都会の夜は暑い。幾ら夏が残暑に入り込み、夜の気温が若干下がってきたとはいえ、眠らない人々の熱気や高層ビルが空へ押し上げる地上の熱…、こんな密集地帯を更に蒸し暑くしている原因が山ほどある。
日本の気候は基本的に彼にとって好ましいものではない。我慢できないほどではないが、まとわりつく空気の不愉快さには辟易する。
それ故に夏は大抵(そうでなくとも調査以外で出掛けることなど稀なのだが)、エアコンの行き届いた室内(主に所長室か書斎)にいることが多い。付け加えるならばエアコンの設定温度は23℃前後であり、この数字を見た麻衣が悲鳴を上げながら温度調整するのが恒例の風景となっている。

せめても、25℃!いやできれば26!

------電気代、エコ、身体に悪い、と三拍子揃えて、彼女はやかましく攻めてくる。それでも尚、一向に妥協しないナルの設定温度に麻衣はふっくらと頬を膨らませて怒るのだ。
そもそも麻衣は電気機器類作り出す冷たい空気が苦手なのだ。また、節約家の彼女はアパートでも極力扇風機に頼り、普段から人工的な冷気に当たることが少ない。
一度、麻衣が冷房の効きすぎで参ってしまったことがあった。暑い外と寒い中を行き来していた所為で冷房病になってしまったようで。以来、オフィスは所長室と機材室を除いた全てが26℃設定になった。

マウスを滑らせ、殆ど完成した論文を保存すると同時にパソコンの電気を落とす。今日---実際には日を跨いでいるのだが---はこれで終了にしようとディスクを立った。
ここ最近は論文にかかりつけで、睡眠も食事も、生活に必要な一定基準を満たしているとは言えない日常を送っていたから、二三日前から麻衣が本格的に心配し始めている。
勿論、彼女が彼の生活態度に著しい疑念を持っているのは常日頃からではあるが、ナルはナルで自分のペースをよく理解している為、普段であればそこまでとやかく言う必要はない。----けれども常日頃から口をついて出る小言は彼が心配だからだと、彼女はいつか頬を赤くして言っていた。
しかし、研究が関連してくるとものの見事にあっさりと食事睡眠を切り捨て、研究に一日の時間を費やす。それが一日二日程度ならばまだいい方なのだが、一週間二週間と続くと白皙の面はより一層白さを増し、不健康万歳と銘打っても良いほどに生活バランスが崩れてくる。
麻衣は最初、子どもを叱るように注意し、段々とその怒りの態度を上げていき、喧嘩騒動一歩手前まで辿り着くのが恒例なのだが、最悪の場合、大きなあの瞳いっぱいに涙を溜めてぎゅっと唇を噛みしめながら攻めてくる。
麻衣のその泣き顔の効果は絶大で、時折、ナルはわざとしているのではないかと疑いたくなる。こんな状況下に置いて、彼女がそのような腹芸が出来るほど器用でないと分かっているのだが、少女の望み通り休憩を取ると、途端花が咲いたように笑う、その笑顔を見ると思わず端整な顔を顰めたくなる。


寝室の扉を開ければ、彼にとってぬるい、と感じる温度の中、鮮やかな薄茶色を闇に融かして眠る麻衣の姿があった。設定温度は27℃。しかもタイマー付き。温度を変えたくなるのを抑え、ベットの片隅に寄って身をちぢこませる少女を見遣る。
タンクトップにハーフパンツ。タオルケットをお腹に巻くようにすやすやと眠る麻衣は、寝苦しさを感じないのだろうか。否、寝苦しさを感じないよう、その格好なのであろうが、剥き出しの肌が暗闇にうっすらと浮かび上がって否応にもそちらに目がいく。
ごろごろと動く寝相のせいで本来服に隠れている場所さえも、健康的な滑らかな肌が覗いている。こんな暗闇で肌が滑らかかどうかなど、分かるはずもないが、少女の肌がどれほど柔らかいかは彼が一番よく知っている。その感触をふいに思い出して、心の内で舌打ちをする。---音にしなかった分だけ、まだ理性が強く働いていた。

暑いからと言って薄着になっていく彼女に、温度を下げて服を着ればいいだろうと言ったことがある。エアコンの風は苦手で余計疲れちゃうから、やなの。そう不満そうに呟き、暑さが増す分だけ彼女の露出が増えていった。
むやみやたら知りもしない奴等に肌を見せるつもりかと思っていたが、仮に恋人である自分に対し、こうも無防備に素肌を見せ付けてどうかなるとは思わないのだろうか。
溜息が洩れる。恐らく、否、高い可能性で麻衣はそんなことを露とも考えないのだろう。可能性すらも思い浮かばないかもしれない。
その態度を信頼と受け取れば良いのか、男として見られていないものだと考えればいいのか。けれども、彼が男であることをこの世で一番身を以て知っている筈なのだから、ここは差し出されているものだと解釈するべきか。…などと、下らない思考を巡らせる。

