一般的な日本人の平均体温は36.0度前後。鳶色をした瞳と短めの髪を持つ、全体的に東洋人にしては色素の薄い少女はこれよりも幾分高い。
だから、低体温症であるような青年が少女のどこかしらに触れると、たちまち少女は冷たいと言って騒ぎ出し、徐々に熱が移ってくる感覚に青年は何かしらの心地よさを感じ取っていた。
それ故に驚いた。精密に造られた人形に似た白皙の面にはおくびにも出さなかったけれど、触れる箇所から本来伝わってくるはずの温かな熱がそこにないことは少なからず、青年を驚かす。
更に言えば、少女は普段、恋人らしい振る舞いをしない青年が触れてくる、否、近くにいる、言葉を返してくれる、それだけでじゃれる子犬のように嬉しがる。これを機に、とばかりに構って構ってとあるはずもないしっぽを無邪気に振って懐くのがお決まりのパターンだ。
だが今回ばかりはそうではなかった。青年が近くにいるだけでなく、少女の放り出された無力な手に一回りも大きい手を重ねているというのに、普段の反応は一切なかった。
怪訝に眉を顰めた青年の気配に気付くこともなく、肩を落とし、項垂れる姿は元気が一番な少女の面影はない。不安、というよりも先に燻った不快感は、青年のさして広くもない心を満たそうとしていた。
閉めきられていないカーテンの隙間から差し込んでくる月光に青年はもとより、少女の白い肌を一層際立て、俯く項はいっそ艶美と言っていいほど、なまめかしかった。頭の天辺から足の爪先まで色素の薄いその身は淡い月影により身体の線の端々がきらきらと光っていたし、またその所為で少女の存在自体を朧気にした。
空に浮かぶ衛星のように少女の肌は白く、そして冷ややかだった。青年は極めて平坦な声色で「麻衣」と少女を呼んだ。
そうすると、息を吹き返したかのように動き出した少女の明るみになった面には、兎のそれと一緒な真っ赤な二つの目。
ひどく充血した瞳は痛ましく、その周囲も擦った跡が残っており、腫れた肌が可哀想であった。余程泣いた結果であろう。今もまだ泣いているのか、潤いすぎた瞳で見詰めるので、青年がその中でゆらゆらと揺れている。
「麻衣」
どうした――言葉にしなかった声は確実に少女へ届いたようだが、それについて、少女が応えることはなかった。ただ今にも零れそうな水滴を溜めて、ゆらゆらと兎の目で青年を見詰める。

少女はこれほどまでに泣くのは珍しかった。言うまでもなく少女は喜怒哀楽がはっきりしており、よく笑いもすれば悲しみ泣きもした。しかし悲しみによって流すのは個人的要因の涙ではなく、カタルシスに似た涙である。
少女はしばしば誰かのために泣いていたが、ここまでひどい充血のする泣き方をしたことはなかった筈だ。加えて、ここ最近、大々的な調査は受けておらず、何より昨日までの少女は曇りのない笑顔を振りまいていたほどだ。
幾つかの予想される原因を思い挙げてみたがどれも決定的なものはなく、青年はある考えに帰着した。つまり、少女のコントロールできない未数値の能力が何らかの拍子で発動した、というものである。
しかし、いつ、どこで、という不明瞭な点もさることながら、少女の指導役を買って出ている既にこの世の者ではない兄が何のアクションも起こさない、という点を省みれば――無論、常にコンタクトが取れる訳ではないのだが、何しろ事の中心人物は少女なのだ。気に入っていることは知れている――その考えも、果たして適当であるかどうかは分からない。
などと、つらつら考察していた青年の優れた頭脳が 「なるぅ…」 少女の切ない声に中断を余儀なくされた。

力なく床に放り出されていた腕を青年の首へと回す。それは幼い子どもが絶対の庇護者に縋り付く様のようでもあり、赦しを請うている様のようでもあった。回された腕がどちらの意味なのか、それとも全く別の意味なのか、もはや青年にとってそんなことは些事であり、少女が漸く青年を認めたという点にのみ、重要な意味を成していた。
嗚咽とまでは行かないにしても、それに類似した泣き方をする少女に青年は肩口に埋められた頭を撫でてやった。ゆっくりゆっくり、落ち着かせるように髪を梳き、撫で付けてやれば、乱れていた吐息は徐々に落ち着きを取り戻していった。
華奢な肩を掴んで埋められた顔が見れるよう、押し戻した。抵抗があるかと思えば、案外素直に少女は青年の力に従って、ますます赤くなった瞳を現した。
兎のようであった。真っ白い雪のような身体をした真っ赤な目をした兎。実際、青年も兎のようだと、ひっそり胸の内で呟いた。その身は一切の穢れなく、自由に大地をはね回る、誰かを思って泣く真っ赤な目の兎だ。
「あの、ね」
震えた声であったのを覚えている。ゆらゆら、青年はまだ赤い瞳の中で揺れている。何でもないよ、違うんだよ、違うの、ほんと、なんでもないの。そう言ってはまた崩れてしまいそうな細い身体を抱き寄せた。
「もういい」
無理矢理に絞り出した声を聞くのは忍びない。“何か”があったことは紛れもない事実であろうし、少女が頑なに何でもないと主張し、話さないのもまた事実である。
ならばナルはいらないと思った。少女をこうも真っ赤に泣かせ、畏れに体温を無くしたかのように冷たくし、常とは異なる艶を出させた原因など、今は必要ない。混乱している彼女から客観的な事実を聞き出せるとも思えない。なら今は落ち着かせるべきだと、理性で判断し、本能的に抱き締めた。
少女の甘い匂いが鼻腔を擽った。ここには少女と青年だけがいて、少女が青年に抱き締められている事実以外にこの時は何もいらなかった。
青年は酷く優しい動作で少女にキスをやった。少女の大きな瞳から一粒流れ落ちて、服に染み込んだ。今度は真っ赤な目尻に、青年の唇が涙に濡れた。次は額に、上を見上げた拍子にまた少女の瞳から一粒、先程と同じ道を通って流れて消えた。
四度目は真っ赤な瞳を隠した目蓋に、痛みを和らげるようにそっと触れた。閉じた目蓋の内側から溢れ出た涙は少女の滑らかな頬を通り、ほっそりとした首筋を流れ、服をまた少し濡らした。
猪突猛進で単独行動が意外にも多い、けれどやはり寂しがり屋な腕の中の兎にもう一度、キスをした。熱は少しずつ、少女の中に戻りつつあった。



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