Love demands understanding and conpromise「おはよう、おっさん」
階段を降りるなり、一層濃厚になった朝食の匂いに混じって坊やの「おはよう」が出迎える。今までと同じ光景なのに、俺は酷く戸惑ってしまう。
「おはよう」
短くそれだけを返す。坊やは慣れた手つきでテーブルに朝食の皿を並べていた。だぼついた黒のスウェットを腰で穿き、ピッタリとした白のノースリーブからは剥き出しのままの右腕が見えていた。初めて坊やが此処にやって来た頃は、俺にすら右腕を見せないようゴツい包帯でぐるぐる巻きにして吊っていたというのに、最近では朝の間とシャワーを浴びた後の時間はそのままの姿で寛いでいることが多い。人馴れしない猫が懐いたようで嬉しかったが、それも今となっては随分と見方が変わってしまった。
馬鹿力のはずの右腕は意外なほどに繊細に動き、ガチャリとも音を立てずにすべての皿を並べ終えた。
「さっさと食おうぜ、冷めるだろ」
ダイニングチェアに腰を降ろした坊やが、まだ階段の途中に突っ立ったままだった俺を見上げて云った。
「そうだな」
俺は云われるまま席に着いた。無言の食事が始まる。
坊やの育った環境のせいなのか、普段は粗野な態度しか見せないくせに、朝は決まった時間に起きるし掃除も洗濯もきっちりこなす。食事も一通りのことは出来るし、味もまあ店で出しても良いんじゃないかと思えるレベルだった。食事の間無言でいるのは習慣だったのか、ワイワイ喋るような仲間がいなかったからなのかは分からないが、嫌な沈黙ではなかった。姿勢も良く少しずつ上品に食べる坊やは、黙っていると何処か良いところの坊やのようにすら見える。
バターたっぷりの厚切りトーストをぺろりと平らげながら観察していると、今まで黙って食べていた坊やが睨むようにこっちを見た。
「何ジロジロ見てんだよ」
「いや……、器用だなと思って」
「は?」
何を云われたのか分からない、という顔をした坊やは、次いでテーブルの上の朝食を見下ろしてムッと顔を顰めた。
「別に、これくらい普通だろ。アンタが出来なさすぎるんだ」
「それに掃除も洗濯も出来るし」
「アンタがしないからだろ」
「俺に出来ると思ってるのか?」
「思わない。おい、威張るな、おっさん」
「口は悪いが、黙って飯食ってるお前は悪くない」
「……何が云いたいんだ、アンタ」
何だろうな。自分でも良く分からなくなって、ひょいと肩を竦めた。
「さあな」
ただ、良い嫁になるだろうなと思っただけだ。云ったらバスターが飛んで来るのは間違いないので、流石に口にはしない。
坊やは納得の行かない顔で、再び食事に手を付け始めた。俺もそれに倣ってスクランブルエッグをフォークで掬って口に放り込む。酷く俺好みの味で、そんなところにも俺は微かに狼狽えるのだった。
半年前に坊やがウチの事務所にやって来た時、坊やは迷子のような目をして俺を見上げていた。いつか会うだろうとは思っていたが、こんなに早く会うとは思ってもみなかった。正直、それまでの生活で坊やを思い出すようなことも数えるほどにしかなかった。何処か終わった話のような気がしていたのだ。
それでも彼の髪の色や目の色、その力を思い出す度に、いつかまた会うだろうことを確信していた。力が引き合うように、その血が俺を引き寄せるだろうと。だが、坊やは自分の足でやって来た。思いのほか早く、思いつめたような顔で。何があったかは聞かなかった。
居候なんて面倒臭いと思ったが、放り出すのも憚られた。何となく、ここで放り出したらもう二度と坊やと会うことはないだろうと思った。それが直感だったのか、感傷だったのかは分からないが、兎に角俺は坊やを家に置くことにした。
