どうぞ、と聞き慣れた少女らしい高い声音が響いて、大げさなくらいひょっこりと持ち上げられて入りやすく傾けられた傘を持つ手はまろやかで小さい。迎えはリンに頼んだはずだがと、やや訝しんだナルの目の前には、これまた見慣れた少女が傘を差しだしたまま、立っていた。

(世界は美しくなんかない)


ことの始まりは小一時間前に遡る。頼んでいた本が届いたと事務所の電話が音を鳴らして告げ、早速と出掛けたナルの頭上に降ったのが雨だったのがこのような結果を招いた始まりだ。
降りそうだとはなんとなしに思ってはいたが、雨粒が落ちてくる前に帰れると思った上に傘を持つのは邪魔になる。
良いだろうと思って出掛けたのが、計算間違いだったことに気が付いたのは店を出て暫く歩いた時だった訳である。

雨脚は徐々に勢いを増して、今日一日は止みそうにないのではと人々に思わせる。育ったイギリスでは雨などしょっちゅうだが、日本の雨のようにじとじととまとわりつくようにしつこいことはないから、多少濡れたとしてもすぐ乾き、気にするほどでもない。
しかし生憎とここは英国とはほど遠い、日本だ。
思わず品の良い唇から漏れた溜息にナルは仕方なく、コートに仕舞い込んだ携帯を探る。傘を持ってきてくれと電話を受け取ったのは確かにリンであった筈だ。けれども、実際来たのは傘を一本しか差していない麻衣だった。
「ちょっと事務所に行くの遅れそうだったから、電話したの。そしたらナルが雨で足止め食らってるって聞いて、ついでだから」
余計なことを、とナルはその美しい顔を歪めるが、麻衣は遅くなったらナルに叱られそうだと思い、こっそりリンにナルのご機嫌具合を聞いたのだ。それが転じてナル不在を知り、理由を知るに至った。それだけの話だ。

だから、どうぞ。麻衣は言葉を再度告げて、傘を持ち上げる。柄の付いていない、仄暗い雨空によく混じる深い緑色の傘だった。
麻衣だって年頃だ。傘と言えども可愛らしい物を手にしたいと思うであろうが、彼女の身の上が簡単にはそれを許さない。恐らく、柄の付いた少々お値段のするものではなく、セールなどで安く売られていた無地の傘を買ったのだろう。
ナルはそっと溜息を吐く。ここで麻衣の傘が可愛らしい柄付きの傘であったらそうそうのことがない限り、入らなかったであろう。人の目を気にするほど柔な神経をしている訳ではないが、自ら進んで入ろうとは考えもしない。
だが麻衣の差し出した傘は、男が差していても何ら不自然ではない深い緑色だ。そういう意味での入りたくない理由はなかった。もうひとつ、溜息を吐いてナルは傘の中へと入り込んだ。


「あ、傘はあたしが持つから」
彼が麻衣の手から柄を取ろうとすると途端に少女が断った。何故だと視線を寄越せば、麻衣は本は重いんだよとナルが望む答えとは少し外れた位置にある答えを寄越す。
日本語を話せ、と言えば麻衣は話してるやいと頬を軽く膨らませた。彼には遠慮という者がない。今更、そんなものを寄越されても薄ら寒いものがあったけれども、減らず口を叩かれるのは仕事中だけで十分である。
「だから、ナルが傘を持つと、ナルの本はあたしが持たなきゃいけないでしょ?」
「当たり前だ」
「それ、嫌なの。だって重いし濡れたら怒られるし、それなら傘持ってた方がいいもん」
なるほどと納得する。そう言われれば麻衣に本を持たせるのはあまり得策ではないように見える。案外気の利く彼女が本を濡らすような過ちを犯すとは限らないが、麻衣にはうっかりという表現がお似合いのアクシデントをしでかす癖がある。
だが実際にナルが麻衣に本を渡そうとするのは、濡らさぬよう努力する彼女を知っているからである。けれども、信頼しているということをあからさまに出すのはナルにとって億劫でしかない。
だから何も言わないで彼女の好きにさせようと思ったが、ナルは自分が麻衣より身長が高い点に気付いたのだ。それはつまり、麻衣が腕を普段より上げて傘を差さなければいけないことになる。そうしなければナルの頭に傘がぶつかってしまう。
一人以上で傘を差すならば、その中で一番背の高い者が差すのが最も厄介がないだろう。加え、ナルは天上天下唯我独尊的だと麻衣、その他諸々の人間にしばしば言われるが、英国で育った所謂英国紳士だ。女の子に傘を持たせるのは違和感を感じるのであまり本意ではない。
「僕が持つ」
「嫌だい。ナルのその本、どんだけ重いと思ってんの? 気を利かせてくれてるんなら、そっちの方向に使って欲しいね」
出会って数年、打たれ強いというか、打てば響くような少女はナルへの対処法と共に口の方も十分に成長しているようだった。
少女の言い出したら聞かない意固地を知っているのでこれ以上は無駄だと思い、個人の主張を尊重する形で落ち着かせることに決めた。

