慰 夜も更けた城内、それも主が休む部屋にあってはならない気配を感じ、思わずそれに気を取られた政宗は、書きかけだった書に乱れが生じたことに舌打ちをした。
心を鎮めるように、ひとつ溜め息を吐き、手にしていた筆を置く。そして、
「どこの忍びか知らねえが、俺の邪魔するたぁ、良い度胸じゃねえか」
低い声で、前を向いたまま唸るように云うと、本来ならばただ消えるべきである気配が、こそと陰で笑った。
「まぁ、怖い! 竜と呼ばれるのは、その凶暴さが由来だったりするわけ?」
やけに楽しそうな声が天井裏で笑う。と同時に、政宗は懐剣を投げつけていた。
「やっぱり凶暴なんだぁ」
気の抜ける飄々とした声が、政宗の背後からした。
馬鹿な、と振り返る隙もなく、首筋にひやりとしたものが押し当てられる。
それは強くもなく、弱くもなく、ただ存在を政宗に知らしめるだけで、そのことが余計に癪に触った。
「ふざけてんのか、テメェ……」
「あらら、怒った? どうしたら機嫌直してくれるのかなぁ?」
「Shit!」
首に傷を負うことを承知で、政宗は振り返った。もはや得物はなく、手練の忍び相手に素手でやり合う愚を知りながらも、気が収まらなかった。
「……っ!?」
痛みはなかった。
ただ、
「あ、驚かせちゃった?」
振り向いたものの、間近に迫る面妖な顔に、政宗は不覚にも動きを止めた。
狐。
深い緑色の装束を着た狐が、そこにはいた。
もちろん本物ではなく、ましてや物の怪でもない、ただの狐の面当てをしているだけなのだが、視界一面に飛び込んだそれに思考がついて行かなかった。
気が付けば、政宗は押し倒されるように畳に背中を付けていた。
あまりの屈辱に、視界が赤く染まったように感じた。
そんな政宗を狐が嗤って見下ろす。
「焦っちゃって、かぁわいいー」
口元だけが露になった面は忍びが笑んでいることを教えたが、その嘘くささに政宗は一層の嫌悪感を覚えた。
弄ばれている。
奥州筆頭、伊達政宗ともあろう者が。
もしこんな姿を家臣にでも見られたりしたら――。
ぞっとした政宗は、渾身の力を振り絞って忍びを払い除けようとしたが、金縛りにでもあったかのように身体の自由が利かなかった。忍びは指先で額に触れているだけで、それも殆ど力をかけていないにも関わらず。
「だぁめだよ、暴れちゃあ。怪我するよ?」
「テメェ……、どこの忍びだ」
「それは内緒。お山の狐とでも名乗っておきましょうか、あ、見れば分かるか」
あくまでも人を小馬鹿にする喋り方に反吐が出る思いだったが、依然身体は思うように動かない。話し声が聞こえているにも関わらず、隣に控えているはずの近習たちが出て来る気配もなかった。
殺されたか、良くて眠らされたか。
どのみち、この忍びが何かしらの手を打ったのだろう。
無駄な足掻きをしても体力を消耗するだけだと判断した政宗は、隙を窺うことにした。
この狐に隙があればの話だが。
「あら、大人しくなった? いいこ、いいこ。大丈夫だよー、今日の所は殺さないから。このままいいこにしてれば、ね?」
そう云うと忍びは空いていた手で己の口に何かを含み、そのまま政宗の上に覆い被さった。
「ぐ……っ」
体温を感じさせない唇が、政宗の口腔に合わさり、ぬるりとした感触を伴って舌が侵入した。咄嗟に噛み合わせようとした顎を、忍びの指が押さえつけ、その舌を噛み切ることも出来ぬまま、苦みを感じる。
――毒か!?
