※現パロ
※長船光忠の表記あり



今じゃもう、手の届かない場所に行ってしまったんだなぁ。事務所の小さなレッスン室でミネラルウォーターを片手に寝そべる。少しだけ首を左に向ければそこに佇むピアノ。雑誌にある見出しには「天才ピアニスト・長船光忠」の文字。もうそろそろ俺も潮時かな、と思いながら立ち上がり、カバンの中から退職届を出す。
突如、レッスン室の扉がノックされた。磨りガラスからでは誰が来たのか分からないため、カバンに退職届を仕舞ってから返事をして開けると、話題の天才がそこに立っていた。

「光忠」
「やぁ、久しぶり」
「いつの間に帰ってきてたの」
「ついさっき空港についたばかりで、荷物はマネージャーさんに預けて家に届けてもらったんだ。」

だから荷物はこれだけ、と肩にぶら下がるトートバッグと片手に持った紙袋を見せた。
ふぅん。さして興味もなさそうに答えると入ってもいいかい?と聞かれる。いつもの優しい声が売れない俺には余裕ぶって見えて少しだけイラつかせた。どうぞ、とぶっきらぼうに言うと、お邪魔します、と入ってきた。

「これ、お土産」

差し出されたおしゃれで小さな紙袋には四角い箱がひとつ、入っていた。
開けても?
もちろん。
にこにこしながら俺の反応を見る光忠。何が入っているのかと思いリボンを解いて中を見ると、綺麗なシルバーリングが入っていた。

「それ見つけた時に、君に似合うと思って買ってきたんだ」

良かったら付けてくれないかい?と期待のこもった声色と目で伊達男に見つめられて断れる奴がいるなら見てみたい。少しだけため息を吐き、クッションからリングを外してハマるであろう右手の薬指にはめた。しかし第二関節で止まってしまったため、左手の薬指につけたらピッタリだった。
また微妙な場所に、と思い、1度外して右手の小指にはめても、今度は緩くするんと抜けてしまいそうな程だった。
やはり左手の薬指しかないのか?と訝しげに思いながらも再びはめ直して光忠に見せると、ゆっくりと手を取られた。

「うん、やっぱり君にはこれが似合うね」

光忠、まさかとは思うけど。思っていた本音は音になって光忠の耳に伝わっていた。本当はそんなつもりはなかった。心の中で燻らせていつの間にか忘れるつもりだったんだ。でも気づいたら俺の口から言葉が零れ落ちていた。完全に無意識。やってしまったと後悔してももう遅い。ハッとして光忠の顔を見ると、話の続きを促すような目をしていた。

「まさかとは思うけど、俺の薬指に入るように計算して買ってきたとか、ある?」
「…そうだよ?」

目元をほんのり赤く染めて自嘲気味に笑う光忠の顔が痛々しくて、手に入る力が強まった。
なんで、どうして、と思う気持ちはあったが、そう言えばと思い当たる節はいくつかあった。
光忠は男前顔が災をなすタイプで、いろんな女に寄ってたかられては傷ついてを繰り返してきた。男ももちろん。妬み嫉みの心を隠して信頼させてから光忠をどん底にぶち落としてきたりなんて両手両足で足りないほどあった。その経験からか25歳の若さにして軽い人間不信になっていた。仕事については信頼をするが、人間そのものを信じない。いつだか2人で食事に行った時に言っていたのは「裏切らないのは料理と音楽だけだね」という一言だった。それに対して拗らせてるな、という意見しか持たなかった俺は「そうだな。音楽は素直だ」とだけ返事した。
それから光忠は頻繁に俺を食事に誘い、気づいたら自宅を行き来する仲になっていた。事務所内で光忠の人間不信は有名だったし、狙って入所した音楽家もその素っ気ない態度を見てどんどん株が落ちていき今では別の男にうつつを抜かすという有様だった。なのにどうして俺だけこんなにフレンドリーに接してくれるんだろうかと思ったことは数回あったが、まぁ相性とかあるだろ、という簡単な理由づけで終わらせていた。料理も美味かったし、掃除も完璧で、ピアノも上手い。こんな完璧人間にも瑕疵はあるものだと。

