また、忘れた日に
「頼む、俺の為に死んでくれ」
「なん、で……」
突き立てたナイフを引き抜くと、目の前の身体がぐらりと傾いだ。縋るように崩れ落ちるのを、ぐっと拳を固め、支えることを拒んだ。
「ど、して……?」
なぜ、俺を殺すのか。
訴えかける視線から頑なに目を逸らす。
不規則な呼吸が湿って首筋を濡らした。
「っる、さない……」
それが、最期だった。
どさり、と音を立てて、男が死んだ。
「カーット! OKです、休憩15分入りまーす!」
はっ、と我に返った。
夢を見ているような心地だった。ふわふわと浮ついたものではなく、汚泥の中で溺れるような夢だ。
目の前で、死んだ筈の男が立ち上がった。
何故だ、何故死体が立ち上がる。
違う、何を考えてるんだ、こいつは死んでない。
死んだ振りをしただけだ。
俺が殺した。
「どうしたんですか、真っ青ですよ?」
死体が喋った。
燃えるように痛む胃を押さえて洗面所に駆け込んだ。
吐いても吐いても、楽になれない。
全身を熱いのか冷たいのか分からない汗が流れる。目の奥で光が明滅し、平衡感覚が失われてゆく。男の死体が脳裏にちらつく。
――違う、あれは死体じゃない。
失われて行く血。
――違う、あれは血じゃない。
あの目が、裏切り者だと責める。
――違う、違う、違う。
俺が、殺した。
――違う、殺したんじゃない。
アイツを、殺した。
アイツを――――
――――誰を?
「大丈夫ですか?」
鏡の中に、男が立っていた。
死んだ筈の男が立っていた。
何故。
「酷い顔だ」
鏡の中で、男が背後から覆い被さって来た。血まみれの指が、俺の咥内に侵入する。
「吐いて楽になるなら、もっと吐いた方が良い」
容赦なく喉奥を突く指に、胃液だけを吐き出す。
息が上手く出来ない。
気持ち悪い。
頭が割れる。
「可哀想に」
耳鳴りの中で、男の声だけがやけに響いた。
ふらついた身体を、男の両腕が支える。
その絡めとるような腕に、云い様のない恐怖が募った。
何故。
「やめ……ろ……」
「可哀想に」
男はもう一度そう云って、あやすように俺の髪に口付けた。
何故。
「殺すのは怖かった?」
「……ころ、して……ない」
「殺したの、忘れた?」
「……っころしてない……!」
首筋に掛かる息で、男が笑ったのがわかった。
そして、また「可哀想にね」と呟いた。
何故。
「おま……え、は……誰だ……」
ずるずると崩れて行く俺を、男が覗き込んで、笑っている。頬を撫でる指が、優しすぎて、恐ろしかった。
何故?
「俺はね、」
闇が俺を呑み込んだ。
俺はアンタが××した男
END