最初は二、三日置いておくだけのつもりだった。坊やは「弟子にしてくれ」なんて云っていたが、今時の若者が週休六日の事務所でじっとしていられるはずもないと思ったのだ。
予想に反して坊やは文句ひとつ云わなかった。それどころか、居候する手前何かしなければとでも思ったのか自分から掃除やら洗濯やらをやり始めた。ただ単に潔癖症なだけかも知れないが――何せウチに来た翌日に最初に坊やが買ったのが掃除機だったのだから。それまであまり埃臭いのも気にならなかったが、坊やが居つくようになって随分と事務所は綺麗になった。しかも三食の食事がベンディングマシンよりも簡単に出てくる。
三日経っても一週間経っても、一か月、半年が経っても坊やを追い出さなかったのは、坊やがいても邪魔になるどころか居心地が良かったせいかも知れない。
そんな感じでズルズルと半年以上が過ぎていくうちに、どこでどう何が間違ったのか、坊やは俺を「好き」になったらしい。
坊やに衝撃的な告白をされてから一週間が過ぎた。正直何かが変わったということもなく、毎日が平穏無事に過ぎている。拍子抜けするくらいだ。坊やはいつも通りの時間に起きて、掃除をして洗濯をして、俺が起きる時間になると朝食を作り始める。今までは夢心地にその匂いを嗅いで、腹の虫に我慢ならなくなって起き出していた。それが今は坊やの起きる気配で目が覚めて、足音から、物音から、坊やの行動を追っている。ベッドの中でその気配を感じながら、朝食のパンを焼く匂いを確認してようやくベッドを這い出るようになった。そうだな、何も変わっちゃいない。俺の坊やに対する態度以外は。
正直、俺はテンパってるんだろう。例えいつも通りに事務所のデスクに踏ん反り返って、ダイナマイトボディなお姉ちゃんたちが卑猥なポーズを取っている雑誌を見ていてもだ。ふとした瞬間に、もしかしてこの手の雑誌を放り出しておくのはまずいんじゃないかとか――何せ年頃の少年がいるのだから――いやいや、むしろ見せつけてやって正常な嗜好に導いてやった方が良いんじゃないか――いくらなんでもこんなオッサンはないだろう――とか思いつつ、同じく事務所のソファで踏ん反り返って雑誌を読んでいる坊やを思い出したように窺ったりしている。
なあ、おかしいだろう。坊やをここまで恙なく居候として置いてやれたのは、邪魔にもならず空気のように自然に溶け込んで、女よりも甲斐甲斐しく、しかし厚かましくもなく面倒見が良かったからのはずだ。別に坊やを召し使いか何かのように扱う気はないが、同じ屋根の下で暮らす者同士、不干渉でありながら居心地の良い関係であることは外せない条件のはずだ。だから一緒にやって来れたんだ。それなのに俺がこうして坊やを意識する度に、部屋の空気が変わっていく気がして居心地が悪い。俺が勝手にそう感じているだけかも知れないが、そのきっかけを作ったのは間違いなく坊やだった。
坊やが悪いわけじゃない。しかし、これからも居候したいと云うのなら、少なくともあんなこと云うべきじゃなかった。云ってしまうことで、今までと同じではいられなくなる可能性なぞ、まだ若い坊やには思い至らなかったのだろうか。
酷くむしゃくしゃした。
「何処行くんだよ」
雑誌を放り出して立ち上がった俺に、坊やが云った。
「子供にはまだ早いところさ」
