「まーんまる、おーつきさーま、」

牧歌的だとか、長閑だとかと言ってしまえば聞こえは良いが、どちらかと言えば気の抜けた、間抜けとも値するような声が開けっ放しにされたベランダへと続く硝子戸からリビングに響く。
突然、部屋に行っても良いかと訊ねられた時は訝しんだが(大体、今更断りを入れる間柄でもないのだ)、夕食を食べ終わり、風呂にも入り終わった麻衣がいそいそとベランダに出て何やら準備したらしいそれらと見れば、大凡の見当はつた。

「人の家で勝手に月見をしないで頂きたいのですが?」

彼女が風呂を出るだろう頃合いを見計らい、お茶を頼もうとナルが書斎からリビングに出てきてみればこの様だ。
蒸し蒸しと暑い夏は過ぎ、幾分熱も過ぎ去り秋となった九月中旬。昼は照り付ける太陽の所為か、さほど秋とは感じにくいが、夜になれば気温がぐっと下がり、涼しさが肌を撫でる。
そんな秋の夜気をリビングに惜しげもなく入り込ませている原因の麻衣は風呂上がりの為か、タンクトップにショートパンツという出で立ちだ。かろうじてバスタオルを肩に引っかけているが(恐らくこれも風呂上がりだったから持っているのだろう)、その格好は肌寒いように思える。

「ナルのけちんぼ。いいじゃん、ベランダくらい貸してくれたって」
「賃貸料を頂けるので?」
「ただで、って意味!」
「日本では只より高いものはなかったな」
「……一体、どんな請求するつもりよ…」
がっくし、と肩を落ち込ませる麻衣にナルは浅く溜息を吐く。仕方がない、という彼なりの合図であった。
「麻衣、お茶」
はぁい、と気怠げな声が答える。彼女がベランダからリビングへ入って、キッチンへ行く為にナルの前を通り過ぎる。ふわりと香ったのは、もう慣れた麻衣の匂い。洗剤は共有の為、同じメーカーの商品を使っているはずなのに、彼女の香りは仄かに甘く、時としてナルの頑丈な感覚を狂わす。
知らず、意識を持って行かれた数秒に溜息を一つして、ソファーに腰を落ち着かせ、洋書を開いては随分と舌に馴染んだ紅茶を待った。


「ナル、こっちこっち」
文字を追うことに集中していた意識が声に顔を上げ、手招きする麻衣を見つける。頼んだはずの紅茶は未だ麻衣の手の中で、尚かつ麻衣はナルが座るソファーを通り越し、ベランダへ歩み寄っている。そちらへ行けというのか。
「お月見しよーよ」
「時間の無駄だ」
「もー、情緒がない!」
「月見団子が目当ての麻衣に言われたくない」
タイムラグもなく与えられた言葉は確かに図星であり、少女は不服そうに眉を寄せて押し黙る。
そして数十秒、睨み合い。逸らしたら負けだと思い、月夜の闇よりも尚深い瞳をじっと見詰める。彼ご希望の紅茶は彼女の手の中で、二人が睨み合いを続ける分だけ冷えておいしさを無くしていく。
ひとつ、溜息が落とされて、麻衣はにっこり笑った。勝った。彼の溜息はほぼ承諾を意味する。たまにその意味を含まないことがあるが、今回は承諾に違いないようで、ソファーから重い腰を上げて静かに麻衣の方へ近づいてくる。
「はい、ナルはそこ座ってね」
ベランダに出た麻衣が指差すのは部屋と外の境目。ベランダに出ろと言わないだけましかとナルは素直にそこに腰を落ち着かせる。渡された紅茶を口に含む。いつも通りの味が口に広がった。

「今日はね、旧暦の八月十五日、つまり十五夜なんだよ。中秋の名月って言うの」
「安原さんか?」
「何でそう焼き付けだって決めつけるのかなぁ…」
「違うのか」
「どーせそうですよっ! でも安原さんだけじゃなくってリンさんもだもん」
リンも混じってそんな談笑をしていたのかと思うと頭を悩ませる。取り敢えず、そうかと相槌を打った。
「月って綺麗だね」
「日本では愛でる対象であるらしいな」
珍しく会話をするつもりらしいナルの返答に、月を仰いでいた麻衣は月から目を離し、きゅとんとした顔を彼に向けた。どうして、と全く素直な問いかけがそこにはあった。

「ヨーロッパでは月の光は、狂気を呼び覚ませるものとしての認識が強い」
「あ、それも聞いたかも。ルナ…」
「lunatic」
「うん、それだ。狼男が月を見て変身するのとか、それの典型的の例なんだって言ってた」

それもまた安原かリンに聞いた焼き付け刃の知識なのだろう。麻衣はまたしても月に目をやり、ほう、と淡く色付いている唇から感歎の溜息を漏らす。
静かな夜はそんな溜息すらも鮮やかに聞こえる。完全に乾かしていないのか、しっとりと濡れた毛先は頼りない小さな肩に散っている。自分用に入れたのだろうホットココアを飲む度に首を傾け、細いうなじは姿を現し、こくりこくりと上下する咽の白さに視線を束の間奪われる。

「ずぅっと昔の人も、こうやって月を眺めてたんだよねぇ」
何だかすごくすごく遠い昔の人も、同じことしてたんだって思うと、近くに感じるよね。

そう言って目を細め、微笑む横顔は逢えぬ誰かに思いを寄せる女のようで、ごく自然に不愉快さがナルの胸の奥で燻る。こんな感情、持てあますことなどなかった筈だ。
下らないと思ってみても、完璧には一蹴出来ていないものが確かに存在している。限りなく面倒だと、そう脳は判断しているのに離れていくことを良しとしない。厄介きわまりない。

「あのね、」
照れているような含み笑い。ちらりと視線を寄越せば、悪戯が見付かった子どものような瞳に出会う。淡い鳶色にきらきらと蛍光灯の光が瞬いている。
「十五夜か十三夜、どちらか片一方しか見ないのは片月見って言って、嫌われてるの」
さらさらと夜風に吹かれてススキが痩身を揺らす。月影は少女を照らし、明暗の差が少女を儚く見せ、水気を含んだ髪は光の加減できらきらと光った。

「十五夜を行ったら必ず、十三夜もしなきゃいけないんだって。それも、ここら辺では同じ所で見るものなの」

また来月一緒にね。

一方的な約束を取り付けて、麻衣はココアを淹れ直しにリビングへ消えた。
傍にいて欲しいと思ったことはない。傍にいるのが当たり前になっただけだ。いないというのが普通ではなくなっただけだ。
――そして、ふと稀に狂わせられる。身体が理性が感情が、熱に浮かされて眩暈するように正常を保てなくなる。

“月がいつもよりも地球に近づくと、人を狂わせるのだ”

意識の中に掠めた言葉にナルはその整った眉を顰め、ティーカップの中に揺蕩う月を忌々しげに睨み付けた。
彼女が近づけば、狂い出す情欲。否定できない熱を感じながら、しかし少女は屈託なく笑うから迂闊に手を出せないのが現状であった。無論熱に身を任せること自体少ないのだが、麻衣の無邪気さには時々辟易と同時に苛立ちすら湧く。

露出された肌は月の光を浴びてより一層、きめ細かく白さを帯びる。空を見詰める瞳は色が隠り、濡れた髪は吸い付くように首筋を覆い蜜色に彩る。
紅茶に漂う月を見てふと嗤った。とても、月を眺めて楽しめる気分ではない。酒でも呷るかのようにナルは常にはない仕草でぐいっとティーカップを傾け、水面に映った月ごと、ごくり、飲み干した。


(080921-111208)
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