「まーい」 空から(とはいってもこの空間において、そこを空と呼ぶのかは不明である)降ってきた柔らかい声に、ふにゃふにゃと頬が弛むのを麻衣は感じた。優しい毛布に包まれているような、そんな心地がして酷く幸せに思える。 「麻衣? 寝ちゃってる?」 「うにゅー、もうちょっとぉー…」 「…完璧に寝ぼけてるよねぇ、麻衣…。ここ夢なんだけど」 器用なことするなあと半ば感心しながら、困ったなぁとさして困っていなさそうな声でジーンはひとり呟く。 ちらり、と目線を下げれば、ごろんと寝転がってすやすやと夢の中で眠っている麻衣の姿。すぴすぴと寝息をかきながら幸せそうに眠っている姿は、起こしてしまうのが躊躇うほどで、出来るならばこの愛らしい寝顔をずっと見ていたい気にさせるのだが、しかし彼にはあまり時間がない。 調査中でもないのに麻衣と夢の中で会うことは麻衣の日常生活に負担が掛かるだろうし、彼もまたそろそろ眠くなってきた。間近でこんな健やかな眠りを見ているからだろうか、こちらにまで眠気が襲ってくる。 しかし彼、ジーンには成すべきことがあるのだ。その為に無理にでも麻衣の夢で会うことを決意したし、幸せそうに眠る麻衣を心を鬼にして起こそうとするのである。 「麻衣、ごめんね。でももう時間もないから…、麻衣? 起きて」 ゆさりゆさりと申し訳なさそうに、しかし確実に相手を起こそうとする意志を持ってジーンは麻衣の肩を揺すって起こそうとする。 うぅー…ん。悩ましげな声が唇から漏れて、それにジーンは少しの間、手を一旦停止せざるを得ない状況に置かれた。ジーンの口からもこれまた悩ましげな溜息が吐かれ、「まぁい」と幾分情けない声色で、未だ眠っている夢の中で眠る少女の名を呼ぶ。 思いが通じたのか、ゆっくりと開けられる目蓋にジーンはそっと微笑む。眠たそうに目尻を擦る姿は子猫のように愛らしい。 「……じ…、ぃん…?」 「そうだよ、麻衣。ようやく起きてくれたね」 まったく、夢の中でも寝るなんて、本当に器用だね麻衣は。あからさまに呟いてみせたジーンに、頭の回転が付いてきた麻衣は顔を赤くして、すみません…と尻窄みでぺこりと頭を下げた。 「ん、良い子良い子」 なでなでと頭を撫でてやると麻衣は一瞬、きゅとんとして、照れ臭そうに微笑った。その笑みにほっと息を吐いた。やはりこの少女の笑顔はほっこりと胸をあたたかくする。 「え、と、…ジーン?」 「なに?」 「えー、何っていうか…。何かあったの?」 小首を傾げて訊ねてくる麻衣に苦笑する。確かに調査中以外に麻衣がジーンと会うことはない。一部、例外中の例外を除いて。 「ん、ちょっとね。今日中に、出来れば一番最初に、麻衣に伝えたいことがあってね」 「…伝言?」 「んー、ちょっと違うかなぁ」 ちょいちょい、と手招きすると素直に寄ってくる麻衣。腕を広げてぎゅっと抱き締めたい衝動に駆られるけれど、それが出来ない立場にある自分を十二分に理解しているから彼はぐっと我慢する。 さらりと零れる茶色の髪をそっと耳に掛けてやり、露わになった耳に唇を寄せてそっと囁くようにジーンは言った。 「誕生日おめでとう、麻衣。君に出会えて僕は嬉しいよ」 神に感謝するその意味をこの子に出会ってようやく知ったのだ。 * どきどきと未だに鳴る鼓動に、麻衣は足取りが軽くなるのを感じていた。朝目が覚めて、切なく、そしてこれほど幸せに感じたことは恐らくないであろう。 実ることもない恋は、まだ麻衣の中で燃え切れない火のように燻っている。けれど叶わないと思っている初恋の相手に、誕生日の祝いをして貰うというのはなんたる至福か。 渡すプレゼントがなくてごめんねとジーンは謝っていたけれど、彼が会いに来てくれて祝ってくれただけで十分なプレゼントなのだ。 学校へ行き、友人知人先生後輩男女問わず「おめでとう」と言ってくれる喜びが身に沁みる。良い香りのする手作りお菓子の類を渡された時には、思わず抱き付いてしまったほどだ。 そうしたことが重なっている麻衣としては顔がゆるゆると緩むのは半ば仕方がないことで、渡されたプレゼントと言葉を思い出しては幸せに浸りながらオフィスまでの道のりを歩いていた。 からんと涼しげな鐘の音が鳴り響く。こんにちはー。元気の良い声がオフィス内に木霊する。 「…あれ?」 入ってみれば人っ子一人見当たらない。もしかして入るドア間違えたかと麻衣は後退りしてドアを跨ぐが、きちんと扉には洒落た金色で事務所名が書かれている。 小首を傾げながら入ったり出たりしたドアを見詰めたが、何か変わる訳でもないと結論付けて麻衣はオフィスに入り込んだ。 全員集合、とまでは行かないにしろ、同じバイト仲間である安原や滝川辺りはいそうなものである。 