チフユさんの瞳がオレに向けられている。相変わらず真っ直ぐ射抜くような彼女の目に耐えきれず、オレは視線を逸らし、彼女に背を向けた。

「なんだよお前」

パッと掴んでいた男の手首を離した早々、男は声を荒げてオレに悪態を吐いた。男の目は明らかに動揺している。それもそのはずだ。急に目の前にオレが現れたのだから。
しばらくして男はようやく状況が飲み込めたのか、ふっと嘲笑うような笑みをオレに向けると口を開いた。

「聞いたぞ。お前、えんどうと付き合っていないんだろ。…そうだろ?なあ?」

男は彼女に同意を求めるように問い掛けた。いや、問い掛けというよりか、男の強い口調は明らかに彼女が首を縦に振るように強要している。現に、男の声を聞いて背中越しにいる彼女の肩が怯えたように微かに揺れた。
男は煮え切らない逡巡した彼女の態度に苛立ったのかオレの後ろにいる彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。
ーー懲りないねぇ、まったく。すかさず彼女に触れようとした男の右手を自身の右手で掴み、制した。

「…そうだね。嘘をついた事はあやまる。でも、女性に手を上げるのは良くないってことくらい馬鹿でも分かるでしょ」

ありったけの皮肉を込めて男に言い放つと同時に男の手首を掴む手を先程よりも力を込めた。男の顔が苦痛を伴うように歪む。痛さに耐えきれなくなったのか、バッと思い切りオレの手を振り払うと、鋭い眼光をオレに向けた。

「忍が一般人傷付けていいのかよ」

ぼそっと呟くように放った男の言葉は間違ってなどいない。里を守り一般市民を守るために忍が存在するわけで、オレ達忍が一般人を傷付けるなんて御法度だった。
黙り込むオレを察してか、チフユさんは息を大きく吸い込むと男に反論の言葉を掛ける様子だった。火に油を注ごうとする彼女に慌ててオレは遮るよう、言葉を被せた。

「それは「お前の言う通り忍は一般人を傷付けてはいけない」

オレの言葉に男はギッと変わらず鋭い目で睨み付ける。オレはわざとらしく溜息を男に向けて吐くと、大きく息を吸った。

「でも、一般人である彼女も同じであるように傷付けたら許さない」
「それでも気に食わないのなら何とでも言えばいい」

冷えて澄んだ夜の空気にオレの言葉が響き渡った。男の様子を窺えば、先程の鋭い目付きとは打って変わって焦りと恐怖が入り混じったように瞳が揺れている。

「…それでいいんだな。覚えてろよ」

怯えたような声色でその言葉を吐き捨てると男は背を向けて走り去っていった。前にも思ったが、虚勢ばかり張る小さな男だ。オレがそんな言葉で臆するわけがないのに。
不意にびゅうと冷たい風が体を吹き抜け、寒さで身震いした。これ以上この場にいたら風邪でも引いてしまいそうだ。そう思ったオレは足を踏み出して歩き出した。

しかし歩き始めても彼女が着いてくる気配はない。どうしたものかと怪訝に思い、振り返ってみれば明らかに落ち込んで俯いているチフユさんの姿が見えた。まったく、何やってんのよ。呆れながら大きな嘆息を漏らして、来た道をゆっくり引き返す。

「何してんの、帰るよ」

彼女ははっとした顔でオレを見上げて、戸惑った目で見つめながらも小さく頷いた。
オレは彼女に背を向けて歩き出す。背後から微かに鳴り響く足音を耳にして今度はちゃんと着いてきているなとほっと胸を撫で下ろした。

アパートに向かうまでの間、なんとなく彼女がオレに話し掛けようとしていたことに気付いていた。けど、こっちから聞き返そうとも彼女の怯えた顔を見ればたちまち居心地が悪くなり、開いたオレの口は閉ざしてしまった。

彼女の部屋の前に着いて、ちゃんと無事に自室に入っていくか念のため見届ける。チフユさんは相変わらず何か言いたげな目をオレに向けている。オレは腕を組み、早く部屋に入るよう彼女に目で訴えた。
しかし彼女は部屋に入ろうとせず、意を決したようにぐっとオレに顔を向けると「あの」と声を掛けた。

「…本当にごめんなさい。それと、ありがとうございました」

一息で言い放つとチフユさんは逃げるように自室の扉を開けると、入って行ってしまった。

なにそれ。言い逃げ?

