静かな、良い夜だった。
 暦ではまだ秋だが、早くも雪が降りそうな気配さえする程、しんと冷えた、静かな夜だった。
 風もなく、音もない。
 時折近くの林から虫の音が聞こえるが、そのことが一層静けさを物語っていた。
 木々に囲まれた湖は波風ひとつ立てず、真白く輝く月を映している。さながら、この世に初めから月がふたつ、存在していたかのように。
 その湖面の、僅かに欠けた月に、男は手を伸ばした。
 しかしその指先は、痛い程冷たい水に触れ、湖面に波紋を呼んだだけで、月を手に入れるどころか触れる事さえ出来なかった。そこにあるように見えるのに、手を伸ばすと月はするりと遠くに逃げてしまう。
 男は立ち上がり、草履を脱ぐと、一歩、また一歩と、月に向かって歩き始めた。




「旦那っ、旦那!」
 闇に紛れ、夜に潜むはずの忍びが、声も高く、なりふり構わず湖に飛び込んだ。
「旦那! 嘘だろ、アンタ! 何やってんの!?」
 最後に男を見た場所まで、水を掻き分けて進む。
 水はまるで氷のように肌を刺した。
 肩にまで水深が達したところで、忍びは迷う事なく水に潜る。
 夜に静けさが戻り、このまま朝まで静寂が続くかと思われた頃、忍びが勢いよく湖面に浮上した。
 その腕には、ぴくとも動かぬ男があった。
「旦那、旦那っ! ……っ、旦那ぁあッ!」
 呼べども、呼べども。
 力を失った肉体は、応えてはくれない。
 忍びは男を湖畔に引き揚げると、仰向けに横たえた。
 男はすでに息絶えていた。
 忍びは決して寒さのせいではなく、身の凍る思いというものを味わった。これまで見てきた人の死には、全く感じなかった別の感情だった。
「っ旦那……ッ! くそっ、いかせるもんか! いかせてたまるかよッ! そんな勝手な事……!!」
 口から息を送り込み、肺に溜まった水を押し出す。
 男を失う恐怖に怯えながら、忍びは思った。
 男は何を思いつめて入水したのだろうか。
 肩の荷は、それほどに重かったのか。
 彼が若過ぎたのがいけなかったのか。
 それとも、

 魔が、差したのか────。




 水面では何事もなかったかのように、月が静かに待っていた。

END
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