もしかしたら買い物に出掛けていてそのメモ書きがあるかもしれないと、安原のデスクを見るが綺麗に整頓された机の上にはそれらしき物は見当たらない。 (ま、その内誰か来るよねー) 恐らく部屋に篭もっているであろう所長と、上司と自分用に紅茶を淹れようと麻衣は給湯室へ入った。 香り立つ紅茶を手にして戻ってきた麻衣はまず先にと、所長に持って行こうとノックをしようとした。ら、その前にがちゃりと扉が開き、変わらずの黒衣で纏った男がこれまた変わらずの無表情で現れた。 「あ、ナル。紅茶淹れたよ」 ナイスタイミングーと、若干浮ついたというかほわほわしたような声が響く。それを少し不思議そうに見詰め、通常リンが篭もる扉へ向かおうとした麻衣にナルは声を掛けた。 「…リンはいない」 「へ? そうなの?」 そっかぁ、淹れ損だったかなあと残念そうな声で呟く。こっち?それとも所長室?と訊ねる麻衣に、ここで、と答えると元気の良い返事をし、そっと麻衣はカップを机の上に置いた。 「飲んだら出掛ける」 「へぇ、そうなんだ。行ってらっしゃい」 「……お前も行くんだ」 「え? な、なんで?」 ナルは一瞥麻衣を見ると、如何にも面倒だと言ったような溜息を吐いた。そのまま黙って一人掛けのソファーに腰掛け、麻衣に渡された紅茶を飲み始めた。 (あんたには親切心ってもんがないんかい!) もう既に、というよりも最初からであろうが、説明する気ではなくなったナルを横目にしょうがないなぁと思えてしまう辺り、慣れというものは恐ろしい。 麻衣も淹れた紅茶を手にソファーに腰掛け、仄かに湯気が立つそれを一口、口に含んだ。時々鳴る、こくりこくりという紅茶を飲む音以外存在しないようなオフィス内で麻衣は比較的落ち着いた様子でいた。 慣れとは恐ろしいもので、無口無表情のナルが醸し出す雰囲気に戸惑った日々が懐かしいほどだ。 ナルの雰囲気にも色々あることに気が付き、今現在はそれほどまで機嫌は悪くないらしい、ということが分かるまでになった。何も音のしない空気に落ち着かない時もあったが、寧ろこれがナルの標準だろうと思ってしまえば案外平気だったりする。 しかし初対面の人には何かと威圧感を与えてしまう雰囲気を持つナルに、(損してるよねぇ)と思うが、ナル自身はさして気にしている風もないので、慣れてしまった麻衣は、まぁいっかあ、とあっという間に考えを切り替える。 「…まだ掛かるのか」 「へ?」 「…出掛けると言っただろう」 「あー、それは聞いたけど、なんであたしも一緒に行かなきゃなんないのかは聞いてないよ?」 元来の負けん気を発揮させ、打てば響くようになった麻衣(加え無敵の笑顔を手に入れている)に思わず深い溜息をナルは吐いた。 「なんだよー。ナルが説明してくれないからでしょー?」 ぷくり、と頬を膨らませた麻衣に密かに眉を寄せながら、ナルはここにきてようやく説明の為に口を開いた。 「麻衣を連れてくるように言われたんだ」 「…誰に?」 「暇を持て余しているような奴らに」 ナルにそんなことを頼むなんて…、と恐ろしいやら感心するやらで麻衣はリアクションにちょっと戸惑った。 「え、えーと、なんで?」 機嫌悪くなるよねーと内心考えながらなるべく笑顔で、と気を付けながら尋ねたが、意に反してナルは機嫌を急降下させることはなかった。 (うにゃ?) 若干驚きつつ小首を傾げる。何か特別機嫌のいいことがあったのだろうか。 「7月3日」 「え?」 「麻衣の誕生日だろう」 驚きを隠せず、少女は鳶色の目を見開いた。イベントごとにはとことん疎い、というよりも興味がないナルの口から誕生日の単語を聞いたのだ。驚くなという方が無理だ。 「準備があるから、麻衣には内緒にしていたらしい。…後から麻衣を連れてくることが僕の役目らしい」 面倒なことだと呟きながら、けれども役目を果たそうとするナルに麻衣は茫然状態からやっと抜け出し、徐々に昂揚する。 「それって、…ナルも、祝ってくれるってこと?!」 突然大声を出した麻衣に少々驚いた顔をしたナルだが、何も言わず肩を竦めた。 どうやら、そういうことらしい。 どきどきと嬉しそうに高鳴る鼓動に、またしてもふにゃりと麻衣の顔が弛む。 「弛み切った顔をするな」 そう言ってぺちんと軽く叩かれた額に触れて、また麻衣は笑った。 「ありがとねっ、ナル」 今朝から、正確には夢の中から幸せいっぱいの日だったように思う。しかもこれから仲間達にお祝いをして貰えるのだと思うと、締まりそうにない顔も仕方がない。 えへへと笑い、すでに扉の前に立っているナルの横に倣って立つ。 麻衣、と呼ばれ、出会った頃以上に広がった身長差に麻衣が顔を上げると、夢の中の彼のように柔らかい髪を耳に掛け、最もよく耳にするであろう英語のフレーズを聞く。 「Happy birthday」 ▼ (080710:111013) |