うとうととしそうになる頭に、いかんいかんと何とか起動させようと頑張るのだけれど、どうにもこうにも、所長はお出掛け中、上司は部屋に篭もりっぱなし。つまり、オフィスにいるのは実質、麻衣一人だけだったものだから驚くほどに静かなのだ。加えて言うならば空調管理がしっかりしているオフィスは心地良く、外の茹だるほどの暑さを思うと、ここは天国だという気さえも湧いてくる。
ここ最近、熱帯夜だった所為か、寝付いた後も暑すぎて眠りが長続きしない。どうやらそんな私生活の要因も重なって、しんと落ち着いて涼しいオフィスは麻衣にとって最高の眠り場としても過言ではなかった。
(うにゅ〜…、ね、ねむいよぅ…)
どうにか目を覚まそうと目蓋を擦ってみるが、効果があるのは数秒だけで、すぐにもまた眠気が麻衣を襲ってくる。とろんとろんと目蓋が落ちては上がり、上がっては下がり。ひとたび完全に閉じてしまっても、だめだ、と思い直して開けるのだけれど、自然の摂理に従うかのようにまたゆっくりと下がっていく。
頭を振ったり、ほっぺたを抓ったり、作り置きをしているぼーさん専用のアイスコーヒーをそのままでは飲めないからカフェオレにして飲んでみても、張り付いて離れない眠気は無駄だと嘲笑うかのように、麻衣を睡眠へと誘う。
(ちょ、ちょっとだけ、なら…)
十分、いや五分でいい。それだけならきっと誰にも気が付かれずに眠れる。ナルはまだ帰って来ないだろうし、リンさんもパソコンと睨めっこだし、安原さんはまだ来ないはずだし…!
ぼやけた思考の中で幾つかの言い訳を挙げていっては良し、と拳を握った麻衣はおやすみなさーいと誰に言うでもなく呟き、自らの腕で作った枕に頭を横たえたのだった。


ごちゃり、とドアノブを回す音が響く。眠りの世界に入っている麻衣は気が付かないようだ。少女は一度眠りに就くと、そうそうのことがない限り、すやすやといつまでも眠る体質である。だが、資料室から姿を現したリンは彼女が眠っているとは思っていない様子で、手元にある資料に目をやりながら麻衣に声を掛けた。
「谷山さん、すみませんがこの資料を…」
リンの言葉が突然、切れた。言いながら資料から目を離し、麻衣がいるであろう仕事用デスクの方を向けば、そこには机の上で腕をクロスさせ、その上に頭を横たえている麻衣の姿があったためだ。
一旦、言葉を切って音をなくしてしまえば、オフィスに残ったのは麻衣の微かな寝息だけであった。すやすやと眠る少女の姿は傍目から見ても、とても和やかな印象を受ける。時折、何か夢でも見ているのか、口許が言葉を紡ぐように動く様子がどうにも愛玩動物を沸騰させる。
暫くの間、リンは何のアクションも起こさず、じっと足に根が生えたように立ち尽くしていた。度重なる調査などで幾度か麻衣の寝顔は見たことがある。何度見ても、本当に心地よく眠る子どもだと思う。
静寂の世界で少女が、「ぅん…」と小さく唸り、細い腕の上でもぞもぞと動いたのをきっかけにリンははっと我に返った。
もしかして疲れているのだろうか。そういえば最近、茹だるような暑さでぐっすり眠れないと言っていなかっただろうか。
身動ぎを繰り返していた麻衣だったが、頭を置くのに丁度良い場所が見付かったようで、またすぅすぅと穏やかな寝息を立て始めた。
リンは少し考えた後、時計の針を確認し、少女を今暫く寝かしておくことにした。恐らく年下の上司である事務所の所長はまだ帰ってこないであろうし、手に持つ資料も急いでいる訳ではない。
何よりリンの行動に決定打を打ったのは、無垢な子供のあどけなさを残す少女を起こすのは気が引けたからだ。眠る麻衣の周りだけがゆったりとした時間の流れを持っているようで、それを端から見ると触れてはいけない領域のように思える。
そこまで思って、リンは苦笑を浮かべた
日本人嫌いと口外する己が、目の前で眠りこける日本人を聖域のような扱いをして見守っているなどと。少女に出会った当時では考えられなかった事態だ。しかし、日本人という人種ではなく、谷山麻衣という幼さと強さを持ったひとりの少女を思えば、そういう認識を持つことに違和感はない。違和感はない、ということ自体にリンは己の中の感情の変化を認める。
少女は笑う。痛みも弱さも哀しみも持ち合わせながら、太陽のような晴れやかな笑顔を絶やさない。少女の境遇を思えば思うほど、その笑顔の強さにまぶしさを感じ入る。
包み隠してしまいたくなるような本音だって、彼女は厭わずぶつけてくる。リンが日本人は嫌いだと言った時でさえ、逃げず、真っ正面から反論してきた。そしてそれは正論であり、いつぞやの少年を思わせた。
かといって、今は亡き少年と少女を重ねてみている訳ではない。何より少年と比べると少女は些か活発的である。
日常に見る、少女のハツラツとした明るさを思えば、知らず知らず、目の色が優しさを帯びる。それに気が付く者は今、ここに誰もいないけれど。

もう一度、麻衣が身を捩り、心なしか肌寒そうに身を縮めたのを目にしたリンは、最初に気が付いてブランケットか何か用意すべきだったと思った。どうやら自分で考えていた以上に目ばかりでなく思考も奪われていたようだ。
そのことにまた、小さな苦笑を浮かべた。それは随分と穏やかなもので、もし少女が目を覚まし、それを見ることが出来たなら縁起が良いと喜んだことだろう。
しかし眠る少女は夢の中、肩に掛けられたブランケットにも気が付かず、けれども暖かさにふと笑ったようで、一瞬、リンはどきりとした。少女が微笑む所など見慣れている筈だというのに。
不意打ちのように思いがけず高鳴った鼓動に居心地の悪さを思いながら、ブランケットを抱き込んだ麻衣の姿を扉の向こう側に置いてきて、深く溜息を零した。やけに熱っぽい溜息だったなんて、気が付かずに。


(080821-111208)
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