ポツンと廊下に取り残されたオレはしばらくその場に突っ立ったまま彼女の言葉の意味を考えた。『ごめん』と『ありがとう』。それは恐らく彼女なりの精一杯の謝罪と感謝の言葉なのだろう。形はどうであれ、チフユさんがまたオレを受け入れてくれた事実は変わらない。そう捉えれば、ほっとした気持ちになり、同時に嬉しさが込み上げた。
気持ちを抑えつつ、ポケットに入れておいた部屋の鍵を取り出してドアノブに差し込み回すと、扉を開ける。
部屋に入るなり夜の静けさも相まって、より一層、冷えた空気を引き立てていた。それはまるで自分自身が消えてしまうのではないか、一人この世に取り残されてしまうのではないか。そんな思想が頭によぎったが、もう頼る者もいなく、一人で生きることを決めたオレには無駄な事だと頭から振り払った。

照明の明かりをつけて、とりあえずソファに腰を沈める。変わらず部屋の空気は冷たい。ましてや体を動かさず、じっとしているとさらに寒さを煽らせた。何か温かい物でも飲んで暖を取ろうかと座ったばかりのソファから立ち上がり、台所まで向かった。
冷蔵庫の扉を開けて、牛乳パックを取り出す。昨日買ってきたばかりだったので、中身は十分に入っていた。温めようと小鍋に注いでいる途中、隣の部屋からシャワーを浴びているような音が耳に入った。

ーー彼女も飲むだろうか?

本当に何気なく思っただけで、そこに深い意味などない。ただ彼女とまたもう一度話してみたい気になった、だけだ。

とりあえず予備として置いてあった紺色のマグカップを自分用のマグカップの隣に並べたあと、二人分の容量を小鍋に牛乳を注いで火にかけた。カチカチと小さな音を立ててガスコンロの火をつければ直ぐにボッと青い炎が鍋の底を絡めるように燃えた。
じっと牛乳が温まるまでその場に立ちながら待つ。その間も彼女になんて声を掛けようか、どうやって誘おうかと考えてみるが、なかなか良い案が思いつかない。
そうこうしている内に彼女の部屋からシャワーの音が止まり、廊下を歩く音が耳に入った。


湯気立つ牛乳が鍋の縁でふつふつと小さな泡を作り、音を立てている。沸騰する前に火を止めて色違いの二つのマグカップに牛乳を注ぐと、ふわっと牛乳独特の香りが鼻を掠めた。…とりあえず準備はしてみたが、どうしたものか。隣の部屋の物音に耳を傾けてみるが、何も聞こえず無音だった。
ーーもしかして寝ちゃった?

いや、まだ寝るわけないよね。気持ちを落ち着かせて、彼女に声を掛けるとしたらもうこれしかないと、自室と隣の部屋を隔てる薄い壁に右手で二回、ノックをした。

「…起きてる?」

すかさずノック音の後に続く言葉を目の前の壁に投げ掛ければ微かに「起きてます」と返事が聞こえた。その声を聞いて、ほっと安心する。

「ベランダに出てこれる?」

さすがに自分の部屋に誘うのもいかがなものかと思ったので、当たり障りのない場所、ベランダへと誘った。彼女はどう思っただろうか?迷惑だと思っただろうか?不安と焦りが交わり合う。

