「おはよう」 出勤してから初めて挨拶をしたのは少し、いや、かなり気まずい同僚だった。 隣の席に座る同僚は私の声に過敏に反応して大きく肩が揺れたあと、一切目を合わせずにわざとらしく書類を眺めていた。おはよう、もう一度声を掛ければ同僚の口からは耳を澄まさないと聞き取れないくらい小さな挨拶が返ってきた。 その態度はなんとなく何かに怯えているようであったが、恐らくそれは昨夜はたけさんに強く言われたからであろう。 同僚には悪いが、私は良かったと心から思った。 本当は昨夜、同僚が去り際に口にした覚えてろの言葉がずっと気掛かりであったから。今の様子からすれば、それはやはり口だけだったようだ。 確かにあんな顔で言われたら怖くて堪らないだろう。昨夜のはたけさんを思い出して妙に納得した。 何はともあれ同僚はこれ以上、私に声を掛けてくる事もなく、はたけさんにも迷惑かける事もないと判断して良いだろう。私はほっと一息吐いて先ほど淹れたコーヒーを飲み込んだ。 ーー今日こそは紅達にちゃんと話さないと。 よし、と自分に気合いと喝を入れて仕事に取り掛かった。 *** 「久しぶり、チフユ。心配してたのよ。大丈夫なの?」 仕事を早く終わらせて誰よりも早く集合場所に着くはずが、すでに紅が先に来て席を取っておいてくれていた。紅は私の顔を見るなり心配する言葉を掛ける。憂わしげな表情で私を見る紅に改めて悪かったなと罪悪感が募った。 「ごめんね、心配かけて。でも、私は大丈夫だよ」 これ以上、心配を掛けぬよう元気になったよと一言付け足すと初めは疑い深い表情をしていた紅だったが、私の元気な姿を見て安心したのかようやく笑ってくれた。久しぶりに見た紅の笑顔は相変わらず美しく華やかで綺麗だなぁとしみじみ思った。 「よお、チフユ。久しぶりだな」 大きな声で私の名が呼ばれて驚きながら声の主を見るとそこにはアスマの姿があった。アスマとはあの日しか話した事がなかったので少し緊張する。 「この前は急に出て行ってしまい、すみませんでした」 「相変わらず他人行儀だな。別に気にしてねぇし。むしろ敬語の方が気になる」 煙草を口に加えてライターで火をつけるアスマは相変わらず他人行儀の余所余所しい関係は嫌いなようだった。恐らく酒を飲む場で敬語を使うなど相応しくないと言いたいのだろう。なんとなく理解できた私は敬語をやめる事に努めた。 「…じゃあ、改めてよろしくね。アスマ」 「おう」 よろしくな。にっと笑うアスマの目尻には笑い皺が出来ていた。きっと、今までたくさん笑ってきた人なのだろう。失礼だけどその笑い皺がアスマにすごく似合っていると思った。 ちら、と紅の方に目をやれば紅は何か言いたげな顔でこちらを見ている。 「紅、どうしたの?」 「あのね、チフユには報告することがあって」 本当はこの前言うつもりだったのだけど、言いづらそうに紅は私の目を逸らしてテーブルの上に置いた自身の手に視線を移した。いつもならはっきり物を言う紅の煮え切らない様子に心配する。どうしたんだろう?何かあった? アスマに視線を送るとアスマはしょうがねーな、とため息交じりに言い、加えていた煙草を灰皿に落とした。 「…俺たち付き合ってるんだ」 「、え!」 アスマの言葉に驚嘆の声を上げてしまった。アスマの横に座る紅の顔は益々赤らめていき、俯いて小さく頷いた。 「つい最近の事なの」 ポツリ、恥ずかしそうにそう口にした紅は幸せそうに微笑んだ。目の前でアスマと二人並んで座る姿は本当にお似合いで幸せそうで。頬を赤らめている紅はいつもの大人びた感じではなく恋を知った少女のように可愛いかった。 そうか、そうなんだ。良かったね、紅が幸せそうで本当に良かった。私は興奮気味に何度もそう口にすると紅はありがとうと照れながら笑った。 「ホント、よく高嶺の花を落とせたよね、アスマ」 突然、頭上から声が聞こえて見上げればそこには意地悪く笑っているはたけさんが立っていた。私達を見下ろし此方を一瞥した後、彼は驚いている私達を見てなんとなく楽しんでいるようだった。 「いつからいたんだよ、お前…」 「2、3分前から」 あっけらかんとした態度で言い退けるとはたけさんは空いていた私の隣の席に座った。チフユさんはともかく、忍として注意力欠けてるんじゃないの?お二人さん。言いながら、はたけさんは愛想もなく早々とメニュー表を開いて眺めた。 「オレ、とりあえずビールで」 「お前なぁ、遅れてきて一言謝るとかないわけ?」 アスマが呆れた物言いではたけさんを見ると彼は気にしない素振りで壁の張り紙に秋刀魚の塩焼きと書かれている文字を見て、それもいいなぁと独り言を零していた。 「まぁ、みんな揃ったし、とりあえずビールにしましょう」 紅は店員を呼び、とりあえずビール4人分を注文した。