坊やが腹を立てるのを承知で、そう返す。案の定坊やはぴくりと眉を寄せたが、それだけだった。「あ、そう」と口の中で呟くように云って、元のように雑誌に視線を落とす。高々アクセサリーや今時のファッションが羅列されているだけの雑誌だ。真剣になって読むようなものでもない。それでもここ最近坊やが熱心にそれを読んでいるのは、俺といる空間の中でどうやれば自然に振る舞えるのか考えた結果なのかも知れないと思った。俺が大してクるものも感じないグラビアを眺めるように。
好きだと云いながら、取り澄ました表情を変えない、その仮面を引っぺがしてやりたいと思った。
「来いよ、坊や」
「え?」
坊やに詰め寄って、腕を引いて立ち上がらせた。坊やの左手から雑誌が滑り落ちて、乾いた音を立てる。寝起き以外はしっかりと着替える坊やはこのまま連れ出すのに支障ない恰好をしていた。右手も普段通り吊っている。
「おい、引っ張るなよ」
「ぐだぐだ云うな、行きたくねえのか?」
「……子供にはまだ早いんじゃないのかよ」
呆れたように溜息を吐く。その表情は子供っぽくて、少しだけ溜飲が下がるような気がした。
「なんだ、ビビッてんのか、《坊や》?」
狡い云い方だとは分かっている。試すような俺の目を見て、坊やはチッと小さく舌打ちをした。
両開きのドアを押し開けた瞬間、ギラギラと照明を反射するミラーボールとロックなBGMが視覚と聴覚を埋め尽くす。次いで女の子たちの黄色い悲鳴。
「あら、トニーじゃない!」
「お久しぶり、トニー! 会いたかったわ!」
半裸に近いような服の女の子たちが獲物に飛びかかる猫のように押し寄せる。両手に花とはこのことだ。俺は女の子たちをひとりずつハグして熱烈なキスを頬に受けた。
ちらりと後ろを見ると、呆気にとられたような表情をした坊やが立ち尽くしている。俺はその手を引いて女の子たちに押し付けるように背中を押した。
「今日は連れがいるんだ、よろしく頼む」
「ちょ、おい……っ」
「こういう場所は初めてなんだ、優しくしてやってくれよ」
何を云いだすんだとばかりに俺を凝視していた坊やは、次の瞬間女の子たちに囲まれていた。
「やだ、なんて可愛らしい坊やなの」
「ねえ、アナタ名前は?」
あれよあれよと云う間に店の奥のソファ席に引きずられていく坊やを笑いながら見送り、残った女の子たちを連れて後を追う。ソファではすでに女の子たちに左右から密着された坊やが居心地悪そうに座っていた。手のやり場にも目のやり場にも困っているようだった。遅れてやって来た俺をちらりと見た坊やの目は「どうにかしろ」と云っていたが、気づかないふりをして向かいのソファに腰を降ろす。テーブルに運ばれて来るボトルとグラス。
「ちっと早いが大人の時間だ。楽しめよ、坊や」
手渡されたグラスを掲げ、坊やにウィンクを飛ばす。
「さあ、ベイビーたち、パーッとやってくれ! 今日は奢りだ!」
云うや否や途端に湧き返る悲鳴に、やはり坊やは呆気にとられたような顔をして、次の瞬間には諦めたように隣から押し付けられたグラスを手にした。
浴びるように酒を飲んだ。考えてみればこんな飲み方をするのも久しぶりな気がする。坊やがウチに来てからは、比較的まともな生活を送っていたのだ。酔いが回るのも早い。それに比べて坊やと来たら。
ちらりと向かいの席を窺うと、坊やは最初の頃と比べれば肩の力も幾分か抜けて、慣れた様子にすら見えた。途切れることなく注がれる酒を、ちびちびとではあるが口に運んでいる。確かに俺の飲んでいる量に比べれば微々たるものだろうが、あれは随分酒に強いのではないだろうか。そんなことを考えていると、ふと坊やと目が合った。にやりと笑ってグラスを持ち上げると、視線を逸らされる。――無視されたのか?
