『唯、俺はお前の親父にはなってやれないし、酷いこともしたが……許してほしい』

「…謝る必要なんてないです」

 ここまでしてもらえただけでも、充分すぎるほど感謝している。

『頑張れ』

「…はい」

 きっと大変なのはこれからだ。
 仕事を辞めると言って、最後に客とモメるケースも少なくないだろう。

 でも。

「…卒業式までに、か」
「うん。それまでにきれいさっぱり、辞めにする」

 伊織が隣にいるなら大丈夫だよ、と。
 言葉にするにはまだいろいろが足りないから、視線の中に思いを込めたら、雑誌の中にある以上の独特な綺麗な笑みを伊織は漂わせた。

 みんながみんな、濁流の中でいきをしている。

 苦しみにもがき、溺れ、それでも生きようと何かを求めている。




 俺の呼吸が苦しくなったら、伊織がいきを注いでくれる。

 だから俺も伊織が苦しくなったときは、俺のいきあげるよ。


 ああ、それって究極の愛かも。

 伊織にそう告げたら、とても複雑そうな顔をして、ただ「恥ずかしい奴」と言っていた。

  



 * * * *






「卒業生代表、答辞」



 生徒会長の顔、まじまじと見るの初めてかも、なんて。

 長かったようで短かった、ってよく考えれば物凄く破綻してるよな、なんて。



 いろいろ考えていたら眠くなった。さすがに卒業式で眠るのは避けたけど。



「伊織」

 後ろから呼びとめると最初から呼びとめられることが分かっていたようになだらかな動きで、俺の手を掴んで退場途中の列を抜け出した。

 これからロングホームルームがあるけど、まあいいか。


 笑顔を公開してから一層人気に拍車がかかった伊織。
 一層というか、物凄く反響が大きくて事務所も対応に困った、らしい。

 最後に聞いた益岡情報。あいつも好きだよな、本当。


 風の吹き抜けるコンクリートの上は、多分俺と伊織が一番多く過ごした場所だ。
 一度伊織の弁当箱が風に流されて、涼しい顔している伊織のかわりに俺が急いで追いかけたっけ。

「……今日で、終わりか」
「唯人は終わり。もう今月に入ってからは、店行ってないよ。今日で本当に……今、終わりだ」
「じゃあ」

 伊織の持っていた卒業証書筒がカランと落ちた。円形のそれは微妙に傾斜した場所を緩やかに下って行く。

「これでもう、俺だけだ」
「うん」

 常連客には全員挨拶をした。
 途中声を荒げるお客様もいたけれど、最後には去って行った。
 俺を本気で求める人なんてあの場所にはいなかったんだ。

 フラッシュが一瞬視界を包み驚いて瞬きした。見れば伊織が携帯を片手に既に撮影した写真を保存操作している。

「何してんの」

「卒業写真。もうクラスでは撮れないだろ」

「……一人で撮っても、意味ないじゃん」

 伊織の隣に並んで、携帯横にして、それから撮影ボタンを押す。
 カメラ機能使うのは初めてで、慣れないスーツに身を包んだ二人が少しブレた。
 それでも写りがいい伊織はやっぱり本職なだけある。

「帰るか」

「直樹さんは来てないの?」

「さっき見たけど、まあ気付くだろ」

 適当なこと言って歩き出す。この親子の形はこんなふうに続いてくんだろう。

「どっちの家、行く?」

「親父が途中で帰ってきていいなら俺の家」

「……寮にしよう」

「一つ提案があるんだけど」

 前を歩いていた伊織が立ち止まって上を見上げた。つられて見上げると、真っ青が広がっている。乾いた空気に鳥が啼いた。

「店、行かねえか」

「…店?」

「もう入れないか?」

「……ううん。入れるよ」

 昼間は二階が別の娯楽施設として活躍している。
 従業員くらいしか知らない裏口を通って、あとカードキーがあれば部屋に入れる。
 どのみち最後に何か忘れ物はないかとチェックするつもりだった。
 大きな私物なんて、滅多に持ち込まなかったけど。


「そういえば、伊織に渡しそびれたのある」

「いつ、何を」

「クリスマスのとき。プレゼント用意してたのに、自信満々でしてないだろなんて聞かれるから」

「俺のせいかよ」

 ポケットに忍び込ませてあるそれは、ポケットに忍び込ませられるようなそれだ。

 伊織が指輪を裸で取り出したのには正直驚いたけど、式の最中鞄に入れておくのは怖かったから結局俺も同じことしている。

 店のカードキー。
 あの場で伊織にへし追ってもらおうと思っていた。

 けどやめた。今となってはちゃんと関係を終わらせる猶予が出来てよかった。



 店の部屋は、数日来ていないだけなのに随分と久しぶりな感じがした。
 今日でお別れの部屋。もう立ちいることはない。
 このちっぽけな正方形のスペースが、俺の世界の全てだったんだ。
 それを壊してくれた二人の内、もう一人には年末年始に会話をした。


『伊織、すごい難しくて大変だろ』
『まあ、そうかも』
『嫌になったらいつでもおいで』
『おい、何してんだよ』

 少し言葉交わしたら伊織が舌うちをして話に割り込んできて、話という話も出来なかったのだけど。
 綺麗な形にはなっていない。普通に会話を交わせるほど良好な関係じゃない。彼の幸せを願えるほどいい行いはしてこなかった。
 それでも同じ空間でまた言葉を交わせたことに安心した。安心して、不安にもなった。多分、それでいいんだと思う。

 サイドテーブルの引き出しからローションを取り出した。

「準備がいいな」

「そりゃ、こういうことする場所だし」

「……俺が最後の客だ」

「違うよ。客、じゃないだろ」

 伊織もここには何度か訪れた。だけど一度も伊織のことを「お客様」として見たことはなかった。

「抱くぞ」

「……焦らさないで」

「そんな余裕、あるかよ」

 付き合い始めてからもしなかった行為。俺が全て水に流す今日この日まで待っていてくれた。

 口ではいつも余裕ないようなこと言うのに、いざやるとなるとその余裕ぶりを発揮するから嫌だ。
 堅く身を引き締めるスーツのボタンを一つ一つ外されていく。
 俺も相手のやつを外そうとしたら、中々うまく取れない。

 どうして、と混乱した。
 指が大きく振動していた。ついでに心臓も。

「……何、してんだ」

「……えっと……」

 何度もしてきた行為なのに、相手が伊織というだけで全く違う行為になる。それが今日は際立っている。

「緊張してんのか」

「…緊張?」

 ああ、そうかもしれない。
 物凄く、身体が固くなっている。

「怖いか?」
「ううん…怖くはない」

 ただ、得体の知れない何かがそこにはある。

 背中を腕で支えられたまま、ゆっくりベッドに寝かせられた。そうして落ちる生温い唇の感触。
 押しつけて、密着して、それから隙間を開けてやさしく入ってくる。厭らしいほどにゆっくりとした動きだった。




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