注文をした後はしばらく手持ち無沙汰になる訳で、私はアルコールが入らない内にと話を切り出した。 「あの、私、みんなに言わなくちゃいけない事があって」 急に話し出した私に三人の視線が集中する。そういえば私以外の人は皆、忍だ。場違いじゃないかな、私。今更そんな事を思い、開きかけた唇は再び閉ざしてしまった。 「話があるんでしょ」 はたけさんは横にいる私を見て声を掛けた。ほら、言わないと。そう後押しするように聞こえたのはこの場を設けてくれたのがはたけさんだから、きっと責任があるのだろう。 私は昨夜言われたはたけさんの言葉を思い出した。私は私。忍だって一般人だって変わらない。私が好きなのはこの人達だから。 「実は私の父、浮気して出て行ったの。その事をこの前話そうとしたんだけど話せなくて‥‥話して嫌われるのが怖かったの」 一息で言い切った。未だ心臓が鳴り止まなくて私は紅とアスマの顔を見れなかった。どうしよう。嫌われたら。そんな事ばかり頭の中で並べていた。 「嫌いになんてなるわけないじゃない」 沈黙を破ったのは紅だった。恐る恐る紅とアスマの顔を見れば二人とも情に満ちた優しい目でこちらを見ている。私はそれを見て意表を突かれた気持ちになった。てっきり軽蔑されると思っていたのに現実は違っていた。…全て、はたけさんの言う通りだった。 「言いづらかったわよね?気が付かなくてごめね、チフユ」 「そんな事でチフユを嫌いになったりするわけねーだろ」 二人に優しい言葉を掛けられ、涙が溢れそうになってしまう。憐む事も蔑む事もない二人の言葉を聞いて、この人達を一生大切にしようと心の底から思った。いよいよ涙が出てきそうだと思った矢先、丁度いいタイミングで店員が注文していたビールを持ってきた。私は、ほっとしてビールを受け取る。 「じゃあ、乾杯しましょうか」 「何に?」 「もちろん、これからの私達の友情のために」 「ガイみたいな事言わないでよ」 紅の言葉にうんざりした様子ではたけさんは溜息を吐いた。ガイ?初めて聞いた名前に思わずその名が唇から漏れた。私の呟きを聞き漏らさなかったアスマはカカシの永遠のライバルだと教えて、からかうように笑った。 「あのねぇ、向こうが勝手に言ってるだけでしょうが「はいはい、じゃあいくわよ。乾杯の音頭はアスマにお願いするわね」 はたけさんの言葉を遮り、紅は各個人のビールが入ったジョッキを持つように促した。私も慌ててジョッキを持ち直した。はたけさんは腑に落ちない様子だったが反論するのを諦めたらしく渋々ジョッキを片手に持った。 コホン、一つ咳払いをしたアスマが煙草を加えながら器用に口を開き、ジョッキを高く掲げた。 「じゃあ、俺達の友情に乾杯!」 乾杯! カチン、乾杯の声と共にガラス同士がぶつかり合い鳴り響いた音で活気溢れた店内がさらに賑やかになった。 私達はお互いの顔を見合い、初めて笑った。 『ほら、大丈夫だったでしょ』 二人に聞こえないように耳元で囁いたはたけさんは全てお見通しだと言わんばかりの表情をしている。もしかして、はたけさんはこうなる事が最初から分かってたのだろうか。 『そうですね。はたけさんの言う通りでした』 はたけさんの真似をして囁くと彼は当たり前でしょと冗談気味に笑う。へぇ、はたけさんも冗談言うんだ。初めてはたけさんの口から冗談を聞いて驚いていると、目を丸くしている私を見て不思議に思ったのか何?と彼は訝しげに訊ねた。覗かせた右目は私を捕らえ、たちまち不機嫌なはたけさんに変わる。 「別になんでもないです」 「何よ、それ」 面白い物を見たかの様に笑う私にはたけさんは益々不機嫌になったが、未だけらけら笑い続けている私にこれ以上問う事は不毛だと悟って一つ嘆息を漏らした。そして、壁の張り紙に視線を移してじっと何かを見ている。彼の視線の先を追いかければそこには『秋刀魚の塩焼き』の文字。そんなに好きなのだろうか。 「初めてチフユさんの笑う顔を見た」 「え?」 はたけさんの口から出た言葉は見つめていた料理名ではなく私の名だった。私、はたけさんの前で笑った事なかっただろうか。アルコールのせいか頭が上手く働かない私はちらりと横にいる彼の顔を覗いた。彼は壁から私に視線を移し、彼こそ見たことのない優しい笑みを浮かべている。 「良かったね」 表情を崩さず私に優しい言葉を掛ける。いつもは冷たい物言いなのに今日はどうしたものなのか訳が分からない。きっとアルコールのせいだ。そう言い聞かせ、私は頷き、苦いビールを流し込んだ。 *** どれくらい時が経ったのだろう。日付を跨ぎ深夜2時頃といったところか。私達はあれからお互いを語り合い、たくさん笑った。楽しい時間はあっという間に過ぎ、そろそろ帰るかと切り出したのはアスマだった。 