坊やは右隣の黒髪の女の子に何事かを話しかけた。ショートカットで目鼻立ちのキツイ、だがどこか愛嬌のある顔をしたスレンダーボディの女の子だ。彼女は坊やが右腕を怪我しているのだと思っているのだろう、身体は寄せているが凭れかかるように座っている左側の金髪の子に比べれば距離があった。黒髪の女の子が何かを云うと、坊やは身を乗り出すようにその耳元で何かを呟いた。首筋に顔を埋めるような仕草に、何かがずくりと疼く。彼女が答えるように細い指を店の奥に向けると、坊やは立ち上がってすたすたと歩いていく。
何だ、トイレか。そう思ったのも束の間、後を追うように黒髪の女の子が立ち上がったのを見てぎょっとする。
「おいおい、マジかよ……」
ここは表向きは女の子たちが多少派手なスキンシップ付きで接客してくれる酒場だが、ここらの店がどこでもしているように裏ではその手の商売が行われている。無論表立って認可されているわけではないから客とスタッフの自由恋愛という名目になるが、やることと云えば同じ、つまり性欲処理だ。この店にも二階に専用の部屋があるはずだが、お手軽にトイレで済ませる客も少なくない。
意味深な視線で見送る同僚に手を振って応える黒髪の女の子が、やはり坊やが消えていったドアの奥に身体を滑り込ませるのを見て、俺は呆然としていた。
あの坊やが?
女を抱くのか?
やり方を知っているとも思えないくらい、女に対してウブな反応を見せる坊やが。一体どういう心境の変化だ?
ここに連れてきたのは確かに俺だが、こんな展開は予想してなかった。ちょっとした悪戯心と云うか、坊やにもちゃんと男としての正しい楽しみ方を教えてやるくらいの軽い気持ちだった。それで女に目覚めれば上々だと思っていた。わざわざこんなオッサンと不毛な関係を望むまでもなく、あれだけ若くて綺麗で生命力に溢れた少年ならば女の子たちが放っておくはずがない。すぐに自分の過ちに気づいて我に返るだろうと思った。
なら、これは予想通りというより、予想以上の結果だと喜ぶべきなんだろうか。
階段を一段飛ばしどころか十段飛ばしで駆け上がっていくような坊やの思考回路が理解できず、頭を掻き毟りたい気分だった。
「ちょっと小便」
立ち上がった俺を左右から引き止める声がする。それを振り切って俺は店の奥のドアを目指した。
やはりと云うか、案の定と云うか。
ドアを開けた先で俺を出迎えたのは、熱烈なキスシーンだった。女は細い腕を巻きつけるように坊やの首に絡ませ、ヒールを履いた綺麗な足で背伸びをして、全身で愛撫するように坊やにしなだれかかっている。坊やは個室のドアとドアの間の衝立に凭れながら、女の好きなようにさせていた。女の背がこちらを向いていて二人の顔は見えないが、間違いなくキスをしている。
予想していたとは云え、中々にショッキングな光景だった。いや、まだマシな光景と云うべきだろうか。コトの最中だったら目も当てられなかっただろう。
踏み込んだものの、どうすべきか迷った。邪魔をするつもりはなかった。坊やがそうと決めたのなら、好きにさせるべきなのだろう。俺は保護者でもなければ、ましてや恋人でもない。坊やの邪魔をする権利などなかった。
俺は何しに来たんだ?
