「…親父がそろそろ俺を許してくれるかと思って」

「許す?」

「……親父とあの人を引き離したのは、俺だから」

 あの人と、兄貴が冷たい口調で言う人間はこの世に一人しか存在しない。
 かつて兄貴に暴力を与えていた、彼女。

「俺がいなければ、親父はあの人と離婚することもなかった」

「馬鹿じゃねえの。離婚で、正解だろ」

「でも親父はあの人のこと、やっぱり未練に思ってる」

 罪悪感?
 親父とあの女に?

 その異常な思考回路はどこからくるのか知れないけど、兄貴がそんなふうに思っていたのは初耳だ。
 
「……だから、無茶な頼みにも乗ったのかよ」

「まあ、それが一番かな」

「……それなら、俺が一番の原因だろ。俺がいなければ、あの女もあそこまでしなかった」

 親父の前では、あの女は自分の直接の子供である兄貴「しか」殴ってなかった。

 血の繋がっていない子供を殴るなんて事実、知られたくなかったのかどうなのか、考えたって分からないけれど。

「…あの女が一番恨んでるのは親父の浮気相手と、俺だろ」

 俺が引き取られ、四人家族だったあの時期。

 二人きりのとき。

 それを親父は知らない。
 でも兄貴は知っている。

 兄貴とは違って、俺のは見えづらい位置に残る痣。



 最初に殴られたのは俺。

 それをかばったのが光志。

 親父の前で殴られたのが光志。


 俺が被害を受けてると親父に言うなと、光志へ口止めしたのが俺。

 それでも親父を憎まなかったのが光志。

 それでも親父を憎んだのが俺。

 親父が特に手をかけて育てたのが光志。

「……それについては、俺は何も言えないよ。あの人の考えなんて一生分からないしね。でも、伊織が俺と同じ感情を親父に抱く必要はない」

「言われなくたって抱かねえよ」

 第一、諸悪の根源は浮気をして孕ませた親父だ。
 けれどあの人から離婚して暴力から解放したのも親父。

 誰が正義で誰が悪か。
 倫理ごっこは嫌いだ。考える時間も無駄。

 ただ俺は一生兄貴の思いに同意は出来ない。
 親父のしたこと、あの人がしたことを許すのも。

「……でも、この件についてはこれでよかったんだ。本当、終わらせてくれて、助かった」
「恋人ごっこを続けているのに良心でも痛んだのか?」

 皮肉とかそう言った類は全て兄貴の前では無意味なのを知っていても、俺は言い続ける。
 そうすること以外、兄貴と普通に会話する術なんて知らないから。

「……実は俺に、騙してるなんて感覚もなかったんだよ」
「自覚症状なしかよ」

 とんだ野郎だ、と言葉を畳み掛けることは叶わなかった。
 俺の前の兄貴は、かつて俺へ見せたこともないような顔をしていた。


「嘘なんて、何もなかった」

「…まさか、お前……」

「最初こそ、親父に言われて付き合ってたけど、親父の指示通りに動いてたつもりだったけど……感情に、親父の指示はなかったよ」

 まさか。
 まさか。
 そんなこと、あっていいものか。

「……嘘なんかじゃ、なかったんだよ……」

 唯と兄貴が知り合ったのは、去年の今頃。

 終わった今日までの約365日。

 橋本唯と高野光志が、嘘の出会いの中、どんな言葉を交わし合い、どんな約束をして、どんな表情を見せ合って来たか。

「これで、良かったんだ……自分から終わらせるなんて、出来そうになかったから」

 別れの辛さは、同じだけ噛み締めて。


 それでも。


「それでも…お前は唯を傷つけた」

 振り絞ったような、喉に張り付く声だった。

「ああ、本当だ。本当、言い訳も何も浮かんでこない」

「…分かんねえ」

「……お前には分からなくていいと思うよ」

 漏らされた笑みの中から、兄貴の感情は拾えなかった。

「本当に人を好きになる、この気持ちなんて」


 ああ。
 余計なお世話だ。


 何もかも、どいつもこいつも理解出来ないことだらけ。


「……そこまで想ってんなら、どうして手放したんだよ。嘘じゃなかったんならそう言ってやれよ。そうすれば…!」

 そうすれば、あいつがあんなに傷ついた表情を見せることも、涙を見せることも、俺が……──。

 何だこれは。上手く言葉が出せない。
 自分が何を言いたいのか、自分でも分からない。曖昧なイメージだけが、ただ頭の中で。

 そんな情けない俺へ、光志は相変わらず年上の笑みを向けるだけだった。

「…こんな俺にはこれがふさわしいんだよ、伊織。傷つけた分だけ、それなりの報いを受けなきゃいけない。唯はきっと優しい子だから、俺の本当の気持ちを言ったら、受け入れてしまう。それじゃ、俺が幸せになるだろ。…突き放してやれば、唯も次へ行ける」

 殴られるより、殴る方が痛い。

 傷つけられるより、傷つける方が辛い。

 
 俺に教えたのは、兄貴だった。

「……間違ってる」
「…そう思われても、仕方ないな」

 完全に諦めきった声は、聞いているだけでも虫唾が走る。

「諦めんじゃねえよ。お前、分かんねえのか。自分が傷つくために、手放した? ただの自己満足じゃねえか」

 こんな敗北者の肩を持つなんて、それこそ吐き気がするほど嫌なのに。

 縋りつく唯の姿が、俺の中から消えないでいた。


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