名残惜しい気持ちの私を察した紅は次もまたみんなで集まりましょうと言ってくれた。 『次もまた』こんな嬉しい言葉、この世にあったのか。とても嬉しくなって紅の言葉に強く頷いた。 「じゃあな、チフユ。おい、カカシ。ちゃんと送ってやれよ」 「送るも何も隣の部屋だからね」 「お、そうだったな」 はたけさんの皮肉めいた言葉にアスマは酔っているのか気付かず、じゃあな。と別れの挨拶をした。紅も小さく手を振ってから背中を向けるとアスマと肩を並べて去って行く。私は二人の背中をしばらく見つめて、二人の幸せが永遠に続きますように。と強く願った。大切な人達だからこそ、ずっと笑っていて欲しい。単純だけど心の底から強く思った。 「何してんの、帰るよ」 はたけさんの声にはっとする。そういえば、以前も同じこと言われたなぁ。慌ててはたけさんの背中を追った。 前回は気まずい雰囲気だったので彼の後ろを歩いていたが、今日は大丈夫だと思い、隣について歩いてみた。はたけさんは気にする様子もなく、ただ前を向いて歩いている。 寝静まった住宅街は音一つもなく静寂だった。こんな時間に外で歩くのは初めてだったので少しだけ怖くなり、無意識に隣にいるはたけさんとの距離を詰めてしまう。すると、先程まで一緒にいたアスマの煙草の匂いが鼻腔をくすぐった。恐らく、はたけさんのベストについてしまったのだろう。私はその匂いを嗅いで、先程までの楽しかった記憶を辿り、余韻に浸った。 「チフユさん、」 「歩きづらかったですよね、すみません!」 距離を詰めたことで歩きづらいと咎められるかと思い、急いではたけさんとの距離を取った。恐る恐る表情を伺うが、相変わらずその顔は半分以上隠れていて、唯一覗かせた右目は怒っているのかも笑っているのかも判別出来ないでいた。 「敬語、使わなくていいよ」 出てきた言葉は予想していたものとは全然違うもので、その言葉を理解するのに少し時間を要した。はたけさんはうんともすんとも言わない私を見て何度目かの溜息を吐く。だから、と億劫そうに言葉を続ける。 「オレだけさん付けで敬語だと疎外感があるよ」 ああ、そう言うことか。私は居酒屋での会話を思い出す。確かにアスマと紅には敬語ではなく溜め口で話をしていた。紅とは三人の中で一番親しかったので溜め口なのは当たり前だ。しかし、アスマに関しては半ば強制的に溜め口で話すように促された。最初は慣れなかったが、そのお陰もあって、はたけさんよりアスマの方が話しやすかった。 「はたけさんはそう言うの気にしない人だと思いました」 「あのねぇ、オレだってそういうの気にするからね」 一応、オレの方が先に出会ってたんだし。言葉を付け足したはたけさんの耳は、ほんのりと赤い。そうさせたのは寒さの所為なのかアルコールの所為なのか。今日のはたけさんはいつもより正直者だ。変なの。出しかけた言葉は絶対怒られると予想したので、慌てて口を閉じた。 「あの、本当にいいんですか?」 「いいも何も良いって言ってるでしょ」 「なんとなく、はたけさんは私を助けてくれた恩人だったので溜め口や呼び捨てだとおこがましいかと思って…」 何言ってんの。彼の右目がより一層細められてそう言っている気がした。私にとって、はたけさんは恩人でもあり、人生を導いてくれた人だ。全部見透かし、先のことを考えて行動が出来る人。言葉には上手く表せないが、本当に凄い人だと思っていた。彼みたいな人が職場の上司だったら、と何度思っただろうか。 「ほら、早く」 急かすようにはたけさんは私を煽った。恐らく煮え切らない態度を取っている私が苛立ったのだろう。怒っている様なその目は私の目を捕らえ、離さない。そんな怖い目をされたら従うしかないじゃないか。私は観念してようやく重い口を開いた。 「か、カカシ、今日はありがとう」 寒空の下、ぎこちない言葉と共に吐いた白い息は私の鼻先を撫でて消えてゆく。彼は私の言葉を返す事もなく歩いていたのをやめて立ち止まった。 どうしたのかな?しばらくの沈黙が暗い夜に溶けてしまいそうで怖くなり、隣にいる背が高い彼の顔を見上げた。 「え、」 見上げた先にある顔、というか耳は先程よりも赤くて、いよいよ心配になり、声を掛けようとした。 「…言えたじゃないの。チフユ」 ポツリ、彼の唇から漏れたのは私の名前で、初めて呼び捨てで呼ばれたのだと気付く。慣れない呼び方が余計に照れ臭さを煽るので、ぼっと顔が熱くなる感覚を覚えた。 今日は本当に一体どうしたものか。本日二度目の言葉を吐いて、これは飲み過ぎたかな、と酒の所為にした。 (そうだ、頬の熱も心臓の高鳴りもきっと全て酒のせい) 私達は再び家路までゆっくり歩き始めた。熱い頬を冷たい夜風で早く冷ませてくれと言わんばかりに。 |