自己嫌悪にも似た感情に駆られて、やはり出て行こうと思った時、女がキスの角度を変え、坊やの表情が僅かに見えた。
心底腹の奥が冷えた気がした。
――何て目をするんだ。
悪魔を相手にする時だって、もっと燃えた目をしていただろう。今の坊やの目には何の感情も浮かんでいなかった。ただ薄らと目を開けて、女を見下ろしている。
女が絡ませていた手を解いて、坊やに何か云った。坊やはキスしていた時と同じ表情でそれに応える。次の瞬間にはパンッと乾いた音がした。
身を翻した女が入口に立っていた俺に気付いて、キッと睨みつけてきた。その目はプライドを傷つけられたことを物語っていた。そのまま体当たりをするように押しのけられ、派手な音を立てて出て行く女を僅かに見送った。
ドアが開いた一瞬、フロアの爆音流れ込むが、すぐに静かになった。実際にはトイレにも設置されているスピーカーのせいでそれなりに煩いはずだが、無音のような静けさに感じた。
坊やを見ると、左手の甲で唇を拭っているところだった。女の口紅に赤く濡れているのを見て、微かに眉を寄せる表情には、欲の欠片もない。
「良かったのか?」
間の抜けた問いに、坊やが顔を上げた。
「何が?」
胡乱げな目で俺を見る。
「あの子が気に入ったんじゃなかったのか?」
「アンタ、馬鹿?」
酷い云い様だが、確かにその通りだと思った。坊やの気持ちを知った上で聞くことじゃない。
「悪かった」
自分でも何に対して謝っているのか分からなかった。坊やにはもっと分からないだろう。
坊やは僅かに首を捻ると、大きく溜息を吐きながら凭れていた背を浮かせた。
「別に、キスくらい誰とでも出来る」
独白のように呟く。洗面台に移動して手を洗う姿を、鏡越しに見ていた。
「セックスも同じだ」
音を立てて流れていく水を見下ろしながら、坊やの目は未だに冷めたままだった。
俺は、この少年を傷つけてしまったのだと思った。
久々のアルコールはガツンと来た。頭にも足にも。ふらふらと歩く俺を、隣に立つ坊やが左腕で支える。
事務所に辿り着くと「開けろ」と顎で指図されて、云われるが儘もたつく手でドアノブを捻った。ガチャリと音がして開く。鍵を掛けて出たはずだがすんなりと開いたことに首を傾げていると、隣から呆れたような溜息が聞こえた。
「壊すなよ」
なんだ、開いたんじゃなくて壊れたのか。しかし壊れてしまったものは仕方がない。気にせず事務所に足を踏み入れると、後ろで何とかドアを閉めようとしている音がした。
「ハッハー、帰ったぞー!」
「……酔っ払い」
ああ、酔っ払いだ。酔っ払いの何処が悪い。坊やが来てからというもの、三食食事は摂るわ、腹が膨れるせいで酒の量は減るわ、夜遊びの回数は減るわで、思い返せば健康過ぎる生活を送っていたのだ。酒の回りが異常に早いのも、そのせいに違いない。
坊やはドアのことは諦めたのか、俺の隣に立つと顔を顰めた。
「臭ぇ」
「坊やも充分臭うぞ」
自分の臭いが酷いせいで分からないが、あれだけ飲んだのだから坊やもきっと酷く臭うに違いない。背後に回った坊やがコートを脱がすのを好きにさせてやりながら、俺はひくひくと笑った。坊やの手は迷いなく動いて、異常に酒に強いことを教えていた。
「なんで酔わないんだ? 酒は初めてだろ?」
「さあ、酔ってるんじゃないのか。ふわふわするし。アンタは飲みすぎなんだよ」
とても酔っているようには思えない口調で答えると、脱がせたコートをソファに投げ出しながら、坊やがさらに顔を顰めた。
「酒も臭ぇけど、女の匂いの方がヒデェ」
「お子様には刺激が強かったか?」
「――かもな」
坊やは俺の背中を小突いた。促されるように足を踏み出して、二階への階段を上る。所々壁にぶつかりながら部屋に辿り着くと、わざわざ坊やがドアを開けて俺を押し込んだ。
「クソして寝ろ」
