事の始まりは二週間ほど前に遡る。一年最後の月、師走の異名を持った慌ただしい十二月の上旬に、十代最後のクリスマスを恋人と過ごしたい、と密かな望みを抱いていた少女と言っても差し支えないほどの幼さを残した大学一年生となった麻衣は、ワーカホリックと名高い恋人でありバイト先の所長に申し入れをしたのだ。
半ば決闘でも挑むかのように発せられた麻衣の申し入れは、絶対に約束を取り付けてやる、という固い決意の意気込みを裏切って、あっさり了承を得ることとなった。
え。と、思わぬ即答を頂いて、拍子抜けしたような驚きの声を上げる麻衣に気分を害したのか、取りやめるか、とナルがすかさず言った。了承を得たのと同じようにあっさり帳消しになりそうなのを慌てて麻衣が、何でもないですじゃあ25日宜しくね!…と間髪入れず言ったことで、少女の密かな望みは叶ったのだった。
が、しかし。お相手はお偉いさん方に期待抱かれる、有望且つ有能な博士様々だ。お師匠さんも走るこの十二月、つまり年の瀬に忙しくない訳がない。だが例え忙しくとも、守れもしない約束を了承するようないい加減な人ではないので、麻衣はナルの身体の調子を気に掛けながら、ほくほくと胸の内を温めてクリスマスを待ち侘びていた。

そんな麻衣は、自分の認識の甘さに泣きたくなった。そう、例え博士様自身が25日は忙しくならないよう、予定を組み立てたとしても、英国にいらっしゃる本部のお偉い様方はお構いなしにそれをぶち壊しになさるのだ。
確かに、だ。確かに昨年はクリスマスは家族にとって特別な日なんでしょうと言って、ナルを英国に追い遣ろうとしていた。――残念ながらその計画は泡となって消えたが。
今年、本部からお呼びが掛かったナルは英国に帰国する訳だから勿論、ルエラやマーティンに会うことになるだろう。それはいいのだ。普段、手紙も電話も何の音沙汰もないのだから、素敵な親孝行になるだろう。それに関しては麻衣は全く何の文句もないのだ。
去年はまだ、恋人という間柄ではなかった。好きというような、それに似た感情はあったかもしれないが、クリスマスは家族と過ごした方がいいんじゃない? …と、ナルを帰国させようと思えるぐらい、彼とのクリスマスは特別視してなかった。
それが今年は事情が違う。二人は恋人関係であり、最初のクリスマスであり麻衣の十代最後のクリスマスでもあるのだ。これだけ条件が装っていれば、普段得られないロマンチックを求めたって可笑しくはない。しかし、それはどうにも叶いそうにない。
(あーあ)
ぽつり、零した溜息は案外重くて吃驚した。去年は良くて今年は嫌なんて、我が儘だなぁ…、そんな風に感じているから余計に気は滅入る。
ナルとて、研究者としてやっていくのにある程度の付き合いは必要だ。そもそも、日本には亡き兄ジーンを探す為だけに来ていたようなものだ。そのジーンが見付かった今、日本に長々とナルがいる必要はないし、さっさと本部に戻ってきて欲しいというのが上の思いらしい。
ことごとく呼び出しを断ってきたナルだったが、晴れて成人となった今、多少の無茶が通った未成年であった以前とは違い、大人の都合に合わせた付き合いもしていかなくてはならなくなったらしい。
正直、ナル自身も今年に限って、と思わずにはいられないが、散々断ってきたことによる上からのプレッシャーもあり――今回、これ以上は抑えが効かないと上司・森まどかが愚痴のように言っていた――ナルは重たい腰を上げて、帰国の手続きをし始めたのだ。
しょうがない、と麻衣は思う。帰国すると言うことはクリスマス当日だけでなく、年末年始も帰って来れないだろう。当分、逢えなくなる。けれど、仕方ないことだと、麻衣は無理矢理にでも納得させようとする。
我が儘を言って困らせたくはないし、何より召喚の声が届く前は、ナルは麻衣とクリスマスを過ごそうと思っていたのである。それが嬉しいし、約束が果たせないのは残念だけど、十分だと思った。それを言えば、保護者組や同僚や親友諸々に、バカだ、と言われそうだが、ナルも約束を守れず悪いと思っているようで、すまないと謝ってくれたので少女は良しとしているのだ。
(ま、寂しいけどね)
こてん、とクッションを抱き締めたまま、ソファーの背もたれに頭を預ける。
お付き合いを始めてから――始める前からそうではあったが頻度を増して、麻衣はナルのマンションへと足を運ぶようになった。ナルの体調管理を任されたのも理由にはいるが、なるべく一緒にいたいという乙女らしい本音もある。空調管理のしっかりした部屋にお世話になっている事実も勿論、否定できないけれど。
ナルが帰国して居ない時も、好きに使って良いと言い渡されたのだ。事務所もいつも通り運営するらしく、麻衣が寒い思いも、必要以上に一人になる心配もない。その心積もりで言ってくれたのだと分かっているから少女は余計に我が儘を言えないし、十分だという気持ちは膨らむ。

