月 そう云えば、ここ数ヶ月と数日、竜の旦那の顔を拝んでいないと気付いて、俺は軽い気持ちで奥州へと飛んだ。
月の出ている晩だとて気にならなかった。
いつもと違う趣で竜と相見えるのも楽しそうだと思った。
月の綺麗な夜だった。
すっと天井板をずらして部屋を覗くと、そこは天井裏よりは少しは明るいかという程度の暗闇だった。灯りはない。外に月明かりはあったが、それを招き入れる障子は閉ざされ、薄明かりが滲んでいるだけだった。
すでに眠っていていもおかしくはない時間だったが、多忙な竜が今時分に眠るのは珍しい。
気配を探ると、やはり竜は起きているようだった。
「――――佐助、か」
懐かしいとすら感じる竜の声。長旅の疲れも薄れるような気がして、軽い気持ちのまま部屋に降り立つ。
「こんばんは、竜の旦那。お久しぶり、元気してた?」
「テメェは相変わらずだな」
あまり機嫌が良くなさそうだと思いながら、竜から少し離れた場所に膝を突いた。
機嫌が良くないのは、その気配からも分かる。
どことなく、ぴりぴりと――まるで六爪を掲げて戦場を駆け抜けるあの稲妻の姿にも似た気配を微かに漂わせ、それでいて静寂を纏った竜が柱に背を着けて座している。その手元には短刀があった。
手に取りこそしていないが、その様子に俺は少しだけ戸惑った。
何を警戒しているのだろう。暗殺の噂は聞いていない。たとえ知らぬところでそれがあったとして、このような姿で夜を過ごす竜はらしくないと思った。
「ねえ、どうかした?」
「別に」
声音はいつもと変わらないように聞こえる。
だが何かが違う、と本能が告げる。それが何なのかまでは分からない。
「なんで来た」
「え?」
「……今夜は満月だろ。忍びの仕事には不向きじゃねえのか?」
「うん、まあ。でも久しぶりに旦那に逢いたかったし」
「ふぅん……」
あれ?
いつもならここで、「馬鹿じゃねえのか」とか何とか。辛辣な台詞を吐きながら、その実、楽しそうに左目を綺麗に細めて笑うだろうに、本当に今日はどうしたのだろう。
僅かな月明かりに照らされる顔は、気怠げに伏せられていて、その姿はとても美しかったが、一切の感情を読ませなかった。
本当に、どうしたんだろう。
何があったというのだろう。
そう思っていると、
「――――悪い、佐助。帰ってくれねえか」
「――え、」
初めてだった。
出てこい、と云われたことは数あれど、帰れと云われたことは一度もない。こうして部屋に忍び込むこと自体、自分で感じているほど数を重ねているわけではないと知っていても、それでも自分とこの竜の間には、何か特殊な、見えない繋がりがあるのだと信じてしまう程だというのに。
それを、目の前で否定された気がした。
「――そっか。ごめんね。……また、来ても良い?」
馬鹿げたことを云っていると思う。
この竜が応と云おう否と言おうが、どうせ自分はお構いなしに、来る時には来るというのに。だが、それが分かっていても、竜の口から聞きたかった。また今度な、と仕方なさそうに。それが駄目なら、もう来んな、と優しい目をして吐き捨てて。
でも、現実は違った。
「後日、信玄公に使いを遣る。……佐助、――――お前はもう、来るな」
すぅっと、心が冷えていくのが分かった。
本気だと、分かったから。
機嫌が悪いせいでもなく、茶化すわけでもなく、彼が本音から語った言葉だと、痛いほどに分かってしまったから。唐突に思い出した。
――そうだった、俺は忍びだった。
忘れていたわけではないけれど。
――アンタの前でだけは、何故かそれでも許されるのだと思っていた。
そんなはずはないのに。
彼は殿様で、俺はただの忍び。
終わりも何もない、始まりさえ訪れない関係だと、誰もが分かっていることだというのに。
――ああ、そうか。
彼は知っているのか。俺の心にいつのまにか宿っていた感情を、聡い竜は見抜いていたのか。だから俺は不要になったのか。
それなら、そうと――――云ってくれれば。
「分かったよ、もう来ない。さようなら、竜の旦那」
笑えるくらい、俺の声はいつも通りで。
やっぱり、根っからの忍びなんだなと自嘲するしかなかった。
「ああ、そうだ。お土産があったんだった。俺、いらないし、最後にこれだけ貰って?」
負け惜しみでも何でもない。
その時の俺は本当に忍びそのもので、不要なものなどいらなくて。その時までは確かに大事と思って懐に仕舞っていたそれを、竜の膝の上に放った。
それは彼の膝に当たり、弾かれ、ことことと転がって彼の手の届かないところで止まった。まるで今の俺を表しているようで、ひどく滑稽だった。
「じゃあね」
さようなら、もう二度と――、
「――――佐助」
月夜に染み入る声。
応えがないことを知った竜は、ひとり嘆息した。
「…………行ったか」
ぼんやりと月に照らされた顔には、うっすらとした笑みさえ浮かべ。
「これで良いじゃねえか……」
背を柱から浮かせ、畳に手を伸ばす。
ひたひたと手探ると、指先にそれが触れた。
「……櫛?」
形の揃ったその細い歯をそっとなぞり、施された細工に指の腹を押し当てていく。
「あの馬鹿、こんな上物をどこで」
くつくつと喉を震わせた竜は、櫛を髪にあて、くしけずりながら、つぅ、と涙を零し――忍び泣いた。
「旦那――――……」
「…………ッ!」
びくりと震えた細い肩。
弾かれたように、指から櫛が落ちた。
濡れた隻眼は、強固なまでに一点を見据えていた。
何もない、空の一点に。
「……さす、け」
「旦那……」
「さ……、す、け」
「俺は、ここ――だよ」
手を伸ばし、触れると、竜が怯えたように身を引いた。その腕を引いて胸に頂くと、声にならない悲鳴が彼の肌を伝って俺にまで聞こえた。
「旦那、旦那……」
「あ、あ、あぁ、あああああッ!!!!!」
一体、俺に何が云えただろう。
堰を切ったように慟哭する竜の悲しみを、どうして癒すことが出来ただろう。
俺はその時、何を見ていたのか、後になっても思い出せなかった。
彼の見ていた虚空か。
彼の手から落ちた櫛か。
――もはや何も映さぬ、その瞳だったのか。
あるいは、常のように月のない晩であったなら。
――俺は気付くことなく。
あるいは、潔い鋼の心を持っていたならば。
――俺は振り返ることもなく。
気の迷い、ただの過ち、そんな言葉で二人の縁は断ち切られていたのだろうか。
ただ分かるのは、断ち切られなかったその縁に、確かに悦んでいる自分がいるということだけだった。
END