haste makes waste 普段と変わり映えしない朝だった。
面白い仕事が舞い込むわけでもなく、金が余っているわけでもない。干からびかけたピザがデスクの上に放り出されている。強いて云えば風が冷たくなってきたかなと思える程度にしか違わない、退屈な一日。今日もそうなるもんだと思ってた。
コンコン、と遠慮がちに鳴るドア。
この事務所のドアをご丁寧にノックして来る奴は稀だ。借金取りはもっと盛大にぶっ叩くかノックもなしに押し入ってくるのが常だから、きっと何処かから此処の情報を仕入れて来た金持ちの家の使いなのだろうと思った。丁度暇を持て余していた事もあって、余程退屈な依頼でもなければ受けてやろうという気になっていた。
面倒な事にこの手の客は、わざわざこっちからドアを開けてお出迎えをしてやらなければならない。ノックする手があるのだから勝手に入ってくれば良いものを、と思うのだがそうは行かないらしい。クソお上品なのだ。
開いていた雑誌をデスクに放り出し、代わりに長い脚を地べたに降ろして立ち上がった。その間に二回、再びお上品なノック。
「はいはい」
相槌を打ちながらドアに近付く。あと二回ノックしたら、引き返して無視を決め込んでやろうと決めた。生憎、ドアの向こうは静かだった。
「《デビルメイクライ》へようこそ!」
盛大な歓迎と共に、真心を籠めてドアを開く。訪問者は無言だった。俺も無言だった。両手を天に突き上げたまま視線を上から下へ、下から上へと少しばかり無遠慮に動かして、舐め回すように見た。
「こりゃ驚いた」
本音だった。いつか会うだろうとは思っていた。しかし今だとは露にも思っていなかった。ましてや此処でとは。
やけに静かだと思った外は霧雨のような雨で煙り、まだ幼さを多く残した少年は目深に被ったフードの奥から迷い子のような瞳で俺を見上げていた。
「入っても?」
躊躇いがちに呟いた少年は、俺の身体越しにちらりと事務所に視線をやった。彼が何の目的でこんなご近所とは云い難い辺鄙なスラムに足を運んだのかは分からないが、雨の中、外で立ち話を強いるほど酔狂でも意地が悪いつもりもなかった。
「どうぞ」
身体をずらして道を空けると、少年は変わらず緊張した面持ちで足を踏み出す。鉄板でも入っていそうな靴底がごとりと重い音を立てた。
きょろきょろと物珍しそうに、けれど遠慮がちに奥に進んだ少年は、部屋の真ん中辺りで立ち止まった。その様子を眺めながらドアを閉めると、小雨の音も掻き消えて、元通りの静けさが訪れる。こんなに静かな夜も珍しいもんだと思った。
少年を追い越し、元通りデスクに足を放り上げて腰を落ち着けると、少年と目が合った。見覚えのあるコート。衝撃的な出会いを果たした時と同じく右腕を吊った状態で、背中には大きめのザック、左手には不似合いなほど横長のトランクケースを提げている。少年は立ち止まった姿勢のまま、所在なさげに視線を彷徨わせていた。ああ、こういう時は椅子でも勧めた方が良いのか。そう思いながらも、突然現れた少年が何をしに来たのかが気になって声を掛けることは後回しにした。
名前は――ネロだったはずだ。肌も髪も女以上に薄い色素のくせに黒(ネロ)だとは不思議なもんだと思った。「名は体を表わす」などとこれっぽっちも信じちゃいないが(なにせ俺自身、詩的な要素は持ち合わせちゃいない)もう少し色気のある名前でも良かったんじゃないかと思う。だが、舌で捏ね回すような音は目の前の少年には似合っていた。
無言が過ぎたのか、少年が居心地悪そうに身動ぎした。
「で、何の用だ、坊や?」
そう、「坊や」と呼んでいた。懐かしい響きだと思った。それを最後に口にしたのはかれこれ一年ほど前の筈だった。
坊やの口がぴくりと動いた。何かを云いかけてやめるような仕草だった。大方「坊やじゃない」と云い返したかったのに違いない。先ほどよりは拗ねた表情で睨むような視線を寄越して来た。
ややあって口を開く。
「座っても……?」
デスクの斜向かいに置いてあるソファに目をやりながら呟く。俺は無言で肩を竦めた。
どさりと音を立てて座った坊やは、足元にザックとトランクケースを放り出すように置き、やや疲れた様子で目深に被っていたフードを左手で払い落とした。ふわりと見事な銀色の髪が揺れた。
別段、変わった様子はない。少し顔つきが精悍になって、大人びただろうか。気のせいかも知れないし、以前の印象が朧げになっているだけかも知れなかった。
「それで?」
手短に用件を聞くが、坊やがすぐに答える事はなかった。込み入った用件だろうか。もしくは依頼絡みという可能性もあるかも知れない。だが俺の予想とは裏腹に、坊やは深刻そうな声でぽつりと呟いた。
「俺をアンタの弟子にしてくれないか」
「は?」
素っ頓狂な声を上げた俺に、坊やはムッとした様子もなく再び「弟子にしてくれないか」と、今度はさっきよりもはっきりとした声で云った。気のキツそうなアイスブルーの瞳は、冗談ではないことを必死に訴えているようだった。
否、と云う事は簡単だった。面倒事は御免だ。茶化して真面に取り合わなければ、それだけで臍を曲げて出ていくだろうと思った。しかし同時に、何かを思いつめたような少年の真意を知る機会は永遠に失われてしまうという事も分かっていた。要はこの少年の真意を知りたいという欲求が勝ったのだ。
だからと云って、理由も聞かずに頷けるほど酔狂でもない。
「何でまた?」
「……デビルハンターになりたいから」
少しの間があった。嘘だな、と思った。全くの嘘という訳ではないかも知れないが、それが全てだとは思えない。一瞬、坊やの目が逃げるように左右を見た。本当の事を云う気はないのだろう。
「弟子なんて御免だ」
「何で」
途端に睨むように見据えてくる。その癖、不安が過る目をしていた。幼いと思った。
「弟子なんて取るつもりはない」
「何でだよ」
「面倒だろ?」
「……面倒は掛けねえよ」
「弟子なんて面倒に決まってる。それにひとつ気になってる事があるんだが、住むところはどうする気だ。見たところ着の身着のまま出てきたといった感じだが、住むところの当てはあるのか? いつまでこっちにいる気だ?」
坊やは口を噤んだ。あれだけ強気だった目が伏せられた。それ見たことか。やっぱり面倒事に違いない。
何度目かの沈黙が落ちた。考えなしに飛び出してきただろう坊やに、溜息が漏れる。若いっていうのは皆こうだっただろうか。
「二、三日なら置いてやらない事もない。着いて来いよ」
立ち上がって顎をしゃくった。驚いたように顔を上げた坊やの目には、安堵の色があった。
面倒事は御免だ。だけど、何が起こるか分からない楽しみには代えられない。そうだろ?
数カ月後、ほんの少しの後悔と共にこの時のことを思い出すまでは、確かに俺はそう思っていたのだ。
END
Title by テオ