くるくるくるくる、物語は同じところを回り続ける。

「なあ、生まれて初めて目にした女が母ちゃんって、ちょっと嫌じゃねえ?」

回されすぎてボロボロになったイスの上に行儀悪く乗っかる兄貴は、僕の前にある課題が目に入らないらしい。

「なあ、イチロー、聞いてんの」
「別に嫌じゃないよ」
「えー、なんで」

なんで、と言われても。
そもそも「生まれて初めて見た異性」は多分母じゃない。から共感できないし何よりどうでもいい。

いちいち説明するのが面倒で、僕はシャープペンを走らせ続ける。

「母ちゃんって。なんかもの悲しいよ俺」
「あっそう」
「つめてー!」

兄貴にとって僕が冷いか熱いかもどうでもよかったから、次の段落に取り掛かり始めた。
目論見だとあと1章半。大事な場面だ。

「なあイチロー」
「兄貴」

間延びした声をいい加減停止させたくて、ぴしゃりとした重たい声を上に乗っける。

そもそも、兄貴はなぜ僕の名前を会話の節々に混ぜるのだろう。
長男が二朗で二男が一朗、というただでさえ混乱を誘う上に、「朗」の字を「郎」と間違えられる僕たちの名前を皮肉っているのか。だとしたら、相当むなしい。

「僕は生まれて初めて目にした女のことよりも、今目の前にある紙の方が数倍も大事なんだ」
「おー、もうすぐ完成しそう?」
「同室者がちょっと黙っててくれればね」
「あ、今気づいたんだけどさ、俺らが初めて抱きしめられた相手ももしかして母ちゃんかもしれねえんだ」
「どうでもいい! ついでに言うと、兄貴が生まれて初めて目にした女も、兄貴を初めて抱いた女も、助産師だ」

少しは黙るかと思いきや、甘かった。
わざわざ振り向いて目にした兄貴の顔は、感動を満面に咲かせていた。

「すごいな! やっぱイチローすごい!」

黙らせるどころか結果はしゃがせることになって、失敗したなと深いため息をつく。
それが兄貴に届くことはない。兄貴はいつもそうだ。僕へ一方的に話しかけるクセに、僕の話を聞いてくれない。兄貴の「すごい」ほど安いものはない。

その後も兄貴はどうでもいい話をべらべらべらべら続け、いよいよ僕が恒例の「ブチ切れ」を発動させようとなったところで、ドアノブが半回転した。

「ただいまぁー」
「おー、おかえりハナ」

その声を聞くやいなや、すぐさま「おかえり」と兄貴同様の言葉をかける。

なぜなら、目の前にある紙切れなんかよりも、生まれるもっと前から僕の隣にいた彼女の方が、数十倍も大事だからだ。

二朗一朗、と色気もへったくれもない兄弟の間に咲いた花は、まさに僕の希望だった。

希望は紅梅色のカーディガンを右肩から脱ぎながら、12畳間の奥へ歩いていく。
いくら広い子供部屋でも、三人分のベッドと机と共有タンスが置かれてるのではさすがに窮屈だ。

「なんか疲れちゃった」
「夕飯は?」
「んー、食べてきた」
「ハナ、ちゃんと飯食ってる? 痩せすぎじゃねえ?」
「このくらいでいいんです」

確かに、姉貴は最近痩せた。
僕はぽっちゃり系よりも痩せている女の子の方が好きだ。
それ以上に、僕はどんな体系であろうと姉貴が好きだ。だから兄貴のように口出しもしない。

「お父さんもう帰ってきた?」
「おう」
「じゃーお風呂入ってくるねー」

タンスから下着を選び取り、細い腕に抱えて出ていく姉貴を直視出来ない。
上着を下着にかぶせて持ち歩くのが姉貴の癖だから、直視しても構わないのだけど。なんとなく、なんとなくだ。

僕は逸らした視線をそのまま斜め上へ持っていく。

23時半、そろそろ兄貴が寝支度をする時間だ。
予想通り、兄貴は僕より3pでかい図体を起こして布団に潜り込む。眠りに落ちてしまう前に、心に浮かぶ不安をそれとなく吐き出した。

「姉貴、帰り遅くなったよね」
「そりゃー、年頃の女の子にはいろいろあんだろ」
「年頃の兄貴が言う言葉じゃないね」
「俺はもうオッサンだよ」

高校三年生が何を言う、と思いながらも、僕は兄貴の言葉に少しドキリとしていた。
多分、納豆を丸飲みしてしまったような顔になっていた。

年頃の女の子。僕は自分で自分を「年頃」だと思う節がある。僕がそうなら、同じ日に生まれた姉貴も当然「年頃」なんだ。

「年頃ってたとえば」
「んー、禁忌の恋」

近畿?