「はい」

返事を聞くなり安堵の息を吐いた。オレは調理台の上に置いてあるまだ湯気の立つ二つのマグカップを手に持ってベランダまで向かった。両手が塞がれていたので無作法だが、肘でサッシ窓を引くと冷たい夜風が一瞬にして部屋に吹き込んだ。
さむっ、思わず呟いてベランダ用のサンダルに履き替える。裸足で冷えたサンダルを履いたものだから更に足の指先を悴ませた。
こんな寒空の下に呼び出して悪いことしちゃったかなぁ。彼女に対して罪悪感が生まれたが、誘ってしまったのだからもう遅いと自分に言い聞かせた。

隣の部屋と自室のベランダを隔てる薄い壁まで歩み寄り、彼女が来るのを待つ。隣の部屋からガラガラとサッシ窓を引く音が聞こえて、すぐにこちらまで向かってくる足音が耳に入った。オレは塀にもたれ掛かり、少しだけ身を乗り出して彼女の様子を窺う。
チフユさんは薄い部屋着の上に大きめの厚手のブランケットを羽織っており、濡れた髪からは微かに石鹸の香りが風に流れて、オレの鼻腔を擽った。
彼女もオレの存在に気付いたのか「あ、」と驚いたように小さく呟くと、頭を少しだけ下げて会釈をした。

「はい、どうぞ」

すぐ側まで寄って来たチフユさんに先程温めたばかりのホットミルクが入ったマグカップを渡す。彼女は目を見開いてオレの顔とマグカップを交互に見やると、小さく頷いて、そっと受け取った。

「…ありがとうございます」
「いえいえ」

この暗闇では顔を見られないだろうと、オレは口布を下げてマグカップに口をつけた。冷えた体に温かい液体が喉に流れ、じんわりと染み渡るように体が温まる。やっぱり温かい飲み物を飲んで正解だったな。夜空を見上げると宵の星は揺れるように輝き、今にも流れ落ちていきそうだった。

「あの、今日は本当にすみませんでした」

ゆっくり視線を星空からチフユさんに向ける。彼女は先程と同様、肩を落として俯いていた。

「…それ、さっきも聞いた。まあ、さっきは言い逃げみたいな感じだったけどね」

なるべく怖がらせないように言ったつもりなのだが、彼女の前だとどうしても刺々しい物言いになってしまう。しかし彼女はオレの放った言葉を気にする素振りはなく、柔そうな薄い唇でオレの渡したマグカップに口を付けた。コクン、喉を鳴らして液体を飲み込む音が微かに聞こえた。

「…紅とアスマ、チフユさんの事すごく心配してるよ」

昼間と違って色香を纏う雰囲気の彼女を見て勝手に気まずくなったオレは唐突な言葉をチフユさんに投げた。彼女の瞳が大きく揺れる。明らかに動揺していているのが見て取れた。
だが、紅とアスマがチフユさんを心配していることは事実だった。この間も待機所でチフユさんを案ずる会話を耳にしたし。…まあ、今のところアスマはオレに怒っているみたいだから会話には参加しなかったけど。

彼女は変わらず目を丸く見開いてこちらを凝視するようにじっと見つめている。しかしすぐに眉を下げて悲しい表情を浮かべると、上げた頭は再び下げて俯いてしまった。
ーーえ、オレ、なんかまずい事言っちゃった?焦る気持ちが押し寄せたが、うんともすんとも口にしない彼女の憂いに満ちた横顔を見て、チフユさんの心には何か人には言えない秘密を抱えているのではないかと察した。
…思えば、初めて出会った時もそうだった。彼女の真っ直ぐなその瞳の奥には暗闇が見え隠れしていた。

