チリン、ひんやりとした静寂の中、弾む鈴の音が部屋に鳴り響いた。

瞼を開けて、ベッドから上半身だけを起こし、音のした方へ目を向けると壁に掛けてあった二つの鈴が揺れ動いていた。窓も開けていないのに風など入るわけがない。
ーーだとするとリン、か。
背中に冷や汗が伝う感覚がした。鈴の音が耳に残り、離れない。リンはきっと、あの事を思い出させているのだろう。忘れるな、と。

忘れられるわけがない。

握り締めていた手を広げてみる。汗ばんだ手のひらにはうっすらと汗が滲み出ている。
この手には肉を切り裂くあの感覚が未だ残っている。リンだけではない。何人もこの手で人を殺した。まるで過去を塗り変えるようにリンの血を他の血で洗い流した。それでも、忘れられなかった。違う。忘れてはいけなかった。

揺れ動く、月明かりに照らされた鈴は暗闇のなかで琥珀色に光を放っていた。

とりあえず汗を掻き過ぎて喉が渇いていたので、ベッドから降りてキッチンのあるリビングへ向かう。足裏から伝わる冷たい廊下はより一層、汗を掻いた自身の体を冷やす。食器棚からコップを取り出し、蛇口を捻る。水を溜めたコップに口をつけると水道水特有のカルキ臭い匂いがして思わず顔をしかめた。まあ、仕方ないと言い聞かせ、無理矢理に胃へ流し込んだ。
変わらず、心拍数が落ち着くことはない。ふぅ、息を吐いて、下げていた口布をすっと上げた。

ーーコンコン

ふいにリビングの壁からノック音が鳴り響いた。チフユだ。隣人がいたことを思い出し、少しだけ安堵する自分がいて思わず笑ってしまう。コトン、と飲み干した空のコップを調理台に置き、音の鳴った壁まで歩み寄った。

「何?」

音一つない静寂な部屋にオレの声が響き渡った。一呼吸置いたあと、控えめなチフユの返事が耳に入る。

「…今からベランダに出られない?この前のマグカップを返そうと思って」

マグカップ。その単語を聞いてはっとした。そういえば貸したままなんだっけ。そんなの後でも良いのに。言おうとしたが、先程の件もあってか、二度寝するにもすっかり目も覚めてしまい、何より誰かと話したかった。チフユの誘いは自分にとって、好都合だった。
「いいよ」と答えれば、その後の彼女の返答はなかった。恐らく了承を得たので、ベランダに向かったのだろう。オレはソファに掛けてあったベストを着るとベランダに続くサッシ窓に手を掛けた。

外に出れば、以前よりも寒さが増して冬の訪れを感じさせた。寝汗で濡れてしまった服が体に張り付いて体温を奪ってゆく。ベランダに出る前に着替えてくれば良かった。後悔したが、そんなに長い間も寒空の下にいることはないだろうと思い、オレとチフユの部屋を仕切る壁まで歩み寄った。
チフユとはあの居酒屋の一件以来、仲良くなるのは早かった。それはやはり名前の呼び方と溜め口で会話をするようになったからである。しかしながら、オレとチフユとの距離が縮まってもそこに色恋などの感情は一切なかった。隣人で、良き友人。やはり、あの帰り道での浮かされた熱は酒のせいだったのだろう。
正直、ほっとした。もしも仮にチフユを好きになっていたりしたら、隣の部屋に住むことが難しくなるのはもちろん、それ以上にオレと関わったことによって、大切な友人を失いたくなかったから。

手摺りに手を置き、柵に体重を掛けて身を乗り出しながらチフユを待つ。彼女の部屋から漏れる、照明器具の明かりの中に揺れ動くシルエットが見えた。チフユだ。
彼女の手には先程オレに返すと言ったマグカップと、もう片方の手には何故か自分のマグカップを持っていた。チフユは両手を塞がれて窓を引くことが困難だったらしく、一瞬困った顔を浮かべると、誰も見ていないから平気だと思ったのか、肘を使ってサッシ窓を引いた。
オレが見ていることも知らずに。気の抜けた彼女の一面を目の当たりにして、つい口元が緩んでしまった。

