実 辺りが騒がしい。
男はきょろきょろと目を動かし、人が一カ所に集まって行くのを見ていた。
「今日は祭でもあんのかね?」
それを聞くと、男の相手をしていた茶屋の女将はけらけらと豪快に笑った。
「違うよ、違う。あれはさ、殿様が降りて来なさったのさ」
「殿様……って、あの殿様かい? 殿様が町に来るのかい? そりゃまたなんで?」
「そりゃあ、あたしたち民草の声を直に聞きなさるからさ」
「直に? 殿様が? まさか!」
「嘘だと思うなら見てきてご覧よ」
女将に云われ、男は茶屋を飛び出した。すると件の殿様はすぐに見つかった。
人垣の中心に、馬に乗った身体ひとつ飛び出している。
右目には眼帯。
短めの茶色い髪に、武人らしくすっと伸びた背中。
目付きは鋭く、しかし知性を感じさせた。
それに中々の男前でもある。
あれが噂の独眼竜か、と男は頷いた。
独眼竜は群がる町人を押し退けようともせず、むしろ自ら馬を止めて、町人の話に耳を傾けているようだった。
「はぁ、変わった殿様だねえ」
こんな殿様がいたとは。
いやはや、こりゃ国に良い土産話が出来た、と思っていると。
「だよなあ」
右隣にいた男が、賛同するように頷いた。思わず男が振り向くと、華奢な身体にくすんだ紺の着流し姿の青年が立っており、独眼竜をしげしげと眺めていた。
「ありゃあ相当の奇人だな。殿様が民草の話を聞いて回るなんざ、聞いたことねえ」
青年はひとりのようだった。
果たしてこれは自分に話し掛けているのだろうかと、男が周囲に顔を巡らすが、やはり他に話し相手らしき者はいない。もう一度青年に目を戻して、男はどきりとした。
先程は長めの髪に遮られてよく見えなかった顔が、いつの間にやら半分、男の方に向けられており、その造作が窺えた。
雪国らしい白い肌に、健康的な朱い唇。
通った鼻筋と、しゅっと切れ上がった眦。
男でこれほどの美形を見たのは初めてだった。
「俺の顔に何か付いてるかい、兄さん?」
お世辞にも上品とは云えないが、愉しそうに唇を片方だけ吊り上げるその仕種は、青年にとても良く似合っていた。
「いやいや、気を悪くせんでくれ。殿様といい、お前さんといい、奥州は男前が多いと驚いていたんだよ」
「Ha! そりゃあどうも。ありがとよ。ところでアンタ、旅のもんか?」
「そうだよ、良い細工物がないかと思ってね。遥々、武蔵から来たのさ」
「へぇ、そいつぁご苦労なこった。それじゃあ、つまんねぇもん持って帰るわけには行かねえよなぁ?」
「まあねぇ、でもこればっかりは縁だからねえ。おっと」
男が青年に気を取られているうちに、独眼竜の姿は小さくなっていた。
「残念、もう少し拝んでおきたかった!」
男が背伸びをして、遠ざかって行く独眼竜を見ていると、青年が快活に笑った。
「ハハッ、アンタ、あんな変な殿様に興味あんのかよ。変わってんな」
「だって殿様に会える機会なんて、もう一生ないかもしれないじゃないか。しかも、奥州の独眼竜となると」
「一生、ねぇ? 今晩にでも、会えそうな気がするのは俺だけか?」
「え?」
「そうだ、これ、アンタにやるよ」
突然、手の中に押し込められた物を見ると、ずしりとする重さからしても、それはどう見ても財布。これは一体どういうことか、と青年を見遣ると、その姿は忽然と消えていた。慌てて周囲に目を走らせると、人垣の向こうにそれらしき後ろ姿が見える。
「ちょっと、おい、お前さん――!」
男が声を上げると、青年が立ち止まらぬままに振り向いた。
そこに男が見たのは、さらさらと流れる髪から覗く、刀の鍔。
はっと息を呑む男に、青年はやはり、にやりと人を食ったような笑みを浮かべ、
「逢いたきゃ逢いに来な。そいつぁ手形代わりだ。いらなきゃ甲斐の殿様にでもくれてやれ。餞別だ、ってな」
今度こそ、去って行った。
残された男は表情を繕うことも忘れて、呆然と立ち尽くした。
ようやく我に返り、手にしたままの財布の裏を恐る恐る見て、思った通りあったそれに思わず、
「やられた!」
と、天を仰いだ。
竹に雀の優美な紋。
しかし、それが男には、にやりと笑う竜に見えた。
END