何度目か分からない些細な喧嘩を引き起こして、滝川の自称可愛い娘は泣いていた。豊かな表情を持って生きている少女はよく笑いもしたし、たまには泣いたりもしている。その原因が同情以外であるならば、十中八九、上司兼恋人である天上天下唯我独尊的な博士、通称ナルにある。
喧嘩と言っても内容は、そのナルの生活破綻ぶりの所為だったり基本的人間の営みの不一致だったりする訳だが、喧嘩方法も相対的ではなく麻衣からの一方通行で終わることが多い。麻衣にしてみれば不完全燃焼であろうし、余程のストレスを溜め込んでしまうだろう。
悔しそうに唇を噛みしめ、目の縁にうっすら涙を浮かべている姿は滝川にとって見るに堪えない。その度にどこか連れて行ったりして慰め、辛そうにけれども嬉しそうに笑う麻衣は贔屓目を差し引いても愛らしい。
本当に辛いならパパに言うんだぞ。そう言って何度も麻衣の頭を撫でたか知れない。しかしいつだって二人の距離は一定以上広まることはない。

けれどもいつまでも黙って見ていられるほど、寛大ではいられない。(だって愛おしいあの子のことだもの!)


「なぁ、ナル坊」
珍しく事務所には所長であるナル以外、誰もいなかった。一週間ぶりに事務所を訪ねた滝川はその一週間に何があったのか分かりもしないし、やけに静かな空気の意味も知らない。でもたまたま街で見かけた可愛いあの子が沈んでいたことは知っている。
「お前さんは麻衣を大切にしてやれるか?」
滝川専用に作り置きをしているアイスコーヒー。勝手知ったるでグラスに注いだそれは未だ手を付けられていない。じわじわとグラスは汗をかき始める。
ちく、ちく、と時計が刻み、ぺらりとナルの指先が洋書の頁を捲る音が重なる。静かだと思った。あの子がいないだけで、こんなにも冷ややかで寂しいものなのかと目を竦める。
「ナル坊、聞いてるのか?」
「それを答える必要は?」
億劫そうに答える様子から見て、話はちゃんと耳に届いているらしい。あまり集中できていないのだろう。麻衣がいないこの状況に目の前の彼も辟易しているようだ。(自業自得)と心の中で呟いた。
「まー、お前さんが何だかんだ言いつつ、麻衣のことを好きなのは分かる」
「それはそれは」
「でも、な。…大切にしてるか、っつーと、それは分からんな。確かにお前さんにしちゃあ、破格の扱いだろうよ。でもなぁ、そう毎度毎度可愛い娘の沈んだ顔は見てらん」
静と動のような二人にはかみ合わない部分が多い。けれど愛しいあの子が好きだと言うのだから幸せになって欲しい。
「もうちょい、麻衣に優しくしてやることはできないのか?」
元気で弱い所を見せたがらない少女は寂しがり屋のくせに甘え下手だ。こちらが甘えても良いのだと意思表示しなければ、上手に甘えられない不器用な子だ。
彼が静寂を好み、研究に没頭したがるのは今更のことだから分かるが、寂しがるあの子の為に少しだけでも時間を割いて欲しいのだ。

僕は、とナルの声を聞いて、いつの間にか頁を捲る音が聞こえなくなっていたことに気が付いた。どうやら話をちゃんと聞いていたらしい。
「僕は麻衣の父親になりたい訳じゃない」
無条件で大切にするというのは、絶対の庇護者になると言うことだ。冗談じゃない。そんな気持ちで彼女に接することなど既に不可能だ。時として触れる指先にでさえ欲情すら混じるというのに。
「父親役はぼーさんで十分だろう」
鋭く光ったような暗闇の瞳は吐き捨てるように言った。悪態を吐きたいような気分が滝川の胸に迫り上がってきた。あくまでも自分は恋人で、こっちは所詮恋人にはなれないのだと云う。
突き放したその言葉は、紛れもない布告状だ。

なんて小憎たらしい!(出来るならば俺だってあの愛しい子の父親ではなく恋人でありたかった)


恋人vs父親(GH) (090527―110921)

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