「こんばんは」

驚かせてやろうとベランダ用のサンダルに履き替えている途中の彼女に声を掛けると案の定、チフユは「え」と声を漏らしながら壁越しにいるオレに視線を向けた。目をパチクリさせてオレを見るチフユの表情が面白くて、からかいたくなったオレは彼女が困るような言葉を投げた。

「チフユから誘っといて驚くことないでしょうよ」

チフユは一瞬だけ罰が悪そうな表情を浮かべて「ごめんね、つい」と誤魔化しながら笑うと、二つの部屋を隔てる壁へと歩み寄った。
彼女が近付くにつれて、風に乗り、漂う甘ったるい匂いが鼻につく。なんだろうと怪訝に思いながら彼女を待った。
チフユがベランダの柵に寄り掛かり、背伸びをしてオレのいる薄い壁越しに顔を覗き込んだ。その拍子に一層、強くなった嫌な匂いの原因が判明して、思わず顔をしかめた。

「…なに、それ」

チフユが手にしているマグカップに目を向けて問い掛ければ、彼女は悪びれる顔もせず、あっけらかんとした声で「梅酒」と即答した。

「オレ、甘いの苦手なんだよね」
「そう言うと思ってお湯で割ってきたから大丈夫だよ」

想定の範囲内だったのだろう。オレの皮肉めいた言葉にも動じず、チフユは気にする素振りも見せないで堂々と言い切った。…なんか気に食わない。なかなか手を出さないオレを見て、梅酒を飲まないと判断したのか、チフユは差し出したマグカップを自分側に引こうとした。

「飲めないとは言ってないでしょ」

言いながら、すかさずグイとマグカップを引っ張ってチフユから受け取ると、彼女は驚いた顔をオレに向けた。冷えた手で急に温かいマグカップを持ったものだから、自身の手がジンジンと熱くなる感覚を覚える。

「マグカップに梅酒が入ってるなんて見たことないね」

温かくなる手が嬉しくなる気持ちを隠したくて、チフユに言い放った言葉は自分でも分かるほど可愛げがない。チフユの顔が驚いた表情から今度は呆れた表情に変わった。

「じゃあ飲まなくていいよ」
「だってこのマグカップはオレのでしょ」

反論したオレにチフユの顔が今度は怒りの表情に変わる。相変わらず表情がころころ変わる彼女を見ているのはやはり面白い。

「カカシって、ああ言えばこう言うっていうか、口が達者だよね」
「そう?褒め言葉として受け止めておくよ」

ようやく捻り出した彼女の皮肉の上に更に皮肉を乗せて返す。チフユは何か言いたげな目をオレに向けていたが、これ以上反論しても無駄だと思ったのだろう、視線をゆっくり住宅街へと移した。
チフユがオレを見ていない隙にと口布を下げて、まだ湯気の立つマグカップに口をつける。鼻に入り込むのはやはり甘ったるい香りだが、お湯割にしたお陰か、味はさほど甘くはなかった。

食道に流れ込んだアルコールがじん、と胃に広がり、冷えた身体を程よく温めてくれる。意外と梅酒もいけるかもなぁ。思わずそんな言葉が口から漏れそうになったが、あれだけ梅酒を貶したオレがここでそんな事言ってしまえばチフユの癪に障ると思い、ぐっと堪えた。
チフユに視線を向ければ、彼女はマグカップを両手で包むように持ち、どこか遠くの方を見つめていた。悩ましげなその表情は以前、この場所で見た時と同じ横顔だった。
ーーチフユはまた何か、思い悩んでいるのだろうか。

「何かあったの?」
「…え?」
「チフユが誘うなんて珍しいから」

本当にそうだった。控えめで真面目なチフユがこんな時間にオレを誘うなんて滅多にない。オレの問い掛けに動揺し、揺れ動く彼女の瞳を見て、確信に変わり始める。これは確実に何かあった。
チフユは口を開いたり閉じたりを繰り返して未だオレに悩みを打ち明けることを躊躇っているようだ。今なんて、気休めにマグカップから立ち上る湯気にふぅと息を吹きかけている。
優柔不断で煮え切らないチフユの性格は長年培ってきたものなのだろう。大人になった今、その短所を直すことは難しい。だったら相手が受け入れるべきだと思い、唇を固く閉じる彼女に言葉を掛けた。