蹴りを入れるような強さで背中を押されて、自然と足が大きく前に出る。
「うわっ」
悲鳴を上げたのは坊やだった。ギシリと派手な音を立ててベッドが軋むと同時に、埃っぽい空気が舞った。妙なところで律儀な坊やは他人の部屋に無理やり押し入ることはしない。そのせいで事務所兼自宅の中で、この部屋だけは唯一埃っぽかった。
「……何してんだ、おっさん」
「うーん……」
「おい、酔っ払い」
下敷きにされた坊やが、鬱陶しそうに溜息を吐く。
「臭ぇ……」
「ハハハ、さては嫉妬だな、坊や」
「ウゼェ……」
目を抉じ開けて横目で見ると、坊やは心底うんざりしたような顔で天井を睨みつけていた。こっちを見ようともしない坊やの分まで、俺は坊やの顔を見つめた。充分男前だと思うし、肌はそこらの女が裸足で逃げ出すほどきめ細やかだ。出来物なんぞ知らないような肌だ。
「女は良いぞ、坊や」
「……そうかよ」
「甘い匂いがするし」
「……臭ぇだけだろ」
「柔らかいし」
「……脂肪だろ」
「優しくしてくれるし」
「……人によるだろ」
「気持ちいいし」
「…………アンタ、」
「子供を産むなんざ、神秘だよな」
「………………」
「泣くなよ、坊や」
「泣いてねえよ」
そう云う坊やは、本当に泣いてなどいなかった。ただ真っ直ぐに天井を見上げている。すでにうんざりしたような顔ではなくなっていた。ただ諦めたような無感動な色が見えた。
数時間前に見たのと同じ目だった。
若いくせに時折こんな表情をする坊やを、思い起こせば俺は随分前から知っていたはずだった。変に気が強いくせに、変なところで諦めが良すぎる嫌いがあることに気付いていた。燃えるような目で掴み掛ろうとする彼と、達観した視線で見下してくる彼のどちらが本当の彼なのだろうか。どちらも本物で、どちらも偽物に見える。つまり俺はまだ本当の坊やを知らないのだろうと思った。
「こんなオッサンのどこが良いんだ」
酔っ払いのものとしか思えない酒臭い問いに、やはり坊やは諦めたような目を天井に向けたまま答えた。
「さあな」
じっと見つめる先には何が映っているのだろう。
「女好きだし、だらしねえし」
「否定はしないさ」
「部屋は汚ねぇし、ほっとくとピザばっかだし」
「おい、ピザを馬鹿にすんな」
「おっさんのクセに、ストロベリーサンデーは食うし」
「……ストサン好きのどこが悪い」
「ただ強いだけしか取り柄がねえようなおっさんで」
「…………」
だんだん自分がどうしようもないダメ親父に思えてくる。
はあ、と大きく溜息を吐いて、坊やはそれまで天井を見つめていた目を閉じた。
「なんでアンタなんか好きになっちまったんだろうな」
――サイテーだろ。
自嘲とも諦念ともとれるような呟きは、声になって届くことはなかった。声に出すことも諦めたように思えて、酷く腹立たしかった。同時にこんな子供らしからぬ顔をさせたことが酷く申し訳なかった。
「なあ、坊や。するか?」
「何が」
「セックス」
ゆっくりと、上がっていく瞼を見ていた。だがまだ、その菫色の目は俺を見ようとはしない。
「やっぱりアンタ、馬鹿だろ」
「かもな」
一向に俺を見ようとしない坊やに、俺は重たい身体を起こして真上から見下ろしてやった。ようやく視線が合ったことに、どこか満たされる気がした。
「でもな、坊や。俺は今、坊やが可愛くてしょうがないんだ。それに酔ってるしな」
「……理由になってない」
そうだろう。だけど理由にもならない理由が必要なんだ。なにせこの歳で男とセックスする気になるなんて思いもしなかったし、やり方は知っててもいざとなると尻込みもする。
「それとも『好き』だの『愛してる』だの言わなきゃ、始められないか? 『誰とでも出来る』って云ったのは坊やだろう?」
まるで坊やを貶めるように云うと、ぴくりと長い睫毛が揺れた。許してくれよ、大人は卑怯なんだ。
「俺はアンタが好きだ」
「ああ」