暫く道玄坂をずっと歩いていくと人影が散ってきた。雨音に足音が紛れて聞こえないと言うが、単純に雨が降れば足を遠ざけるだけではないのかと、しとしとと傘に弾ける雨の音を聞きながらナルは彼にしては珍しくそんなことを思った。
そうして唐突にふと気が付く。
女性の傘は大概男性の傘より一回りほど小さい。麻衣の傘も見た限りではそうだった筈だ。二人も傘の中に入ればどこかしら濡れてくるであろう。しかしナルのどこにも濡れる気配は全く感じなかった。
些細な違和感を思ってナルは前を見据えていた視線を横にいる麻衣へ向ければ、やはりと内心溜息を吐く。同時にどうして気が付かなかったと、自分の思考の甘さに今日はどうかしていると頭を振りたくなる。

彼女の着ている白いコートは斑模様を作って薄黒く濡れて染みを作っている。主に肩の部分だが、ウエストから下へ行く程広がっているコートの裾も濡れていることだろう。
反して、当人の麻衣は気にした風もなく歩いている。コンクリートに溜まる水を撥ねないようにいつもより歩みはゆっくりであり慎重である以外、何ら変わりはない。
不覚だとナルは思った。麻衣はナルが濡れないように、自分が濡れてしまっても構わないほど傘の軸をナルの方へ寄せていたのだ。如何にもお人好しの麻衣のしそうな行動であった。考えれば気が付くことだというのに、今の今まで気が付かなかった自分が不覚だった。

「麻衣、傘を戻せ」
「…?」
歩みはそのままに、本気で何を言っているのか分かっていない顔を麻衣はナルに向けた。こいつは、とナルは整った眉を寄せる。無自覚らしい。
「肩を濡らしているだろう。…普通に持て」
ナルがそう言えばようやく、…あぁ、と納得したような麻衣が頷いた。ところが、傘の軸を戻すかと思えばそのまま何事もなかったように歩く。
「…麻衣」
「なぁに?」
「聞こえなかったのか」
「聞こえたよ」
なら何故、と幾分か不機嫌になった声が麻衣を責めるように吐き出された。
責めている訳ではないのだが、声のトーンからしてそうとしか聞こえない。こういう所が損をしているというのだと麻衣は思うが、ナル自身は損とも得とも思っていないのでどうしようもない。
「だってさ、ナルのコートってすっごく高いでしょ?」
「…だからどうした」
否定しない所が嫌味だと麻衣は思ったが、睨むようにこちらを見るナルに説明を早めた。
十代の、けして短いとは言えない時間をナルと過ごしたのだ。冷え冷えとした目付きは慣れたけれども、反射的に身が竦みそうになる。それも一種の慣れの延長線だろうかと麻衣は考える。哀しいことに既に癖だ。

「だから濡らすのは嫌なの。染みとか作っちゃったら怖いんだもん」
それだけでと唸りそうになるのをナルは踏みとどまる。どこまでも他人のことしか考えていない様子が少女の声の調子から窺える。
ナルのコートが濡れたとしてもそれはけして麻衣の所為ではない。小さな傘に二人で入っているのだ、致し方がないことだ。ナルとて、それを分かっているのだから染みが出来たとしてもクリーニング代を麻衣に請求するつもりはない。
けれども、麻衣はいっそ我が儘なほどそれが嫌だと云う。

「お前が気にすることじゃない」
「そりゃそうだけどさ、何か嫌なんだよね。一体どれくらい高かったのか、とか考えちゃうと、どうしても、ね」
ひょい、と肩を竦める拍子に突き出ている露先から滴が彼女の肩に急落下した。気にも留めず、貧乏性だねぇと麻衣は一人呟いた。