俺が今いるのは東京だけど。
そんな下手なボケを僕がかます前に、兄貴は布団を被ってくれた。

「ハナは風呂長いからなあ。イチローも待ってないで、キリのいいところで寝ろよ」
「大きなお世話」

かわいくないねえ。夢へ入る前の言葉を兄貴が残す。

高校一年男児がかわいくてどうすんだよ。かわいいってなら、ハナがいるからいいだろ。
思ったことを全部は言えない。言える相手なんて、この世にはいない。

二個電になってた部屋の電気を、僕は一つ落とした。こんな明るさでも寝られる兄貴が少し羨ましい。
僕はいつでも、完全な暗闇でしか眠りに就けないから。

時計の針が円を描いて、それからさらに半円を描いたころ、ドアノブはまた半回転する。髪の毛へバスタオルを滑らせる姉貴から、シャンプーの甘い香りが漂って来た。僕は手の動きこそ停めはしたが、振り向くのは反射的に堪えた。

「二朗は?」
「もう寝たよ」

分かりきっていることなのに、姉貴は必ず兄貴の所在を聞いてくる。
そっかあ、と続く声が小さくなるのを確認して、僕は少しだけもの悲しさを覚えた。

家の中でも外でも姉貴は変わらない。
友達とかは、家の中の女なんて外とは違ってだらしないと言うけど、姉貴はそうではない。

兄貴のような男にも気遣いが出来るし、下着姿で歩き回らないし、家事も洗濯も掃除も進んでやるし、僕がついじろじろ見てしまいそうになる可愛い服を着ている。
袖口と襟口周辺にだけ小花が散っているパジャマは、僕の趣味に最高に合っている。

「髪の毛」
「ん」
「早く乾かさないと、風邪引くよ」
「あれ、珍しい。イチローが優しいこと言う」
「俺はいつでも優しいだろ」
「そんな小説書いてるくせに」

あははと、女の子らしさの入り交じる笑い声が、控えめに部屋に通った。
この笑い声で起きてしまったとしても、きっとすぐまどろみに身を預けられるだろう。

姉貴はピンクのバスタオルをつっかえ棒に干してから、ウェーブのかかった黒髪を乾かしに一階へ戻った。

僕の小説はちょうど最終章に入ろうとしていた。ここが、姉の言うところの「そんな小説」になる一番の要因だ。

早く続きを書きたい。シャープペンの芯を折らないよう配慮しながら、筆圧強で文字を綴る。

この先の場面のために、僕はここまでずっと書いてきた。
どんでん返しを起承転結の中に一個は入れるという、読者を飽きさせない配慮を今回はしてみた。でも、どのシーンを表現していても、やっぱり僕は退屈だった。

退屈の上に成り立つ興奮だからこそ、美味だ。味がある。強く強く、噛みしめられる。

「イチロー、そろそろ寝ようよ。私も寝るから」

髪の毛を乾かした姉貴の髪の毛は、少しだけ痛んでいるように見えた。
ウェーブかけたんだから当然だって、と姉貴は主張するが、僕は姉貴の太陽の陽をよく通すサラサラな黒髪が大好きだった。

姉貴の要求通り、僕は紙を裏返しにして、百均のシャープペンをそこらへんに転がす。商売道具はだいたい月イチで交代するから愛着も湧かない。

「おやすみ」
「おやすみ」

電気が完全に落ちる。これでようやく寝られる状態だ。でも僕はまだ少しだけ考え事をしていた。

明日には全て書き終えて、校正まで持って行けるだろうか。

最終章だけは絶対に校正しない。そのまま表に出す。ささやかな僕のポリシー。早く。早く書きたい。早く。

あの主人公カップルの関係を、ぶち壊してやらなければならない。

最高のバットエンドに、持って行ってやる。
それが僕のポリシーだ。


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