「好きで好きで堪らねえんだ」
「ああ」
「分かってんのかよ」
「ああ、分かってるさ。俺は坊やが可愛くて堪んねえよ」
「……クソッ」
坊やの顔がくしゃりと歪んだ。その子供らしい顔を見て、猛烈に腹が熱くなった。すぐにそれは隠されたが、冷めないどころかじわじわと込み上げて来るものに、俺は戸惑いさえ覚えた。
「泣くなよ、坊や。坊やに泣かれると困る」
「泣いてねえ!」
「しゃぶったら機嫌直してくれるか?」
「――ッ、この××××野郎!」
乱暴に吐き出される言葉と同時に、世界がぐるりと一周した。俺は馬鹿みたいにニヤニヤと笑いながら、坊やの小さな頭を抱き寄せてキスをした。
お互い酷く酒臭いキスだったが、そう悪いもんでもなかった。
「おはよう、おっさん」
階段を降りるなり、一層濃厚になった朝食の匂いに混じって坊やの「おはよう」が出迎える。今までと同じ光景なのに、俺は酷くムカッ腹が立った。
「おはようぐらい云えねえのかよ」
無言で階段の途中に突っ立ったままだった俺を見上げて、坊やは馬鹿にしたような目をくれて来た。
「……腰が痛ぇ」
ありったけの憎しみを籠めて云うが、坊やは軽く片方の眉を跳ね上げるだけだった。そして当然のように頷く。
「そりゃ、あんだけ腰振ってりゃ痛ぇだろうよ」
「……クソガキ」
「ビッチ」
睨み合いは一瞬だった。さっさと身を翻した坊やはテーブルに食器を並べていく。
「ほら、冷めるだろ。早く食えよ」
もう一度だけ「クソ」と呟いて階段を下まで降りた。笑えるくらいに腰が引けていたが、それについて坊やは突っ込む気はなさそうだった。
ダイニングチェアに腰を降ろそうとしたところで、座面に冬用のブランケットが折り畳んで置いてあることに気付いた。なんだこれは、と訝しんだ瞬間、それがクッション替わりだということに気付いて、坊やの気遣いに恥ずかしいやら腹立たしいやら複雑な気分になった。
結局、大人しく座った俺の前に、準備を終えた坊やが席に着いて、普段通りの静かな朝食の時間が始まった。
朝一番の会話が――もう昼だが――少々過激だった以外は、拍子抜けするくらい普段と変わらない様子に、俺は首を傾げたくなった。別に甘いキスでのお出迎えや、初々しいぎこちなさなんかを期待していたわけじゃない。それでも何かしら坊やの態度の変化を覚悟していた俺としては、肩透かしを食らったような気分になった。
「なあ、何かないのか?」
「はぁ?」
トーストを咀嚼していた坊やが怪訝そうに答える。
「足りなかったか?」
テーブルの皿を見渡している坊やに、そうじゃないと首を振ると、坊やは納得のいかない表情のまま、ミルクの入ったグラスを口にした。そして何をどう云えば良いのか分からない俺は、また見当外れなことを口にした。
「なあ、坊や」
「ん?」
「俺はよかったか?」
「――――ッ、ぐ……っ」
僅かにミルクを吹きこぼしながら激しく噎せる坊やに、悪いことをしたと思う一方で、耳まで赤くなっていくその様を、俺は心底可愛いと思った。
「クソッ」
呼吸が収まると小さく吐き捨てるように云って、坊やは俺を睨みつけた。それから濡れた口元を拭いながら、勢いよく立ち上がって背を向ける。
「よかったよ!」
怒鳴るように言い残してキッチンに消えていく背中に、俺は込み上げてくる笑いを止めることが出来なかった。
正直、俺はホッとしていたんだろう。結局のところ俺と坊やの関係は変わっちゃいないが、何より俺は変わっていないことに安堵した。
同じ屋根の下で暮らす者同士、不干渉でありながら居心地の良い関係であることは外せない条件のはずだ。だが、そこに干渉があったとしても坊やと俺のスタンスが変わらないということが証明された。
つまりこれからも坊やはここに居続けるだろうし、それを許せるくらいには――まあ、俺は坊やに惚れてるってことなんだろうと思った。
END