人工的に作り出される適当な温度の空気を厭う麻衣と、湿り気を含んだ猛暑に冗談じゃないとばかりに文明の機器を利用するナルは対称的でちぐはぐだ。
基本的に麻衣がいる場所では麻衣の好きな温度にさせているが、寝室がこれでは麻衣が良かろうとも、ナルが眠れない。眠れるだろうが、若干の寝苦しさを感じることになるだろう。
そもそも、夏になると光熱費が、と嘆く麻衣をじゃあこちらにいればいいだろうと言って住まわせているのに、勿体ないと言って有効活用しないとはどういうことだと、ナルは麻衣の節約振りに溜息を吐きたくなる日々を送っている。
少女の今まで歩んできた人生を思えば、その倹約振りは納得出来るものであり、偉いと褒めても良いことであろうが、こうしてナルの加護の下にいても尚、それを発揮する麻衣に思わず遠慮するなと言いたくなる所だが、当人にとってはそれが至って普通であり、寧ろ今の現状でさえも贅沢と称するだろう。
だから、地球に優しい27℃、タイマー付き。
(しかし、これでは僕が暑いんだが…)
すやすやと眠りこける娘にとっては適温だとしても、だ。

---最も、彼の場合、普段着同様、根っから年中長袖長ズボンのスタイルを崩さない故にその季節に適した服装をしている麻衣みたく、温度調節をしていないのが要因でもあるのだが。
本当に嫌で寝室が暑いならば書斎にある、簡易ベットで眠ればいいのだ。そうすればナルの適温で眠ることが出来る。昨夜もその前も、そうであったように。
しかしナルは今夜ばかりは麻衣の眠る寝室に来た。少し暑いと感じる温度設定になっていることを知りつつ、部屋の主よりもそのベットに馴染む少女がいる部屋へと、眠りに来たのだ。
何夜続けての簡易ベットは慣れたものだとはいえ、身体は昼間の酷使も手伝って悲鳴を上げつつある。いい加減、より効果的に休息を取れる場所で眠らなければと思っていた。また、実はこれが一番重要なのだが、麻衣は口には殆どしないが、大層寂しがり屋で本当は甘え下手である。昼間は事務所で絶え間なくやってくるイレギュラー達に囲まれて楽しそうに笑っているからいいのだが、夜は最悪晩ご飯も一人でそのまま眠ることが多い。
麻衣はそれについて、駄々を捏ねたり、不満を口にしたりすることはない。食事や睡眠のについては所々口出しして、ナルにせめてもの人間らしい生活を送らせようと努力してはいるが。
ごく、たまに閉めきりが悪く、一滴だけ零れ落ちた蛇口の水滴のようにぽつり、と、ささやかな希望を口にすることはある。例えば一緒にご飯を取って欲しいだとか、おやすみなさいとおはようの返事をして欲しいだとか、寝る時も一緒にいたい、だとか。
麻衣のそんな小さなお願いを叶えるには、ナルがほんの少しだけ麻衣と過ごす時間を増やせばいいのだが、やはり研究に没頭すると一日二日書斎から出てこないこともあり、尚かつ夏の暑さも加わって益々ナルのお籠もりが酷くなる。

自分が連れ込んだ自覚はある。元々一人ならばそうは感じなかった孤独感を、家に誰か居るのに傍にいないその虚無感を麻衣に与えることもなかった。けれども麻衣は笑って平気だと装い、頑張ってねと口にするからそれに甘えてしまう。結果、麻衣を一人にすることが多くなる。
面倒なやり合いに投げ捨てたくなる思いを抱えながら何日かに一回、ナルは寝室で眠る。大抵は麻衣が眠った後であり、起きる前であるから麻衣がいう、一緒にいるということであるかどうかは怪しいところではあるが、ナルは疲れた身体を麻衣のいる寝室へと運ぶ。
快適でない温度の部屋で大きなベットで疲れを取る為の、少女のささやかな願いを叶える為に。
けれども、幾ら快適でないと言えども、温度を下げてしまう訳にはいかない。何しろ、既にこの寝室で眠りこける少女はエアコンの冷気に弱いのだから。結局、妥協するのは彼だった。

彼女が占領するベットの反対側に身を下ろす。きしりと重みにベットが小さな音を上げる。いつものことなのだが、麻衣はやはり目覚めない。
麻衣のこうした危機感の無さはもう慣れたものだが、少しは改善されてもいい頃ではないかと無防備な麻衣を見ては思う。他の男に---本音ならば誰であっても、見せたくも見せるつもりもないのだが---、これでは自称父親ではないが心配する。お前の野生動物のような勘はどうしたと、平和そうなほっぺたを抓りたくなるのを身を横にすることで紛らわす。
悪意に敏感な麻衣の察知能力は、害がないと麻衣が判断してしまえば働かない。こうして恋人と言えども、男が真横に、手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに何の反応もなく眠っているのは、その相手を自身に害する者と判断していないからだ。
無条件の信頼と言ってしまえば聞こえは良いが、信頼されすぎているのも溜息ものであることを麻衣は知るべきだ。ナルのささやかなる意見は穏やかな寝息に今夜もかき消される。
疲れた身体はここ数日触れていない肢体を求める本能に忠実であり、それを留める理性が若干力を失っている。
二三回、キスをすれば本能的に誰か分かっている麻衣が目を覚ますのは経験上知っていた。しかしけれども、疲れで理性を失い熱に浮かされるなどと、ナルの強靱な矜持が許さない。

やはり結局、妥協するのはナルの方なのだ。枕に頭を沈め、闇の中で瞼を閉じる。真横で 「なる…」 と甘ったるい寝惚けた声で呼ばれ、思わず溜息を吐けば、熱帯夜のような熱っぽいそれが彼の口からこぼれ落ちた。


彼と彼女の温度事情(GH)(090919―110921)

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