑った。 「だってお前、チフユのこと好きだろ」 その言葉に、鼓動が跳ね上がった。何を思ってアスマはそんなことを口にするのか。軽く苛立ちを覚えたオレは心の内を悟られまいと、アスマとの視線を逸らさずはっきりと答えた。 「そんなわけないじゃない」 アスマは口に加えていた煙草を指で摘むとオレの目をじっと見た。オレも負けじと視線を返す。しばらく互いを睨み合っていたが、先に折れたのはアスマの方だった。アスマはしばらく考える素振りを見せると、ふぅ、とゆるく紫煙を吐き出した。 「…そうか?オレはてっきりお前はチフユのことが好きなんだと思ってた」 「馬鹿なこと言わないでよ」 まだオレを疑っているのか、腑に落ちない顔を浮かべるアスマにすかさず否定の言葉を述べた。 「でもなぁ、チフユはお前のこと好きって言ってたぞ」 「…え、」 アスマは短くなった煙草を携帯用灰皿に落としてポケットに仕舞うと、箱から再び煙草を取り出して口に加えた。カチカチとライターの火をつけて、口で挟んでいる煙草に火をつける。アスマの一連の動作を見ながらオレは頭の中でずっと同じことを考えていた。チフユがオレのことを好き?オレと同じ気持ちなの?そんな、まさか、 「それって「なんて、嘘だけどな!」 アスマの遠慮ない哄笑の声が待機所に響き渡った。待機所にいるほとんどの人間が怪訝な目をオレ達に向けている。隣にいる紅がアスマの肩に手を置き「ちょっと」と制した。 「お前…」 羞恥と怒り、様々な感情が入り混じって続く言葉が出て来ない。 「…笑えない冗談やめて。むしろ、チフユに嫌われているんだから、オレ」 ようやく発した自分の声はひどく情けないものだった。察しの良い紅がオレの顔を覗き込んで「どういうこと?」と問い掛ける。 「…いや、別に」 ホントは心の奥底にある悩みを全て吐き出したかった。何もかも打ち明けて、煩わしい気持ちを吹き飛ばしたかった。しかしそれが口にできないのは自分の弱さを他人に知られるのが怖いから。 ぐっと握り締めた手のひらは冷たく、汗が滲みだす。グローブを嵌めた手の内が湿り気を帯びて気持ちが悪かった。 「失礼します。はたけ上忍はいらっしゃいますか?」 丁度よく、待機所のドアを開けて若い中忍がオレの名を呼んだ。ここにいると返事をすると、中忍は頭を下げて「今日の任務内容を伝えに参りました」とキビキビとした口調で任務内容を話し出した。どうやら今日は簡単な素行調査のCランク任務だそうだ。 「……では、よろしくお願いします」 「分かった。ありがとね」 オレの返事を聞くなり中忍は一礼すると踵を返して待機所を後にした。オレも続くように指示された場所まで向かおうと足を踏み出す。 「あ、待って!明日の食事は?」 紅が慌てた口調で部屋を出て行くオレに声を掛けた。オレはドアを開き、わざと聞こえるように溜め息を吐くと、振り向かずに返事をした。 「無理。オレ、明日は朝から夜まで任務だから」 明日は夜からの任務だったが、チフユの顔を見るのが怖かったオレは咄嗟に嘘を吐いた。紅とアスマ、二人の視線が背中に感じる。 …これ以上、誰かに心を乱されたくない。二人からの視線を遮るようにパッとドアノブを離すと、バタンと背後で扉が閉まる音が聞こえた。 ひとまず今は任務に集中。そう自分に言い聞かせて、オレは任務先へと向かった。 *** 次の日、夜の任務まで時間があったオレは、溜まっていた洗濯と掃除をやり終えてソファーの上で寛いでいた。 隣の部屋からは物音一つしない。恐らく今の時間帯だと、チフユは仕事に行っているのだろう。久しぶりに自室で穏やかに過ごしながらも、内心はチフユのことが気掛かりで仕方なかった。 気休めに本でも読もうと開くが、目で文字をなぞるだけで内容が全く頭に入らない。寒いからといって身体に掛けた毛布の匂いがより一層、彼女を連想させて焦燥に駆られた。 ーーダメだ。これでは。 雑念を振り払い、勢いよくソファーから起き上がると、読んでいた本がドサリと鈍い音を立てて足元に落ちた。拾い上げながら壁に掛けてある時計を確認する。時刻は夕方の5時を回るところだった。 今日の任務は夜の8時から。