眠たいなあ、なんて欠伸を噛みしめながら思っていると、奥にある書斎からナルが出てくる音がした。どうやら出発の準備が出来たらしい。麻衣のいるリビングへ姿を現したナルはいつもの黒いコートを着込んで、そこはかとなく機嫌の悪そうな雰囲気をくっつけている。
(ふっきげーん)
ひゃあと肩を竦めた麻衣だが、この不機嫌さは出たくもない集まりに顔を出さなければいけないからか、もしくは自分との約束を破り暫く逢えないからか、と分析する。乙女としては後者を是が非でも思いたいものだが、ナルが相手だと少し難しい。結局、どっちの要素も入りまじっているという結論で推測を終える。
「出発?」
「ああ」
「そっか、行ってらっしゃい」
溜息を零し、うんざりした気色を隠さないナルに麻衣はこっそり苦笑する。彼は本当に、自身の研究以外の手間を嫌う。
「気を付けてね、身体壊しちゃ、駄目だよ」
どうせ無茶するだろうけど。と思えば、ナルが黒曜石のような瞳で、じっと見詰めてくる。もしかして見透かされた? そう思って、内心ぎょっとする。
「な、なぁに?」
「…いや」
(ななな、なんだよぉー!)
クッションを身を守るようにもっと抱き込んで、分かり易いと評判の表情が読まれないよう鼻辺りまで隠すが、肝心のナルはテーブルにメモ用紙を置いて、何かあったらここへ、とだけ言った。
空港までの見送りは今回はない。現在夜の八時を回った所で、クリスマス時期でイルミネーションが明るいとはいえ、危ない橋は渡りたくもないナルが家にいろと命令したのだ。だから今年見れる最後のナルだ、と見納め気分で麻衣が眺めていると、青年がふと振り返って、麻衣、と呼んだ。
「にゃっ、にゃに?!」
「……」
「ビックリしたんだい! そんな目で見るなー!」
「麻衣、僕はいつ帰れるか分からない」
「? 分かってるって」
だから何? と訊ねる。
「大人しくしてろよ」
「はぃっ?!」
「聞こえなかったのか」
「き…聞こえた、けど、…その、どーゆー意味?」
「暴走するな、という意味ですが?」
「…っなにそれー!しつれーだよナル!」
抱き締めていたクッションをソファーに押し付けて、がう、と噛み付くように突っ掛かれば、彼はくすりと微笑って、その調子なら大丈夫だなと呟いた。気を遣われてると気が付けば、頬が熱くなるのが自分でも分かった。
「行ってくる」
「っいってらっしゃい…!」
赤い頬のまま、麻衣は渾身の限り叫ぶ。いつもなら飛んでくる、うるさいの言葉はなかった。


がちゃりと玄関の重たい扉が閉まる音が聞こえて、部屋は無音に包まれた。
(行っちゃった…)
さっきまでのやりとりが既に懐かしい。冬は寒くて人肌恋しくなるから一層、寂しくなる。物足りなさを埋めるみたいに、ナルが麻衣に買い与えた、淡いオレンジと白の水玉模様が可愛いシンプルなクッションを抱き寄せる。
それに頭をもふっと乗せるとふわふわ感が堪らないのだが、今はその感触を楽しめるほどの余裕はない。それでもひたすらふわふわなクッションに頬を寄せるとちらり、目の端に何かが映った。床に置かれた、麻衣が今抱き締めているクッションと一緒に買われた、一回り小さなクッションだ。
そして、そのクッションの下に置かれている本が一冊。深い青をしたハードカバーの分厚い本で、背表紙には黒色で何か綴ってあったが――本の題名であろう――専門用語なのだろうか、幾分英語に慣れてきた麻衣ではあったがぱっと見では読めなかった。読めなかったが、これは今さっき出て行った恋人が支度中に探していた本だ。麻衣はそれを知りながら、この本を意図的に隠していた。
支度中のナルが本を知らないかと言った時は、さぁと答えておいた。安易に隠された本はクッションを退ければ簡単に見付かる。賭のようなものだった、見付かれば見付かったねで済んだし、見付からなければ麻衣の思惑が上手くいく可能性が高まる。
その本をナルが持って行こうとしていたのは前々から知っていた。だから荷造りされた鞄の中からちょっと拝借した。無論、麻衣が読む訳ではない。横文字の専門用語が並んだ文章を読めば頭がこんがらがるだけだと思うし、大体読みたい本ならナルにお願いをすればいいだけの話なのだ。
そうではなく、麻衣のちょっとした願いの為に、本を隠した。
つまりはナルも少しくらい読書をしない時間を作って、色々考えればいいのだと思ったのだ。研究云々ではなく、当分逢えない恋人のこと、とか。
年末年始、事務所も開けるとはいえ、冬の寒い間、麻衣の寝床はナルのマンションだ。否応なしに傍にいない恋人を思うに決まっている。彼は忙しいし、自分と同等にこちらのことを思って欲しいなんて言えないけれど、読書をする時間の、そのほんの少しを麻衣に当てて欲しいのだ。
きっと、ナルは時間を見つけては本を読もうとするだろう。その時、家に忘れてきたことに気が付き、その家には麻衣がいることを思い出してくれればいい。それだけでいい。ちょっとした可愛い悪戯のつもりだった。