「君は、僕に幻滅をしたかい?」

幻滅も何も

「俺は最初から光忠に幻想なんか抱いてない」

料理は上手いけど、光忠にとっての料理はストレスの捌け口。
掃除は完璧にするけど、ひとつの物事に集中することで何か考えなければならないことから逃避するための行為。
ピアノは、自分の行動に下心なく素直に応えてくれる、光忠にとっての唯一無二の友人。
全ての行動には光忠の弱さを隠す事由が絡んでいた。そんなダメダメで弱い光忠を親交を深めるうちに知っていった。

「人間から純粋な気持ちのみを向けられないなんて、ほんとうに可哀想だな、光忠」
「うん」
「ピアノの才能もない俺をどうして好きになったの」
「ピアノにも応えてもらえなくなっていくにつれて、大衆から見向きもされずに、追い詰められる君を救ってあげたいと思ったのが最初。次に仲良くなって、僕が作ったご飯を美味しそうに食べる姿を見たのが自覚したきっかけ。本当のダメな僕を知って行っても、僕を受け止めて、隣にいてくれたのが、僕が君を愛した理由」
「…救ってあげたいとか、傲慢すぎ」
「ごめんね、でもそう思ったんだ。守ってあげたい、甘やかして僕だけ見てほしい、って」

リングをなぞりながら独占欲が満たされ、幸せそうな顔をする光忠に、少しだけ、気持ちが揺らいだ。

泣きたくなった。

幼い頃に天才だと囃し立てられた分、大人になるにつれてどんどん周りに追い越されていった。練習を怠ったつもりもないし、友人と遊ぶ時間があったらピアノと向き合ってきた。学業も疎かにしてはならないとの厳しい教えも守り難関大学に入学して、学業にピアノに真摯に向き合ってきた。それでも天が与えた才能によって差は歴然と開いていく。突如現れた天才に焦りながらも毎日毎日ピアノを弾いた。
オーバーワークで手首を痛めようが、熱を出そうが風邪をひこうが、常に俺はピアノと一緒にいた。強く叩きすぎて調律師を呼ぶペースも上がった。かかりつけ医には暫く休むようにと怒られた。それでも幼い頃に植え付けられた『自分の存在価値』は錆のようにこびりついて剥がれなかった。
弾けない俺に存在価値はない。親だって周りだってそれを望んでるはずだ。そう思ってる矢先の光忠との出会いだった。

周囲に絶望した光忠。
自分に絶望した俺。
惹かれ合うのは当然の結果だったのかもしれない。

「君の音が崩れていく様を遠くから見てるのは嫌だったんだ」

どうせなら近くで君の音を聴かせて。

我慢しきれずついに涙は光忠の手に落ちた。
泣かないで。優しく親指で拭うその手にも温もりを感じて、あぁ、いつの間にか俺は光忠がいなきゃダメになっていたんだな、と自覚する。
静かに抱きしめられて、肩口に顔を当てる形で後頭部に手が回された。流れる涙に逆らうことなく、俺は光忠の肩を濡らした。

「これからは僕も休みを取っているから、2人で色んなところに旅行に行こう」
「うん」
「手首もしばらく休めたいけど、ピアノから離れていると君はきっと不安になる。だからたくさんのオーケストラとかミュージカルとかを見に行って、たくさんの音楽に触れる時間を作ろう」
「うん」
「そして手首が治ったら、一緒にピアノを弾きたいな」
「うん、」

溜まった膿を流し出すかのように、俺の目から流れる雫はじわじわと服に広がっていった。ダイレクトに耳に伝わる光忠の優しい声に、体温に、言葉に、癒されていくのを感じた。リングがついた左手で服の裾を握ると、割れ物に触るかのような繊細な手つきで光忠の右手が重なる。

「僕は君が好きだよ。君のいない世界に価値を見いだせない」
「俺にそんな価値あるのか」
「僕にしか見せない君に価値があるんだよ、僕以外に弱いところとか見せちゃダメだからね」
「独占欲の塊だな」
「そうだよ。知ってたでしょ。それで、君の答えが聞きたいんだけどな?」
「…きらいじゃない」
「天邪鬼だなぁ」
「そうだよ。知ってただろ」

笑う光忠の声が穏やかで、俺もつられて笑ってしまった。笑うなんていつぶりかな。
ピアノのことも退職届のことも忘れて、今だけは、左手の重みと、身体中で感じる体温に酔いしれていたかった。

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