「言ってみれば?言ってしまえば案外と小さな悩みかもよ?この前みたいに」

もしかしたらチフユの中にある悩みは他人からしてみれば、ちっぽけな悩みかもしれない。伝えるようにチフユの目を見ると、チフユはオレからの視線を逸らし、空を見上げて目を閉じた。すぅ、と息を吸う彼女の呼吸音が微かに聞こえる。

「父から手紙が届いたの。今度三人で会おうって。父は嫌いだし顔なんて見たくもない。けど、久しぶりに家族みんなで会えると思うと嬉しくなる自分もいて」

辿々しいが、ゆっくりと話すチフユの言葉は十分に理解できた。要するにチフユは家族を心の底から毛嫌いしているわけではないらしい。『嬉しくなる自分もいて』その言葉で最初から彼女の答えは出ていた。きっと悲しく苦しい家族との思い出よりもキラキラと煌めく思い出の方が強く残っているのだろう。オレが助言の言葉を述べるまでもない。

「いいんじゃない?嬉しくなっても。というか、嬉しいって思うって事はまた家族に戻りたいって事なんじゃないの」

チフユは、はっと息を呑むとオレの顔を覗き込んだ。月明かりに照らされた彼女の頬はアルコールのせいか僅かに赤い。チフユは思い当たる節があるのか、オレの顔から手に持つマグカップに目線を落とすと小さく頷いて「そうなのかも」と呟いた。

「…本当はまたあの頃のように戻りたいのかも」

消え入りそうなくらい小さな声を漏らすチフユは、どうやらオレの言葉に納得してくれたみたいだった。
晴れ渡ってゆく彼女の横顔を見て、少しだけ、チフユが羨ましく思う自分がいた。チフユの両親はちゃんと生きている。例え両親との間にある溝は深くても、この世にちゃんと存在しているわけで、強く変えたいと気持ちがあれば、いつだって変えることが出来る。
チフユは知らない。誰かを失うことの怖さを。辛さを。

「ぶつける相手がまだ生きているんだからどうにでもなるでしょ。…死んだら終わりだよ。いなくなってからこうしてあげれば良かった。ああ言ってあげれば良かった。そんなこと、後悔しても相手がいないのだから仕方ないのにね」

チフユに言ったつもりが、いつの間にか自分へ当て付けのような言葉になってしまい、思わず自嘲する。両手で包むマグカップの熱がオレの冷えた手により徐々に冷めてゆく。早く飲まないと。そう思うが、突かれたように痛む胸が苦しくて手が動かない。
薄い壁を挟んだ隣にいるチフユからの返答はまだない。少し、強く言い過ぎただろうか。忘れかけていたが、チフユは一般人だ。常に生と死が隣り合わせの忍とは違う。それなのに自身の考えを彼女に強要することは間違っていた。咄嗟に謝ろうと口を開いたが、先にチフユが発した言葉により、開いた唇は閉ざしてしまった。

「後悔しないように生きるにはどうすれば良いのかな」

ぽつりと呟いたチフユの質問はかつて、オレがミナト先生に聞きたかった言葉だった。父さんが死んで、目に映る全てのものが灰色に染まった時、眩しいくらいの黄金色の髪を持った先生だけがオレにそっと寄り添ってくれた。けどオレは先生の優しさを疎ましく思い、拒んでしまった。忍たるとも常に強さを持たなくてはいけない。自ら命を絶った父のような弱い人間にはなりたくなかった。
しかし、こんなオレに厳しさと優しさを教え、教鞭を執ってくれた先生も、もうこの世にはいない。ホントはミナト先生に聞きたいこと、言いたいことがたくさんあったのにーー。
ほらこうして自分にはみっともないくらいの後悔ばかりがまとわり付く。
だからこそチフユには辛い気持ちを味わって欲しくなかった。後悔をすることのない、真っ直ぐな彼女のままでいて欲しかった。
オレは、答えを待っている彼女になるべく暗い顔をせぬよう、目を細めて笑みを向けた。

「オレだって、そんなの分からない。でも、分かるのはチフユの両親は生きているんだから自分の力で変えられる可能性は十分にあるってことでしょ」

チフユはオレの言葉に一瞬だけ目を見開くと空を見上げた。オレも釣られて夜空を仰ぐと、宵の空には幾つも浮かぶ、名も分からぬ星座達が揺れ光っていた。見上げながら、冷め切ってしまった梅酒をぐっと飲み干すとジワリと身体に溶け込むように染み渡った。