「何をそんな必死になって隠してるの?」

気付けば口が勝手に動いていた。気まずさを隠すようにオレは住宅街に目を向ける。一つ、家の照明の明かりが消えるのが見えた。

「チフユさんがそんな感じだと、余計に傷付ける事になるけど」

追い討ちを掛けるように放った声は自分でも驚くほど冷たかった。けど、彼女に掛けた言葉に後悔はない。現に、彼女がそうやって意固地になり、黙り込んでいる姿を見て、そうさせてしまったのは自分のせいではないかと焦る自分がいた。そうやって言いたいことを言わずにいるのは自分に良くないが、相手にも良くない。
ーーいっそのこと、吐き出してしまえば楽になるのに。例えば何の関わりもない、赤の他人である隣人のオレに彼女の胸にある燻った思いを打ち明けてくれれば、軽くさせることができるのに。

彼女は真っ直ぐ夜の住宅街に目を向けていた。そして、すぅと息を大きく吸い込むと、白い息と共に言葉を吐き出した。


「私の父、浮気して出て行ったんです」


はっきりと、けど、どこか震える声で発した彼女の言葉は、自分が想像していたものとは全然違ったものだったので、思わず肩透かしを食らった。それをずっと悩んでたの?まるでこの世でも終わってしまいそうな顔で。チフユさんが浮気をしたわけではないのに。

「それで?」
「え?」

返ってきたオレの言葉が気に食わなかったのか、彼女は眉を潜めてオレを見る。構わずオレは言葉を続けた。

「だって、浮気をしたのはチフユさんではなく、お父さんだよね。チフユさんはチフユさんでしょ。お父さんとは違うよ」

まあ、オレが言うのもなんだけど。小さく付け足した最後の言葉は出来れば彼女に言いたくなかった言葉で、オレはごまかすように「まあとにかく、そう思わない?」と笑い掛けた。

目を丸く見開いてオレを見つめる彼女の黒目は変わらず穢れを知らない綺麗な瞳だった。それは、薄汚れたオレなんて映してはいけないくらい。

「そう考えてもいいの?」
「いいんだよ、それで」

今もなお、問い掛ける彼女に痺れを切らして、はっきりと答えた。チフユさんは繊細な心を持った人間だ。悪く言えば弱い心を持った人間とも言える。チフユさんはオレ達、忍の中には滅多にいない特殊な人間だった。一般人だからだろうか。感受性が豊かな彼女と話すと新鮮な気持ちになり、なにより面白い。紅がチフユさんを気に入っている気持ちがなんとなく分かった気がした。

「ひょっとして紅にもそれが言えなくて悩んでたの?」

紅の名を思い出して彼女に問い掛ければ、チフユさんは罰が悪い顔をして頷いた。些細なことで悩んでいる彼女をあれだけ心配している紅の気持ちを考えると、紅が居た堪れなく思い、つい溜息を吐いてしまった。

「それなら尚更、紅に言った方がいいよ」
「そうですけど、なかなか言えなくて」

なかなか決断出来ない歯切れの悪い彼女の言葉に段々と苛立ちを覚える。…こりゃあ、誰かが背中を押してやらないといつまで経っても何も変わらないままだな。

「じゃあ、明日夜の7時にこの前の居酒屋集合ね。紅達にはオレが伝えておくから」

唐突なオレの提案に彼女は「えっ」と驚くと、明らかに嫌そうな顔をオレに向けた。

「こうして場を設けないとチフユさんの性格上、言わないで終わるでしょ」

はっきり言い退けて、彼女の有無も聞かずに「じゃあよろしくね、おやすみ」と口にするとオレは彼女をベランダに残したまま、その場を後にした。

部屋に戻り、コトンと空になったマグカップをテーブルに置く。
ーー明日の夜7時。居酒屋集合。
しばらく考えて、はっとする。明日は非番なのでオレは心配ないが、アスマと紅とは気まずい関係のままなんだっけ。後悔しても時すでに遅し。いまさらチフユさんにさっきの話を無かった事にしてくれと言っても格好がつかない。

こりゃ、マズイな。

はあ、今日一番の盛大な溜息を吐いて、明日はどうやってアスマ達を誘い出そうか、そんなことばかりを考えた。


駆ける義勇(ぎゆう)





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