いつ気が付くかなと想像して悪戯心にくすくす笑っていると、ついさっき聞いたような開閉音が聞こえた。突然のことに目を見開き、リビングにある扉を見やれば、出て行ったばかりの全身真っ黒の男がやって来た。
(…はやいよっ!)
まさかこんなに早く気が付くとは思わず、呆然としていたが、はっと我に返り、笑って見せた。
「はっやいお帰りだね、ナル」
ちらりとナルは麻衣を一瞥し、次に麻衣が座るソファーの正面に置かれているクッションを見やる。分かっちゃったかな、と思った瞬間に青年が口を開いた。
「忘れ物を取りに来た」
「珍しいね」
「正しく言えば、意図的に隠された忘れ物を取りに戻ってきた、だがな」
ぎくっとしたが、麻衣が隠したという確固たる証拠はない筈だ。だいじょうぶ!と心の内で拳を握り、身構える。ナルはそれ以上言わず、すたすたと近寄ってきて、クッションを退かし、本を見つけた。
「見付かって良かったね」
にっこり笑ってみせれば、ナルは肩を竦めただけに留まった。
(よしだいじょうぶ乗り切れる!)
ナルに勝った! …と、当初の目的とは若干ずれた達成感を得て、麻衣はにこにこと笑う。そんな彼女の様子を横目に、ナルはふと笑う。直視した麻衣は、笑顔をそのままに硬直した。
「な、なる…?」
「麻衣」
「えっ、は、はいっ!」
「お前は可愛いな」
「・・・・・・え。」
凍結した頭を解凍するのに数秒、お湯が沸いたようにかぁっと熱くなった真っ赤な麻衣の顔にナルは不審なくらいにこりと笑う。ざぁ、と己の血の気が引く音を麻衣は聞いた。
「どうやら谷山さんはこんなことを、」 こんこん、と麻衣が隠した本の表紙を小突く。
「してまで、僕に早く逢いたいようですので」

(ち、っがーうっ) と叫べればよかったのだ。
(思い出して欲しいってだけで、逢いたいなんて、そんなのっちっともっ思ってないっ!)
…とは、言い切れないのが、恋する乙女の辛い所だ。
赤くなったり青くなったりと忙しい麻衣に、くっとナルは喉の奥で笑う。そんな様子にも赤くなる恋人は単純素直で、自称父親が構い倒したくなるのも分かる。
そしてそんな彼女は孤独を嫌う寂しがり屋だ。それなのにここぞとばかりに甘え下手な一面を見せる。自身でも自覚があるが、珍しくした約束を守れず、少なからずナルは苛立っていた。
特に秋から冬にかけては一層、麻衣の寂しがり屋モードが強くなるのを知っている。一人にさせたくはないが今回のは本当に断りがつかず、ましてや本部からの呼び出しに少女を連れて行く訳にも行かない。未数値の能力が知れたらと思うと、日本にいさせた方がましというものだ。
「なるべく早く帰ってくるようにする」
だからそう言った。言えば、はっとこぼれ落ちるかと思われるくらい蜜茶の瞳を見開いて、か細い声で、本当、なんて訊ねるものだから、キスを一つした。乾燥のためか、少しだけかさついた唇をぺろりと舐めてやれば、うにゃあっと意味の分からない声を上げて真っ赤になった。唾液のついた麻衣の唇は艶やかさを醸し出し、扇情的だった。
腕時計を見、これ以上、留まっていられない時間を針が指していることを確認する。茹で蛸になりあがった彼女をこのままにしておくのは勿体ないが、時間は急いている。帰ってくるまでのお預けかと内心溜息を漏らす。
「ジーンと浮気するなよ」
「しっしないもんっ!」
あぁそう。呟いてから、淡い色をした前髪に隠れた額にキスをする。赤い顔のまま、ひゃ、と身体を竦めた麻衣に、二度目の行ってきますの挨拶をした。暫くの間は放心状態であったが、ナルが玄関の扉を開けると漸く我に返ったのか、ぱたぱたと駆けてきて、「いいいってらっしゃいっ…!」
どもりすぎだ。キスした場所をこつんと小突いて、ナルは下に待たせている車へと急いだ。


異常なスピードで言いつけられた用事を終わらせ、帰らせまいとせっつく手を容赦なく振り払って、麻衣が待つマンションへと帰ってきたナルが一番最初に見たものは、子猫のようにリビングで丸まって眠り込んでいる彼女の姿で、思わず疲れていた身体の力をふと抜くことが出来た、――が、ふにゃりと笑った麻衣の唇から「ジーン…」という三文字が零れて、その二秒後、可愛らしい声が悲鳴を上げることとなる。


 (081225-120208)
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