集合場所に向かうにはまだ早過ぎる。しかしここにいても時間を持て余して煩悶するだけだった。 久しぶりに、慰霊碑に行ってみようかな。 最近何かと忙しかったオレは、あの場所へ行く機会が減っていた。そうだ、向かいながら花屋で献花を買って行こうかな。そう思い立って、ソファーから腰を上げると玄関まで向かった。冷たく、足の指先が外気に触れるサンダルを履くのは、この時期にはかなり辛い。外は寒いだろうな、そんな小言を心の中で呟いてドアノブを回すと扉を開いた。 外に面するアパートの廊下から窺えた空は橙色に染まり掛けていた。チフユと一緒に見た朝焼けのようだな、と空を見て思う。 もう二度とチフユと同じ景色を見られない。思えば思うほど、胸が締め付けられて苦しくなった。オレは、もどかしい気持ちを閉じ込めるかのように鍵を持つ手をポケットの中へ仕舞い込むと、前を向いた。 さ、行くとするか。 オレの吐いた白い息が鼻先を撫でつける。ゆるりと消えてゆく先をしばらく見つめていると目の前に人影が現れた。それは、先程まで恋い焦がれていた相手ーーチフユだった。 「……チフユ?」 思わず唇から彼女の名が漏れてしまい、はっと息を呑む。チフユもオレの存在に気が付いたのか、手に掛けようとしたドアノブからオレに視線を移すと驚いた表情を浮かべていた。 「カカシ」 チフユの唇から久々に溢れ落ちたオレの名。彼女の柔い声を聞けば心臓が跳ね上がり、じりじりと胸が熱くなった。 オレは一歩、チフユに近付いた。夕日に照らされたチフユの黒髪は微かに赤茶に染まっていて、思わず触れたくなった。しかしチフユはオレからの視線を逸らすと、逃げるように部屋に入ろうとした。 ーー待って。行かないでよ。咄嗟にチフユの手首を掴めば、ひやりとしたチフユの冷たい手がオレの手の熱を奪っていった。オレを怖がっているのだろうか、彼女の手が微かに震えている。 「なんで避けるの?…オレ、悪いことでもした?」 「…してないよ。だから離して」 チフユの消え入りそうな声にはオレを拒絶する声が混じっていた。ギリリと無意識にチフユの手を掴む力が強くなる。チフユがオレの手を振り払おうとすればするほど、彼女を逃がしたくない気持ちが募っていった。ぐらりと歪み傾いた彼女への執着心が、さらにオレを煽らせた。 「離してっ」 一段と声を張り上げたチフユの声を聞いて、掴む手の力が緩んだ。チフユはその隙を見てオレとの距離を取る。力が抜け、だらしなく垂れ下がった自身の右手が冷たい外気に触れる。恐る恐るチフユの顔を見れば、彼女は悲しい表情を浮かべて、今にも涙が零れ落ちてしまいそうだった。 …オレが、チフユをそんな顔にさせてしまったのか。チフユを傷付けて、独占して、逃がすまいとこの手で彼女を閉じ込めてーーこれではまるで、もしかして、 オレもあの男と一緒だ。 「…ごめん」 ぽつりと吐いた謝罪はふっと吹いた風に飛ばされて消えた。…これ以上チフユを見るのが怖い。オレは一歩退くと、チフユに背を向けて歩き出した。 ごめん、ごめん いくら謝ったってチフユとの距離が空いてしまった今はもう、届くことはない。 オレは虚しさから逃れるように空を仰いだ。西に傾いた太陽は、先程よりも濃い朱色になり、夜の濃紺と混じり合っていた。 重なり合う二つの色の間にはポツンと一番星が輝いている。あの銀星も太陽が沈んでしまったら満点の星空の中へ埋もれてしまうだろう。一瞬でなくなってしまうそれは、チフユと共に過ごした柔らかな想い出さえも消えて無くなってしまいそうで。ああ、やっぱりオレは今でもチフユを愛しているのだと思うと、乾いた心が張り裂けそうになった。 チフユと離れたくない、けど、チフユがオレを拒むのなら、離れなくてはいけない。 寒さから逃れるためにポケットに手を入れると、冷たい鍵が指先に触れた。オレは空を見上げながら、夕方と夜の境目でチカチカと光る一番星に囁いた。 『好きだったよ。愛していたよ』 オレの吐いた言葉は嘘。ホントは今でもチフユを想っている。ホントはこれからもずっとチフユを愛していたい。夜空に浮かぶ一番星は、無数の星達に溶け込んでしまい、あっという間に見失ってしまった。 |