「カカシ、ありがとう。私、頑張ってみる」
「まぁ、気負いしない程度に頑張ってね」

チフユのやる気に水を差すつもりはなかったのだが、つい彼女の前だと素直になれない。隣にいる彼女の横顔を窺えば、チフユは悩みが解決し、嬉々とした表情を浮かべていた。
その瞳の中にはあちこちに灯る、住宅の明かりが映っている。汚れを知らないその目を見て、やはりチフユには悲しい思いをせず、真っ直ぐに生きて欲しいと願ってしまう。

ホント、勝手だよね。オレって。

ふいに聞き慣れた声で歌う、あの曲が夜風と共にオレを包み込んだ。驚いて声の主に話し掛けると、彼女はふっとオレに微笑んだ。

「カカシもよく口ずさんでるよね」
「…聞こえてたの?」
「もちろん」

はっきりと答えるチフユに一気に羞恥に駆られる。まさか、オレの鼻歌をチフユに聞かれていたなんて。

「たまにカカシの部屋から聞こえてきたんだ。この曲、結構昔の曲だよね?私も好きだったから覚えてるの」
「…へぇ、そう」

弾む声で話すチフユの言葉が全然耳に入ってこない。そんなことよりも、オレの鼻歌をいつ聞いていたのか。たまにって言うことは一回聞いただけじゃなかったのか。穴があったら入りたいとはよく言うが、今まさにこの状況にぴったしの言葉だ。
とりあえず気持ちを落ち着かせて気付かれぬよう息を吐くと、未だ楽しそうに口ずさむチフユに話し掛けた。

「よく父親が鼻歌で歌っていた曲だから自然と口に出るのかも」

この曲は物心つく前から父さんが歌ってくれていた曲だった。母がいなく、寂しい日もあった。夜が怖くて眠れない日もあった。その度に父さんは決まって、語り掛けるようにあの優しい歌声でオレに歌ってくれた。この曲は唯一、オレと父さんのかけがえのない思い出で、宝物だった。

「カカシのお父さんもやっぱりカカシと同じく忍をしているの?」
「父さんは忍だったけど、死んだよ」

チフユの質問は今まで幾度となく色んな人から訊ねられて来たものだった。オレにとってはもう過去のことだし、父がいないことは普通のことだった。
オレの返答に黙り込んでしまうチフユは大方、気遣うことなく父の事を問うてしまった自分を悔いているのだろう。案の定、小さく「ごめん」と謝る声が微かに聞こえて、やっぱりなと心の中で呟いた。

「聞かれるの嫌だったよね」
「別に。慣れてるし」
「…そっか」

当たり前の事を当たり前の言葉で返しただけだ。それなのにチフユは明らかに落ち込んでいる。ふと住宅街に目をやれば、家々の照明の明かりが徐々に消えてゆくのが見えた。そろそろ世が寝静まる時間帯だ。酒を飲んでせっかく温まった身体が冷えてしまうのも嫌だし、切り上げる言葉を掛けようと口を開いた。しかし、ふたたび耳に入る歌声で開いた唇は噤むしかなかった。

寒空の下で聞こえるのは陽だまりのような歌声。頭の中で忘れかけていた父さんとの記憶がゆっくりと鮮明に蘇ってゆく。オレは目を閉じて、胸の中で父さんとの想い出を馳せた。
憧れだった広い背中。笑った時に刻まれる深い皺。ゴツゴツとした大きな手のひら。白い牙と言われ、オレの誇りだった父さん。最後に目にした姿は残酷なものだったけど、チフユと同じく、キラキラとした家族との思い出の方が強く残っている。

大丈夫。オレのなかでちゃんと父さんは生きている。

変わらず外は寒い。しかしチフユの温かい声を耳にしてじわりと心の奥から暖色に染まってゆく。忍と一般人。目に見えない線引きもなく、初めて彼女と同じ世界にいられた気がした。

真上に浮かぶ月はオレたちと、目の前の家々とを等しく眩しく照らし出していた。白く光を放つあの月はまるでこの里を愛していた父のよう。オレは月を見上げて深く強く願った。見守っていて、離れないで、と。


喪失の痛み





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