だいじょうぶ、だいじょうぶ。へいきだよ。
あたしはまだ、へいき。


(やわらかな 嘘)



腹芸が出来ない人種というのはこの広い世の中において、少なからずいるものである。その筆頭であるとさえ感じる少女が青年のすぐ近くにいる。
人懐っこい笑顔を絶やさず、惜しむことなく心の内をさらけ出す少女はナルが知る人間の中で一番、嘘を吐くことを得意としない人物だ。だから、言葉の裏側にある心意を探ろうなどとその瞬間まで終ぞ思わなかったのである。

学校から直行して来たであろう麻衣は、持ち前の明るさをどこかに置き忘れたような表情で、通い慣れたブルーグレーの扉を開けた。しんとした室内に誰もいないことを確かめて、少女はひっそりと溜息を吐いた。気分が沈んでいた。心なしか身体も重たい気がする。
そんな原因は幾ら疎いと言われる麻衣だって、痛いくらいに分かっている。記憶を反芻するたびにきしきしと胸が痛みそうになる。
ここへと来るまでの二つめの大きな交差点でそれは起きた。人ひとり、見向きもしないそれに麻衣が気が付いたのは、声が聞こえたような気がしたからだ。

『  ぁさん』

え、と驚きを持って麻衣は立ち止まる。人混みの真っ只中で立ち止まった麻衣を気にする者は多くはない。大抵の者は一瞬目を向けて、すぐさま興味失せた顔をして人波を器用に通り過ぎていく。
少女がくるりと目線を動かしてもそれらしい人物は見当たらない。気のせいかとオフィスへ続く道を進もうとした。そうしたら、また、聞こえてきた。

『  あ、さん』

もう気のせいだとは思えなかった。今にも泣いてしまいそうな小さな女の子の声に、麻衣は堪らず走り出した。
仕事に遅刻してしまうとか、盛大に怒られるだろうな、なんていう普段なら思いつく筈の黒衣に身を包んだ青年の顔は、確かにお母さんと呼んでいる声に掻き消された。お人好しと、青年ならきっと呆れて言うだろうに、少女自身はそれと知らず、ただ本能的なまでに身体が動いていった。

息が切れるほど走って、麻衣が辿り着いた先は細い裏道だった。声を頼りに来たつもりであったが、やはりそれらしい子どもは見当たらない。
(ここ、どこだろう…)
見たことのない場所だった。幾ら裏道だったとしても、大都会の真ん中である。遠くから聞こえる騒音や下校中の学生があってもいい筈であろうに、全くその気配は見受けられない。
(…もしかして、…ゆめ、とか?)
一瞬自分でそう思って、まさかと否定する。何しろ麻衣は走っていたのだ。走っていたのに眠るなんて、幾ら何でもありえない。

『おかあさん』

本気で眠ってないよねと、心配になって来た麻衣の耳に届いた声。はっとして声の方へ目をやれば六、七歳くらいの女の子がいつの間にか立っていた。
小さな肩を落とし、手のひらで顔を覆っているのは、次から次へとこぼれ落ちていく涙を拭っているからだろうか。
涙に濡れた声で嗚咽と共に吐き出されるお母さんという言葉。切ない声は絶対の存在を見失った恐怖で摺り切れそうなほど忙しなく、不安に揺れ動く。
それはとてつもないデジャブに襲われる光景であった。


気が付けば麻衣は、GWも過ぎ去った五月中旬の大都会の中にいた。先程の人気の無さは嘘だったかのように麻衣の周りは東京の帰宅ラッシュで人が溢れかえっている。
妙な浮遊感が全身を包んでいるようで心許ない気持ち悪さと若干の吐き気に見舞われながらも、麻衣はぼんやりとした意識の中でオフィスに行かなければいけないことを思い出した。
(そうだ、…バイト、)
生活の為に働かなくては文字通り生きてはいけない麻衣は、身体の怠さを無視して早足でオフィスへ向かう道を駆けていったのであった。

ぼすん、と力を抜いて椅子に腰掛ければ、ぐったりとした様子で机にへたり込んだ薄茶色の頭。
もやもやとした気持ちが心の奥で絡み合い、解けなくなってしまっているようで、不安になる。ぎゅっと胸の辺りを握り締めた。かたかたと細かく揺れる手を見詰めて、(服、皺になっちゃうな)
麻衣は小さく苦い笑みを浮かべた。今にも泣き出しそうな顔だったことだろう。

泣いていた子どもは、幼い頃の自分にそっくりだった。母を亡くしたのはもう暫く後のことだったけれど、父が天国にいるのだと知った頃の自分に似ていると思ったのだ。
その頃の自分は天国にいる父に会いに、母は行ってしまうのではないかと恐怖していた。行かないで、とは言えなかった。けれど無性に怖くなって、置いていかないでと泣きじゃくって母を困らせた記憶が微かに残っている。
その時、母はにっこりと微笑んでどこにも行かないよと言ってくれた。頭を撫でて背中をぽんぽんと叩いてくれて、無償の愛に揺られながら眠りについた。
結局、その数年後に母は父と同じくこの世を去っていった。

途方もない空虚さにただ呆然とするだけで、母が亡くなって少しの間、泣くことすらも忘れていたような気がする。
両親ともに親戚はおらず、残された自分も必然的に天涯孤独の身となった。哀しみを追い出すようにやって来た葬式や引っ越しなどの忙しさに、麻衣の中で実感は薄れていた。
けれども夕刻、引っ越し先の家に帰り、玄関のドアを開けた瞬間、思い知った。ただいまと出かかった声が咽の奥で急に塞き止められて、掠れた音がはみ出した。
外と変わらない冷たい空気、電気の点いていない家、殺風景な部屋、おかえりの言葉が耳を掠めない。
よたよたと部屋に入り、そうして麻衣は崩れ落ちるように泣いた。
その時になって漸く夜通し涙を流した。それが数日続いて、落ち着いて、時にふとした拍子に泣いてしまったが、高校に入りナルに出会い、仲間という家族に出会って気が付けば殆ど泣くことはなくなった。


(だいじょうぶ、だいじょうぶ、)
何度も何度も繰り返す言葉。それは無気力と絶望の中で止まらなかった涙を止める為に覚えた、幼い少女の絶対の呪文だ。
幼い頃、母が、そして多分、朧気にしか判らない父が泣く自分を慰める為に使った言葉だ。暖かい腕に抱かれて頭をゆっくり撫でられて、程良いリズムで背中をぽんぽんと叩かれる。
もうなくしてしまったその気配が全身を包んでくれる気がして、あぁもうだいじょうぶだと自分に言い聞かせる。
出会った女の子は幽霊か、幻か判断できないけれど、麻衣の心を酷く揺るがせたのは事実だ。どくりどくりと波打つ心臓を落ち着かせる為に麻衣は呪文を唱え続ける。



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