馬鹿か、と言いそうになるのを押し込める。馬鹿なのは随分と前から知っていることだ。そこまで麻衣が考えなければいけないことではない。たかがコートが濡れるだけだ。麻衣が、自分の白いコートと肩を濡らしてまで気にするほどではないのだ。
(馬鹿が付くほどお人好しだ)
見ていてつくづく思う。既に鬼籍の人となっている兄も、同じく溜息を零したくなるほどお人好しだった。けれど、もしジーンならば己の肩を濡らさず、濡れない為と称してぴたりとくっついただろう。
そこにジーンと麻衣の違いがはっきりしているように思える。どちらも同じようにお人好しであるが、ジーンは度合いにもよるが、あまり自己犠牲はしなかった。危険だと思えば見切りを付けて身を引く術を知っていた。自分の手が届く範囲を把握出来ていた。
しかし麻衣は違う。危険だとしても感情に身を任せ、瞬間的に判断を下す。その結果、麻衣自身が怪我を負ったりするのだが、その瞬間的な判断は常に正しい。勿論、少女の身を心配する周りの者は幾度となくやきもきさせられているのだが、麻衣は反省しながらも後悔なく良かったと笑うのだ。

良い意味でも悪い意味でも、彼女は他人にのめり込みすぎだ。それが時に煩わしさや危険を呼び起こす行為だとしても、麻衣は彼女の本質であろうそれを曲げない。
けれども恐らく、そんな馬鹿なお人好しではない麻衣など麻衣ではないのだ。きっとそうでない彼女になってしまったのならば、ナルは失望してしまう。
そして彼は失望、という言葉が頭を掠めてそこに至る思考に眉を寄せた。苦虫を噛み潰したような感覚が胸を覆う。失望など、余程の期待をその人物に抱いていないと起こり得ない感情だ。又は、理想だ。
(麻衣に、理想?)
お人好しであることを理想としている。否、それは揺るぎない事実である。
彼は、彼女の存在自体が美しいのだと認識しているのだ。だからその認識と現実とが違えば失望する。

(美しい、と思っているのか、僕は)
確かに本人はまるっきり自覚がないようだが自分を二の次にして、放っておけないと言って他人に関与する誠実さは人として尊ぶべきなのであろう。あの細く小柄な身体には底知れない力が潜んでいるような気さえする。ころころと変わる表情は見る者の目を奪い、浮かぶ満面の笑みは時に人を安心させ勇気付け支えとなる。
素直な彼女はすぐ笑ったり怒ったり、誰かの為に悲しんだりする。もう随分前に感情を素直にさらけ出せなくなった者達にとって、そんな麻衣の存在は唯一の良心に近い。
ああそうかと、まるで本棚に入りきらなかった本がようやく、正しい位置に納まったように途端にナルは理解する。麻衣はふとした拍子に触れられなくなる聖域だ。

気が付いた感情に蓋をして目隠しはもう出来ない。未だ全貌を見ることは叶わないが、時間が経つにつれ、徐々にそれは姿を現すだろう。何でもないと高を括れば、余所見することすらままならぬ蠢く感情の渦がナルの眼前にどっしりと腰を下ろしていることだろう。
(厄介だな)
心底、とどっぷりと重たい溜息でも吐きそうな心地で思う。寄りにも寄って、その感情の根源は今現在、ナルに一番近い異性、もしくは人物である麻衣だ。咽につっかえる苦々しさを吐き出したくなる。

「ナル?」
歩みの遅くなったナルに麻衣が声を掛ける。どうしたの、と。その声がまるで神に仕える神聖な何かのようで――深い信仰を持っている訳ではないが、育ったお国柄が沁みているのかも知れない。神という存在がすぐさま思い浮かんだ――どうかしていると自分を叱咤し、あまりの巫山戯さに頭痛が襲う。今日は本当に、どうかしている。
ぴしゃん、と音がした。完全に歩みを止め、二人は対峙した。ナル、ともう一度呼んだ彼女の方を見る。
白いコートが雨の滴によどんでいるのを見つけて、触れられない聖域が侵された気分にさせられる。
「ナ、」
ル、と続くはずであった麻衣の言葉を遮った。
「気持ち悪い」
眉目秀麗な、他人に言わせれば出来過ぎた顔を歪めた。
「吐き気がする」
お人好し過ぎる彼女か、己の彼女に対する認識か、汚れた染みにか、ナルは、吐き捨てるように言った。


 (080505:111012)
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