見開いた左目が、面の奥から僅かに覗く瞳とかち合った。浮かべていた笑みとは違う、鋭く澄んだ眼差しに、政宗は瞬きをすることも出来ず、なされるがままに口中に含まされたものを嚥下した。
死を覚悟した。
今日は殺さないと云った忍びの言葉を信じるはずもない。
忍びの目がにやりと笑ったのが分かった。
「殺さないって、云ったでしょ」
濡れた唇を舐め上げながら云う忍びを、政宗はどこか他人事のように聞いていた。
くらりと目眩がする。
みっともなく畳の上に横たわっているはずが、倒れそうだと感じて、咄嗟に縋るように忍びの装束を掴んでいた。
不思議と身体が動いた。
もはや忍びは身体を拘束していなかったのだ。
だが、それでも起き上がることは出来なかった。
「……て、め……何を……し、た…………」
舌すらもまともに動かない。
痺れているというよりは、どんよりと身体全体が重かった。
それでいて視覚と聴覚だけが鋭敏に研ぎ澄まされているようで、忍びの姿と声が脳裏に飛び込み蹂躙する。
「ちょっと素直になってもらおうかと思ってね」
悪びれた様子もない忍びが、政宗に覆い被さった姿勢のまま、愛おしげとも云える仕草で、頬に掛かる政宗の髪を払った。
「ねえ、独眼竜――……うーん、呼びにくいな……よし、『竜の旦那』、これからアンタは『竜の旦那』だ、そう呼ぶよ、良いね?」
忍びの声が木霊する。
知らず、政宗は頷いていた。
「いいこだ」
そうして忍びは何度も「いいこ、いいこ」と言いながら、政宗を赤子のようにあやした。
不思議と怒りは湧かなかった。
ただ、忍びが嬉しそうに笑って髪を撫でると、政宗の胸は泣きたいほどの歓喜に包まれた。この男の望みなら何でも叶えてやろうと思った。
「さて、そろそろかな」
忍びの呟きは、政宗には届かなかった。
「ねえ、竜の旦那」
殊更優しい声で忍びが云った。政宗は一言も聞き漏らすまいと、じっと忍びを見上げ、耳を傾けた。
「旦那はどうして天下を取りたいの? 一番になりたいから? 負けたくないから? それとも国のため? 家のため?」
「……あ、……お、れは……」
「うん、云って?」
「民の、……た、め……に」
「民のためなんだね。それは、尊敬されたいから?」
「ち、がっ……た、だ……民の……」
「本当に?」
男にまっすぐ見つめられ、確認されるように問われると、政宗は自分でもそれが正しいのか分からなくなった。本当のことを云わなければ、と必死に考える。
「お……お、れが……当主だ、から……?」
「当主だから? 家のために?」
家。
――家。
伊達家。
――伊達家のために。
違う。
――そうじゃない。
「っ……ち、が……ちが、う……俺、は……だから……そう、しなきゃ…………てる、……ちが、な……」
「ごめんね、旦那、よく聞こえないや。もう一度云って?」
男の望む通りに答えられなかったことが悲しくて、政宗は泣きそうになりながらも声を振り絞った。
「てん、か……取れない、と……俺にっ、は……きてる、かちが……ない……っ」
「…………『天下を取れなければ、生きてる価値はない』?」
政宗は何度も頷いた。
「どうして?」
どうして。
――どうして?
分かりきったこと。
「俺、は……いら、ない……こ、だ、から……」
「…………誰が云ったの?」
「は……は、う、え…………」
「…………そう」
母上。
美しい人。
俺を生んだ人。
俺を見捨てた人。
見てくれない。
何故、見てくれない。
こんなにも頑張っているのに。
貴女が誇りに思うような人間になろうと努力して。
努力して。
――努力して。
まだ、足りない?
あとどれくらい足りない?
たとえば、天下を取れば。
そうだ、天下。
欲しい。
――欲しい。
「……て……天下、とった、ら……きっと……はは、うえが、見て……お、れを、見て……」
無意識に眼帯の上から右目を掻きむしっていた政宗の手を、忍びの手が掴んで止めた。
「もう良いよ」
忍びの顔から、笑みが消えていた。
そのことに気付いた政宗は、押し寄せる悲しみに耐えきれず、嗚咽を漏らした。
「ご、ごめ……ごめ……なさ…………っ」
掴まれていない方の手で顔を覆い、政宗は身を庇うように身体を縮めようとした。
見せてはいけない。
こんなみっともない姿を人目に晒してはいけない。
「――――違うよ、怒ってない。怒ってないよ。ごめんね。謝らないで。ごめん」
忍びは、そんな政宗を抱き寄せた。
「ご、め……なさ……っ、ひっ、う……うぅう……っ」
「――――ごめん」
なおも逃げようとする政宗を抱き、忍びは後ろめたい気分を味わっていた。
――ああ、失敗した。
こんなことになると知っていたら、薬は使わなかった。使うにしても、快楽に溺れるように仕向けるなり、解毒剤を振りかざして致死毒を飲ませるなりしたのに。
ただ、人となりが知りたかった。
綺麗事を並べ立てる武将の薄汚い本音を知りたかった。
鼻っ柱の強い男の矜持をへし折ってやりたかった。
ただ、それだけだったのに。まさか竜と呼ばれ恐れられる男の内に、こんな孤独があるとは。
泣きじゃくる男は愛に飢えた子供だった。
ただ母の愛だけを求める哀れな子供だった。
それでいて、その泣き顔は人の心を惑わせるほどに美しい。闇に塗れた忍びの心すら動かすほどに。
忍びは優しく政宗の髪を梳くと、とめどない涙に濡れる白皙に唇をあてがい、温かなそれを掬い上げた。
「……だ、め……だめ……っ、さわ……らな……きたな、い……っ」
「汚くなんかないよ」
「う、そだ……みんな、みんな……みにくい、って云……っ」
「醜くない」
「みん、な……っ」
「綺麗だ。アンタは綺麗だ――」
何度も何度も、壊れかけた子供の心を慰めるように、頬に、額に、瞼に。
子供とは違う、朱く色付いた唇に、口付けた。
唇へのそれは、徐々に深みを増し、忍びの心をざわめかせた。
――ああ、失敗した。
だが、もう何の後悔も役に立たないことを、忍びは己の身体で知ってしまった。
「ごめんね、竜の旦那」
心だけでなく、
「――許して」
身体も傷付けてしまうけれど。
明日にはきっと、忘れるから――。
こんな方法しか、知らないけれど。
今だけアナタを――慰めさせて。
竜が、啼いた。
END